*...*...* Albinoni *...*...*
 第一志望の高校に入れた。
 入学式も済んだ。
 クラスのヤツの顔と名前も大体一致し始めた。

 ── なんか、ほんと、星奏学院に入ってからのおれは、毎日、朝が来るのがすごく楽しみだったりする。

 中学って地元の近所のヤツばかりだったからなー。
 まず、いろんな街からいろんな電車を乗り継いでいろんなヤツがこの学院に来るってことが新鮮で。
 自分も電車通学のくせに、電車に乗って通ってるって聞くだけで、中学と違うって思っちゃう。
 みんなの通学経路を聞いて、今度あいつの家に遊びに行ってみよう……。
 なんて考えるだけで、自分の視野が広がるような感じなんだよね。

「あーー。やっぱり、ダメだったか」

 おれは練習室の予約表を見て頭をかいた。
 練習室の予約方法。これも今日ようやく覚えた新しい手順だったりする。

 防音とグランドピアノを備えた星奏学院音楽科棟の練習室。

 落ち着いた雰囲気の内装と、密室が作り出す集中力の高さから、すっごい人気なんだぜ。
 って、昼休みにクラスの長柄から話を聞いたのが今日。
 もしかして、まだ空いてる部屋あるかな、と思って授業が終わったら飛び出してきたのにな。
 結果はどうやら惨敗みたい。

 見ると、2年生3年生の先輩たちの名前がびっしりと書き込んである。
 中にはマメに、予約できるぎりぎり2週間先まで書き込んでる人もいる。

「そうだなー。外で練習っていうのもいいけどなー」

 おれは振り返って、窓の向こうに広がる空を眺めた。
 今週末にはGWに入るってこともあって、クラスメイトの誰もがどこか伸びやかな顔をしていた午後。
 空はそんなおれたちの味方のように、絶好の 上天気でおれに笑いかけてる。
 森の広場で思い切り自分の相棒を吹き鳴らすのもいいよね。

 ── けど。

 昨日知らない先輩に叱られたんだよなー。お前のブレス強すぎって。もっと控え目に鳴らせよ、って。
 でも、でもさ。おれのトランペットは気持ちを抑えて吹くモノじゃないと思うんだよね。

 んー。どうすっかな。
 せっかく思い切り吹き鳴らしたい気分だったけどしょうがないな。
 ここは、ちょっとだけ顔を出して、まだ入部するかどうか決めてないオケ部の様子を見に行こうかな。
 雰囲気もいいし、みんなで何か作り出すってすっごく楽しいし。
 なんなら、今日入部届を出しちゃってもいいかも。

 そっか。そうしよ。ちぇ。ちょっとつまんないけど、そうしよ。
 そうだよ。練習室を使うっていうのは、GW明けのお楽しみってことで取っておこう。

「……火原、だよね? どうしたの?」

 予約表を指で弾いて、身体の向きを替えたそのとき。
 背後から柔らかい声が飛んできた。
 この声は知ってる。おれが学院に入って、初めて耳にした声。
 おれはどこかほっとして笑顔になると、予約表を指差した。

「柚木! ねえ、見てよ、ほら、練習室の予約、いっぱいだったんだ」
「ああ。これ? ── 2週間先まで予約できるからね。
 当日来て、当日予約っていうのは難しいかもしれないね」
「そうみたいだね。あー、残念。今日は思い切り こいつのこと吹いてあげようって思ってたのに」

 入学したその日に出会った、星奏での初めての友達。
 ── 柚木は、おれの不満げな顔を見てとると、口元を綻ばせた。

「じゃあ、僕と一緒に練習しようか? 僕、今から練習室の予約取ってあるから」
「え? っていいの!?」
「もちろん。昨日森の広場で火原の音を聞いたよ。元気いっぱいの良い音だよね」
「うっわー。嬉しいな。ありがとう! おれね、一度入ってみたかったんだ。練習室に」
「そうなの? どうぞ」

 柚木はそう言うと、落ち着いた態度で練習室のドアを開けた。
 柚木のその仕草は、まるで10年も前からこの練習室を使ってますよ、って言わんばかりの物慣れたモノで。
 うーん。やっぱり、入学式の時、おれが柚木を先輩と間違えたのも仕方ないよな、って思う。
 特に後ろ姿じゃ、学年の違いを表すタイの色も見えないし。

 って、同級生なんだよな〜。おれと柚木って。
 んー、柚木とおれって誕生日が半年くらい違うって話だったっけ。
 ってことは、じゃあ、おれも2年生になる頃には、こんな風に落ち着いていられるのかな?

「ね、ねえ! すごいね、この雰囲気!」
「ふふ、そう?」

 おれは練習室の中を見回してため息をついた。
 落ち着いたムードのある壁紙。濃い木目調の床もこっくりとして落ち着いてる。
 っていうか、星奏って中学の時のオンボロ校舎と何もかも違う。
 どこか品の良い学校なんだよな。星奏って。

 おれってば入学して3日も経たないうちに、昼バスの後は暑いでしょー、と言わんばかりに、制服の中にTシャツを合わせて着崩してる。
 けれど学院の規定通り制服を着こなしてる柚木は、品の良さというところでも、この学院にすごくしっくりきているような気がする。

 柚木は長い睫を伏せると、フルートケースを手に、手際良くフルートを組み立て始めた。

「火原。君は何か吹きたい曲はあるの?」
「え? えーっと。せっかくだから、柚木のフルートと合う曲がいいな。
 中学の時って近くにフルーティストがいなかったんだ。んー。どんな曲が合うか知ってる?」

 基本的にトランペットもフルートも管楽器だから、どんな曲も合わないことはないんだろうけど。
 やっぱり違う楽器だもんなー。音域も微妙に違うし。

 どうしよう。

 おれがトランペットじゃなくてピアノを伴奏するっていうのも、できないことはないけど。
 おれのピアノのレベルって星奏に良く受かったよね、って語り草になってるレベルだし……。
 なにより今日は、思い切り吹き鳴らしてみたいんだよな、こいつを。

 柚木は軽く顎に指をあてておれの顔を見つめてたけど、なにか思いついたらしい。
 優しい笑顔を浮かべると、近くにあったピアノの椅子を目で指し示しながら言った。

「いいよ。じゃあ僕が教えてあげる。火原、最初は僕の作る音を聴いていて」
「あ、うん」

 柚木はおれが指使いを見やすい位置で形良くフルートを構える。

 ── うっわ……。こいつ、すごい雰囲気があるっ。音が生まれる前から、優美な旋律が想像できるような。
 っていうか、初めて会ったときにも思ったんだよな。
 こいつってかなり整った顔、してる、って。
 そこらへんの女の子より女の子らしいような、柔らかな容姿。優しい物腰。

 ……うーん……。
 音楽って、音を楽しむって書くように、音が全てだと思ってたけど、違うのかな。
 目が受け取る音ってあるのかな……?

 音の隅々に優美な色がついたような柚木の旋律が、練習室中に広がる。

 スローテンポの曲って、指使いがラクな分、すごくブレスが難しい。
 スローテンポの曲とアップテンポの曲、吹奏楽にとってどちらが難しいかって言えば、前者の曲に決まってる。
 アップテンポの曲の方が聴き手にとってはリズムに乗れるし、難しいように感じるんだろうけど。
 ちょっとでも音楽を知ってるヤツは知ってる、基本的なこと。

 ── 柚木って、すっごく上手い……。

 端整な顔立ち。華奢な身体。
 そこから生まれる柚木のメロディは、華やかな中に、確かなリズム感とブレスの強さが光ってる。
 柚木は一曲弾き終えると、満足そうにフルートから唇を外した。

「すっごいよ、柚木! こんな難しい曲、吹きこなすなんて」
「この曲は、フレーズの山を緩やかに作ると美しさが際立つよね」
「ええっと、こう、かな? 聴いてて、柚木」

 おれは、今見た柚木の指使いを思い出しながら、ゆっくりと相棒に息を吹き込んだ。

 なんだろう、なんていうんだろう。
 おれは今まで元気いっぱいの音ばかり作ってきた気がする。
 自分を100パーセント、ぱぁ〜、っとさらけ出すっていうのか。
 ブレス100パーセントは100パーセント トランペットに吹き込めばいいんだと思ってた。
 けれど柚木の作った音は違う。
 ブレスを30パーセントにする代わりに、残りの70パーセントをブレスじゃないモノで表現しなきゃいけないんだ。

 むっつかしいなー。
 ── でもなんだろう。不思議な感じ。
 おれ自身が望む100パーセントの演奏に近づくまでのもどかしさが、柚木の前では気持ちいいような気がする。

「どうかな? どうだった?」

 自分のピストンキーばかりにらみつけていたおれは、吹き終えてから改めて柚木の顔を仰ぎ見た。
 柚木は驚いた表情を浮かべて、おれの顔を見つめている。

「ねえ、火原。君、アルビノーニのアダージョの旋律、知ってたの?」
「ううん? 今初めて聴いたよ? ビックリした。こういう曲もあるんだねー」
「なるほど。ソルフェージュが完璧、ってことだね。── じゃあ、今度は僕と合わせてみよう?」
「うん! よっし。吹くぞーー」

 柚木のアイコンタクトで、おれと柚木の音楽が生まれ始める。
 わ……。すっごく合わせやすい。顔と顔が近いからかな。お互いの息継ぎもよくわかるし。
 柚木って、リズム感も完璧なんだ。
 完璧さが余裕になって、おれとの音にゆっくりと合わせてくれてるって感じがする。
 ……こんな寂しげな曲調が、こんなにおれに響いてくるなんて。






「── なーんてね。おれと柚木が高1の時の話だよ。懐かしいな〜」
「そうだったんですか……。そのころから先輩たちは仲良しなんですね」
「うん! 柚木はおれの親友なんだ。なんか、今までのおれの友達とちょっと系統が違うけど。
 大事なヤツってことには代わりがないよ」

 目の前の女の子は膝に抱えたヴァイオリンを撫でながら、思慮深そうな顔をして、首をかしげた。

「んー。でも分かるような気がします。
 だって私も柚木先輩、火原先輩、2人の音の中にいると、ほっと安心するんです。
 自分の音が萎縮しない、っていうのかな……。のびのび弾けるんです」
「そうなの?」
「はい。ね、もう1度、音合わせしましょうか?」
「オッケイ!」

おれは日野ちゃんに釣られるようにして立ち上がった。
教会でのバザーももうすぐだしね。もう少しお互いの音を合わせ込まなくちゃいけないとこ、あるよね。

「── そっか、だから、なんだ……」
「ん? どうしたの。日野ちゃん」
「あ、なんでもないです。じゃ、いきますよ〜」

 日野ちゃんは小さく独り言を言って笑った。
 北の空が高い。
 ── おれの、学院生活最後の秋が始まる。
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