さわさわと風が鳴る。
 それは加地くんの言葉とともに私の頬を通り抜け、ひょうたん池の表面を優しく撫でていった。

「……僕はきっと、君のファン第1号だって、自分では信じてる」
*...*...* Impression *...*...*
 今度の創立祭に、加地くんがヴィオラで参加してくれる、と聞いた日の午後。
 私は加地くんと初めて一緒に合奏をしてみた。
 春のコンクールメンバーのみんなとは、春も、そして、教会のコンサート前も、何度も音合わせをしたことがある。
 だけど、演奏を聴いたこともない人と初めて音合わせをする、ってやっぱりどれだけ場数を踏んでも緊張する。
 どの曲にする? と楽譜集を開きながら尋ねると、加地くんは笑ってかぶりを振った。

「君はいつもどおり、自由に奏でてみて? 僕はそのあとを追いかけていくよ」
「う、うん……。じゃあ、やってみるね?」

 言い方は優しいのに、そこには有無を言わせない強い力があって、私は言われるままにそっと弓を引いた。

 ヴィオラは、私の周りには弾く人がいなかったこともあって、まず最初に音階の違いに戸惑う。
 だけど、弦どうしっていうのは、すぐお互いがお互いの存在に慣れるのかな。
 曲の終わりの方には、初めて一緒に奏でたという事実がウソのように、滑らかなフレーズが森の広場中に響き渡っていった。

 加地くんは満足げにあごからヴィオラを外すと、うっとりとした表情で私を見入っている。

「あ、あの……? 加地くん?」
「『水上の音楽』か。ヘンデルの名作の1つだよね。君の音を聴くと、この曲の新たな一面が見られるような気がするよ。
 僕を陶酔境へといざなってくれる音が、こんな近くで聴けるとはね」
「そ、そんな立派な音じゃないよ、私……」
「ううん? 君のヴァイオリンの1音1音に、僕の魂は共鳴して震えるから。
 君の音って、聴けば聴くほど、聴かなかったころの自分を後悔したくなる音だよね。
 君の音は僕にとって、極上のシャンパンのように薫り高い音なんだよ」
「あ、ありがとう……。あ、あの、そうだ。もう1度、合わせてみない?」
「ふふっ。君のお願いを僕が断ると思う? お安いご用だよ」

 私は、加地くんの話を遮るように言葉をつないだ。
 加地くんは やや強引な私にイヤな顔1つ見せることなく、再びヴィオラを肩に載せる。

『君の奏でる音は、なんて言ったらいいんだろう。特別な音色がする。
 魔法がかかってるんじゃないかって思ったくらいだよ』

 初めて私の演奏を聴いてくれたとき、頬を赤らめた加地くんに早口でそう告げられた。
 その表情からは、茶化してる、とか、ふざけてる、といった様子はまったく見られなくて。
 私は素直に嬉しい、と思った。

 だけど……。

 転校してきて半月。
 優しい物腰と、成績。それに、端正な容姿。さっぱりとした性格も相まって、星奏の有名人になってる。
 その彼が、人目もはばからず、聞いているこっちがいたたまれなくなる言葉を言い続けるのを聞くのは、恥ずかしくてたまらない。
 自信がないから、かな。
 褒められ慣れている柚木先輩なら、優雅に笑ってお礼が言えるのかもしれない。

 自分で自分のことを冷静に判断できる、って嬉しいことばかりじゃない。
 ごく普通で。これといってなんの取り柄もない女の子。
 背も普通。顔も普通。クラスに女の子が20人いれば、なにもかもちょうど真ん中。

 そんな私がヴァイオリンを構えて弓を動かし始めた瞬間、多くの人が足を止める。振り返る。
 そしてたくさんの賛辞を送ってくれる。
 ── ヴァイオリンは私にとって、ガラスの靴なのかもしれない。

(あ……)

 加地くんの背後、少し離れた場所で、冬海ちゃんが小さく会釈している。
 その後ろには、特ダネを見つけたくてウズウズしているような表情の天羽ちゃんが手をひらつかせて笑っている。
 私は目配せを送ると、残りのフレーズを丁寧に弾き終える。
 ヴィオラの柔らかな音域に包まれて、私のヴァイオリンもいつもよりも遠くまで広がった気がした。

「日野さん?」
「あ、ごめんね。私……」

 不思議そうに首をかしげる加地くんに断って、私は右手首の文字盤を覗き込んだ。
 わ、冬海ちゃんと約束した時間、5分も過ぎてる!

「ご、ごめんね。加地くん。私、冬海ちゃんとも、練習の約束してたの」
「そんな。日野さんが謝ることなんてなにもないよ。僕が、もう1曲っておねだりしたのがいけなかったんだから」
「ううん? えっと、確か、お願いしたのは私の方からだったよね?」
「日野さん。僕は君に感謝こそすれ、謝罪してもらおうなんて思わないよ?」
「で、でも!」

 様子を見ていた冬海ちゃんは小走りで私たちの間に入ると、ぺこりと頭を下げた。

「あ、あの。香穂先輩。ごめんなさい。私……」
「冬海ちゃん、私こそごめんね。時間、過ぎてるよね」
「ああ。君が冬海さん?」

 加地くんはヴィオラを肩から外すと、優しそうな笑みを浮かべて冬海ちゃんを覗き込んでいる。

「あ、2人とも初めましてさんだっけ?」

 私は2人の間に立つと簡単に紹介を始めた。

「えっとね、彼女が1年音楽科の冬海ちゃん。クラリネット専攻なの。
 冬海ちゃん、こっちが加地くん。10月に星奏に来た転校生さんなの。王崎先輩ともお知り合いなんだ。
 普通科なんだけど、ヴィオラを手伝ってくれることになったの」
「初めまして、冬海さん。教会で君の音を聴いたよ。とても優しくてこちらが幸せな気持ちになれる音だよね」

 加地くんは、冬海ちゃんを見つめるとそつなく挨拶をしている。
 間の取り方。視線の動かし方。
 加地くんって、人の上に立つということがごく自然にできちゃう人なんだな、って思う。
 場の雰囲気を読むことがとても上手な人なんだ、って。

 冬海ちゃんは、これ以上なく顔を赤らめると深々と頭を下げている。

「あ。あの! か、か、加地先輩、は、初めまして……っ」
「そんなに固くならないで? 僕は君の音、とても好きだよ」
「は、はい……っ」

 冬海ちゃんはようやくあいさつを交わすと、さっと私の背中に隠れるように移動して ただひたすら自分の足元を見ている。
 私からは、緊張した彼女の口元だけが見える。

「ごめんね。加地くん。あの……」
「まあまあ。加地くんもその辺にして。冬海ちゃん、ちょっと恥ずかしがり屋さんだからさ」

 天羽ちゃんが間を取りなすかのように笑った。
 加地くんも状況を察したのか、ふっと私に柔らかい表情を向けてくれた。

「音は人なり、っていうからね。僕も冬海さんの演奏は知ってるはずなのに。
 出会えたことが嬉しくて、ついつい話しすぎたかな」
「いえ。その……っ! か、加地、先輩……、ごめんなさい!」

 加地くんは私を振り返ると、すごく幸せそうな目をしてヴィオラを持ち上げた。

「今日はこのへんにして、僕、もう1度、自分のパートを練習してくるよ。日野さんの音が耳に残っているうちに」
*...*...*
 軽い足取りで校舎へ向かう加地くんの背中が遠くなる。
 私の肩を掴んでいた手が、安心したかのようにそっと離れていく。

「もう、大丈夫だよ? ごめんね。約束の時間に遅れて」

 冬海ちゃんって、本当に可愛い。
 女の子から見ても、守ってあげたいと思える女の子。
 私もこんな妹がいたら、いろいろなこと教えてあげたくなっちゃうなあ。

 だけど音楽に関しては、私はいつも冬海ちゃんに教えてもらってる。
 なにか。なんでもいい。小さなことからでもお返しができたらいいな。

「そっかそっか〜。冬海ちゃんは、加地くん見たの、初めてなんだ」
「菜美先輩……。はい。私、びっくりしました」
「そう? カッコいい、って普通科じゃ評判なんだよ?」
「いえ、私……」

 冬海ちゃんは、そこでいったん言葉を止めた。

「音楽を表現する言葉って、あんなにたくさんあるんだなあ、って……。
 『極上のシャンパンのように薫り高い音』だとか、『陶酔境へと誘う』とか……」

 私はギクリとして、冬海ちゃんを振り返った。

「ふ、冬海ちゃん! 聞いてたの? そ、それでもって、覚えちゃったの?」
「あ、は、はい……。つい」
「忘れて! ううん。忘れてください。お願いします!」

 うわあ……。
 加地くんってそんなに大きな声で話す人じゃないけど。
 甘い、優しいトーンと、すっきりとした口調のせいで、結構周囲に聞こえちゃってる、ってこと……?
 私はあたりを見回す。
 思い思いの場所に座っている制服さんたちは、なにも知らなさそうに、談笑している。
 だ、大丈夫だよね? 聞こえて、ないよね?

「あはは。香穂見てると笑える!」

 天羽ちゃんが楽しそうに合いの手を入れた。

「天羽ちゃん、笑いごとじゃなーーい!!」
「なんで? あれほどの賛辞をくれる人間なんて、そうそう巡り会えるモンでもないよ? ありがたく受け取っておけば?」
「うう……。褒められ慣れてないから、難しいよ」

 自分の演奏が、心から好きだ、って満足できるとき、
 私は、初めて私は加地くんの言葉を素直に聞けるようになるのかもしれない。
 私からしてみれば、神さまのように上手い、って思う月森くんも。
 実はまだ、自分の演奏に満足したことがない、って言っていたのを思い出す。

 神さまレベルの月森くんが満足できない、って言うんだもの。
 私が自分の演奏に満足するなんておこがまし過ぎるもん。

 がっくりと肩を落としている私を励ますかのように、冬海ちゃんは目に力を込めた。

「あ、あの……。でも、香穂先輩が困っていらっしゃるのは、私、ちゃんとわかりましたから!」
「ありがとう……。冬海ちゃん」

 困ってるのがわかった、って言っても……。
 私としては、冬海ちゃんが加地くんのセリフをバッチリ覚えていることの方がショックかもしれない。

 褒められる。素直に嬉しいと思う。
 だけど、褒め方が、少し大げさすぎると思う。
 言ってくれる人の顔を覗き込む。そこに、冷やかしとかイジワルな様子が見えないとき。
 それでもって、自分の実力がとてもその人の言っている言葉に似つかわしくないと思うとき。

 ── 私はどうしたらいいんだろう。

「加地先輩のヴィオラも初めて聴きました。素敵ですね」

 冬海ちゃんはさっきの加地くんの音を思い出すかのように、木々に目をやってつぶやいた。

「本当に。華やかな音だね。柚木先輩にちょっと似てるような」
「はい。……で、でも、ごめんなさい、私……。途中、加地先輩の、音を省略してしまうところが気になりました」
「え? そうなの?」
「あ! いえ。出過ぎたこと言ってますね、私……。解釈の違い、なんでしょうか。
 加地先輩はソロ向きの方なのかもしれません」

 私は首をかしげながら頷いた。

 さっきのフレーズを思い出す。
 優しげな音は、途中、もっと音を溜めておかなくてはいけないところを何度か、軽くスキップするように飛ばしていた。
 解釈の違い、といわれれば、確かにそうだけど、楽譜に忠実な志水くんなら、なにか意見を言ったかもしれない。

「まあ、2人とも、頑張りなよ〜。創立祭まであと10日切ったもんね。
 私も客席にたくさん人が埋まるように、張り切って、コレは、っていう記事を書くからね!」
「ありがとう。天羽ちゃん。また明日ね?」

 天羽ちゃんはぽんぽんと私と冬海ちゃんの肩に手をやると、風を切るように元来た道へと帰って行く。

 そうだ。創立祭まで、あと10日しかないんだ。
 できること、全部、しなきゃ。
 ── もっと練習しておけば良かった、っていう後悔だけはしないように。

 冬海ちゃんは楽しそうに楽譜を取り出しながら言った。

「香穂先輩。今日はどの曲を練習しましょうか?」
「あ、えっと、『フィガロの結婚』を、って考えてたの。どうかな?」
「いいですね。私も昨日練習してきました。……あ、ちょっと待っててください」

 冬海ちゃんは曲名を聞くと、クラリネットケースから別のクラリネットを取り出した。
 ちょっと見ただけでは、同じモノに見えるけど、よくよく見ると、マウスピースの色が違う。
 今取り出したクラリネットの方が、新しい色をしている。

「え、っと……。冬海ちゃん、2つクラリネット持ってるの?」
「あ、はい……。曲によって、A管とB♭管を使い分けるようにしています」
「すごい……」
「あ、いえ、そんな……。私が自己満足で勝手にやってるだけなんです。指使いも変わりませんし」

 冬海ちゃんはあっさりそう言うと、形良くクラリネットを構えた。

 『すごい』なんて、小学生でも言えそうな言葉しか口に出せないことに苦笑する。
 今ここに加地くんがいたら、彼は、冬海ちゃんにどんな言葉を注ぐのだろう。

「あ、じゃあ、始めるね」

 私も相棒を肩に載せて、冬海ちゃんと目で合図を交わす。



 ── 創立祭まで、あと10日。
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