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 午後からの授業。
 私は、ノートの上、金澤先生から渡された、『創立祭コンサート要項詳細』の紙をたたんだり広げたりして、ため息をついていた。
 古典の先生の声が、遠くから聞こえる。

「というわけで、明石の君は、筝の琴や琵琶の名手だったんですね。
 今のような娯楽が、たくさんある時代ではなかったので。
 音楽、というのは、とても大きな存在であったと考えられています」

 音楽……、か。

 音楽、というフレーズから、私の集中力は、また教科書から空想の世界へ飛んでいく。
 夏休み前に終わったコンクールを思い出す。
 多分、リリがいなかったら、3年間合うことも話をすることもなかった人たちと、こんな風に親しくなれた。
 ヴァイオリンが、大好きになった。
 もっと、知りたい。続けていきたい、ってそう思った。
 夏休み中、星奏の練習室に篭もって、基本の指遣いも何度も練習した。

「さて、途中は省略して、次は玉鬘の章へ行きましょう」

 早くも授業は、明石の章を終えて、玉鬘の君が登場している。

「玉鬘の君は田舎育ちで、当時の基本的教養の1つである、楽器に触れたことがなかったんですね。
 それを恥じて、光る君はいろいろ指導をする……。
 そんなそぶりを見せながら玉鬘にちょっかいをかける、と。
 いつの時代も男は変わらない、ということでしょうか?」

 先生のおどけた口調に、級友たちの笑い声も漏れる。
 『楽器』や『音楽』ってキーワードが入るたびに、私の意識は授業へと向かっていく。

「日野さん? ふふっ。どうしたの? 今日はなんだか落ち着かないね」

 隣りに座っている加地くんが、私の教科書を覗き込んで、次のページをめくった。

「あ、ありがとう。加地くん」
「昨日の君の演奏、素晴らしかったよ。重厚な教会の中の、ヴァイオリンの調べ……。
 なるほど、西洋の古人は、音と石の相性がどれだけいいか、ってことを経験から知っていたんじゃないかと思うくらいだ」
「うん……」

 いつもこちらが気恥ずかしくなるほどの賛辞を送ってくれる加地くん。
 本当に不思議な人……。

 高2の後期という、普通なら考えられない時期に転入してきた、加地くん。

 持っているシャープペンが素敵だの。ため息をつく様子が可愛らしいだの。
 どうして、私のやることなすこと1つ1つを褒めてくれるのか、分からない。
 大体、褒められることに慣れていない私は、そのたびに過剰反応して、あたふたしてしまう。

 夏休みが終わって、いきなり転入生がいる、って聞かされた。

『この時期に珍しいね。男の子? 女の子?』

 私がのんきに尋ねると、早速情報を仕入れてきたらしい須弥ちゃんが息せき切って言った。

『男! しかも、超美形らしい。しかも編入試験、ほぼパーフェクトだったんだって』
『パ、パーフェクト?』
『満点ばっかり、ってことでしょ。あーー。早く見たい!』

 その転入生さんは、今、私の隣にいる。
 こうして席を並べるようになって、もうすぐ半月が経とうとしている。

「日野さん?」

 私の浮かない返事を聞いて、加地くんは困ったように声をひそめた。

「あ! あの、ごめんなさい。あのね……。
 加地くんならわかったと思うけど、昨日の教会のバザーのコンサート、私、自分では納得できてなくて……」
「……うん。それで?」

 加地くんはそっと椅子を私の方に寄せて、聞く体勢を作っている。
 一番後ろの席とはいえ、授業中。
 午後からの授業は、ちょうどいい満腹感と睡魔が寄ってくるのか、教室中、ぬかるんだような、生暖かい空気に包まれている。
 私は、先生が読み上げた箇所に薄く線を引きながら話し続けた。

「でね。さっきの昼休み、金澤先生から、創立祭コンサート参加の案内をもらったの。
 私にできそうにないなあ、って」
「日野さん、その案内、見せてくれる?」
「うん。いいよ」

 どうしてだろう。演奏するのは好きなのに。
 そして、私は一人で演奏するより、土浦くんや冬海ちゃん、火原先輩と演奏するのがとても気持ちいい、って思ったのに。

「あ、私……。もしかして耳が悪いのかな?」

 普段の生活じゃまるで意識していない、私の耳。
 普通に人とお話できるし、英語の発音も、耳からだいたい聞き取れる。
 だけど、アンサンブルに必要な耳、っていうのは、普段の生活で使う耳とは、また別の生き物なのかもしれない。

 音程のズレや、テンポのズレ。
 土浦くんは、それらを聴き取るのがすごくうまい。
 火原先輩も、オケ部の本領発揮、って感じで、完璧だとさえ感じた。

 ── 私は?
 ……正直3人の音に合わせるのが精一杯だったように、思えてくる。

 加地くんは真剣な表情で要項を覗き込むと、眉根を顰めている。
 も、もしかして私、図々しい相談を持ちかけちゃったのかも。
 私は、加地くんの袖をひっぱると、彼の注意をこちらに向けた。

「ごめんね。ヘンなこと相談しちゃって。あの……。いいの。放課後、金澤先生にお断りしてくるね」
「そんなもったいないこと、日野さんはしなくていいよ!」
「わ、あ、あの、加地くん?」

 加地くんは、私が渡した案内の紙を半分に畳むと、今までの小さな声とは裏腹の、怒ったような大きな声を上げた。

「ちょっとそこの2人。話し合いならもう少し、静かに。寝てる人も起きちゃうでしょう?」

 さすがに、私たちの状態はマズいと思ったのか、古典の先生は、重そうなまぶたを上げて、私たちを指差している。

「わ、先生。あの……。すみません……っ」
「先生、いやだな。僕たち、みんな起きてますよ。真剣に先生のお話、聞いてますって。ねえ」

 加地くんの絶妙な合いの手を打つ。
 ヒマを持て余していたらしいクラスメイトは、微笑とも苦笑とも取れないような曖昧な笑顔で、私たちを振り返った。

「まあ、よろしい。授業もあと10分ですからね。集中しましょうね」
「……すみませんでした」

 とっさに席から立ち上がっていた私は、ぺこりと一礼すると、神妙に席に着いた。
 ど、どうしたんだろ……。加地くん。

 先生やみんなに注意が再び授業に向かった頃、加地くんは真剣な表情で私を見据えた。

「あのね。日野さん。君の実力はあんなアンサンブル1回だけで評価される、軽々しいものではないんだ。
 だから、気にしなくていい」
「加地、くん?」
「ピアノ伴奏に、管が2本、弦が1本のアンサンブル。あの組み合わせでは弦が苦しいのは当たり前だから」
「はい?」
「僕だったら、君の音を最大限に生かすように、最高の努力をする。
 ヴィオラはチェロとヴァイオリンの中間音だし、君をどこまででも引き立ててあげられるよ」

 淡々と、昨日の教会コンサートの感想を、しかも、かなり専門的なことまで告げる加地くんの横顔。
 そこには、音楽に精通している人共通の、理路整然さと、さわやかさがあった。
 これってもしかして……。

 普通科にいたって、土浦くんのような素晴らしい音色を作る人だっている。
 私も、まだまだ練習中だけど、こんなにもヴァイオリンが好き。
 そもそも、普通科だからって、加地くんが楽器を演らない、という連想は間違ってて。

 もしかして、この人は、知ってるのかな?
 弦の美しさも。それらが作り出す音色も。切れたときの痛みも。……全部、私以上に。

「加地くん、って……。もしかして、ヴィオラを?」

 私の質問に加地くんはおどけたような笑い顔をして、私に要項の紙を手渡した。

「あ! ああ。って、まあ、ここまで言ったらカミングアウトしてるのも同じ、って感じだよね。
 まあ、いいや。僕のことは、ともかく。── 君はアンサンブルを辞めるなんて言わないで」
*...*...*
「ウメちゃん、ちゃんと伝言してくれるかなあ……」

 昼過ぎになると爽やかな風が通り抜ける、放課後の森の広場。
 金澤先生を捜すために、ひょうたん池まで脚を伸ばしてみたけど、そこに先生はいなかった。
 仕方なく猫のウメちゃんに、私が来たことを伝えてね、って言付けてきたけど、ウメちゃんだってウメちゃんの事情がある。
 ひょい、と、近づいてきた小鳥に気を奪われて、私との約束は忘れてしまうかもしれない。

「もしかして購買、かな?」

 いつも大人気のパンのコーナーは、放課後になるとまた少しだけ仕入れ直すのか、お昼にはなかった種類の菓子パンを出すことがある。
 火原先輩みたいに、全種類のパン、制覇するんだー、なんて野望が金澤先生にあるとは思えないけど、
 もしかしてエントランスにいてくれるかな……。

「うーん。見当たらない、かな……?」

 エントランスに入って2、3歩。

「香〜穂!」

 周囲をあちこちと見回していた私の肩をたたく人がいる。
 この明るい声は……。多分。
 私は目の前の人の笑い顔につられるように微笑み返すと、声をかけた。

「あ、天羽ちゃん。どうしたの。特ダネを見つけた、とか?」
「なに? 香穂。なにか特ダネ持ってるの?」
「あはは、今日は、ない、かな?」
「なんだー。って、それより、私があんたに用事があったのさ」
「なあに?」

 天羽ちゃんはカメラを持つ手とは反対の手に携えていた大きめの紙袋を私に手渡した。

「これさ、夏休み前のコンクールの時の写真なのよ。報道部で撮ったヤツ。
 ぜひもらってやってよ。可愛く写してあげたからさ」
「あ、ありがとう。いいの?」
「いいのいいの。ちょっと見てよ。これなんて、将来の見合い写真にも使えそうな、イイ出来でしょう?
 私のイチオシなんだ」

 天羽ちゃんは紙袋の中に手を滑り込ませて写真を取り上げると、パラパラと捲って自慢げに声を上げた。

 まず最初に、写真の大きさに目を奪われる。
 わ、いつも使っているノートよりも大きい写真、って、七五三、とか、たまに撮る家族写真以来、かも……。

「わ、なんだか恥ずかしいね。こんなに大きいの……っ」

 感極まってウルウルしている目の中の涙まで はっきり写っている写真は、演奏し終えた直後の感情まで連れてくる。

「待って、2人とも。ちょっと割り込ませて」
「って、わっ!! ビックリしたー。誰かと思えば加地くんじゃない」
「ねえ、天羽さん。この写真、ちょうだい。いや、売って!!」
「はぁ?」
「か、加地くん……?」

 突然現れた加地くんを見上げると、加地くんは、必死な表情で天羽ちゃんに切々と訴えている。
 手は既に写真を握りしめている。引っ張り返しても、びくともしない力で引き戻された。
 な、なんなの……? 加地くん、って……。

 天羽ちゃんは、唖然とした顔で加地くんを見つめた。

「あんたねえ。……恥、とか、外聞、とか。そこに本人がいる、とか考えないわけ?」
「うん。考えない。欲しいものは欲しいからね」
「ふふーん。そんなに欲しいんだ」
「当然。だって、僕は彼女のファンだもの!」
「って、また私、さっきのセリフ繰り返したくなっちゃうよ。あんたには、恥とか外聞とか……」
「だから、その手の類のことは、考えないってば」

 加地くんと天羽ちゃんがにぎやかにやり合っている間、私は天羽ちゃんに撮ってもらった写真を見つめ続けた。
 最後の演奏を終えた後、袖に戻った私が、泣きながらヴァイオリンを抱きしめている。

 無事演奏し終えたことへの安堵の涙なのか。
 これでようやくヴァイオリンから解放されることへの、寂しさなのか分からない。

 でも、今。ヴァイオリンが好きだ、って気持ちは、このときよりも強く持っている。
 それだけは、誰にも負けない。

 好きだ、って気持ちを信じて、もう1度、やれるかな?
 ううん、違う。やりたいんだ。
 何度でも、飽きるくらい、私は、ヴァイオリンが弾きたいんだ。

「やれやれ。加地くんってあんたの熱烈なファンなんだねえ。
 柚木先輩の親衛隊にもきっとココまでのファンはいないよ」

 加地くんと天羽ちゃんの間で、話がまとまったらしい。
 商談成立、と、加地くんは、ご機嫌でその場をあとにした。
 私は申し訳なさそうに頭を掻いている天羽ちゃんに抱きついた。

「天羽ちゃん、ありがとう」
「って、香穂、なに、いきなり!」
「気持ちが、決まったの」

 セレクションが終わった直後の、熱気と、想いがよみがえる。
 言葉を発しない写真に、こんな力があるなんて知らなかった。

 だったら。
 言葉を発することのできないヴァイオリンも、もしかしたら、写真と同じような力が籠もってるに違いないもの。

「私、もう一度、頑張ってみる!」

 私は天羽ちゃんの大好きな、『写真』から、力をもらった。
 ── 私も。


 私の大好きな、『音楽』で、お返しができますように。