小さい頃、眠るのが怖い、って思ってた。
 笑わないでね? 本当だったんだから。

 まぶたを閉じるとさ、今、見ていた部屋の灯りだとか、父さん母さんの幸せそうな笑顔とか。
 全部、消えて真っ暗になるでしょう?
 頭の中には、今日読んだ絵本の挿絵やらフレーズが浮かんできては消える。
 怖い本を読んだときなんかはもう、最悪。
 まぶたの裏、なんて可愛いものじゃない。暗闇全体がお化けになって、僕に襲いかかってくるんだ。

 だからかな。
 あの、くいくいっと、暗黒の世界に引っ張られていくような感覚が怖くて仕方なかった。
 底のない古井戸に突き落とされて、もう、目覚めることのない国にズブズブと足を踏み入れたみたいでさ。

 だから。
 ── だから、君にお願いがある。
 
*...*...* See *...*...*
「加地くん。今日もどうもありがとう」

 学院からの帰り道。
 僕は駅へ、香穂さんは自宅への分岐点となる十字路で立ち止まると、僕たちはお互いの顔を見合わせて笑った。

 香穂さんは、薄暗がりの中、明るい笑顔を見せて手を振る。

 いつもの風景。昨日も、一昨日も僕は香穂さんと一緒に帰った。
 そっか。今日は木曜日。だとしたら、今週に入ってからずっと僕は香穂さんと帰り道を共にしてる。
 こういうときって、隣同士の席って、すごく便利だ。
 午前中。僕はさりげなく、香穂さんにその日の放課後の予定を尋ねる。
 もちろん香穂さんは、文化祭に向けて練習に一生懸命だから、下校ギリギリまで学院に居て練習することを告げる。
 そのとき僕は言うんだ。

『今日も僕に送らせてね』

 って。

 明日はどうなるかわからないけれど、5日間のうち4日間も下校を一緒にしていることを、クラスメイトの谷なんかは、
 『毎日』だとか、『いつも』だとかいう言葉に置き換えるのかもしれない。

 だけど、『いつも』という言葉にはかなりの語弊が含まれてると今の僕は思う。
 それは、今日が終わった時点での、『いつも』に過ぎなくて。
 明日も、この『いつも』が続くって、いうわけじゃないのだから。

「加地くん?」
「ねえ。香穂さん。人間って恐ろしいね」
「慣れ?」
「そう。香穂さんが近くにいてくれることで、僕は自分から新しい不安を作ってる」

 別に僕は自分が特別なペシミストだと思っているわけじゃない。
 だけど、きっと今が僕にとって幸せすぎる環境だ、って自分が1番良くわかっているからだろう。

 僕は、香穂さんと過ごせるこの時間が、かけがえのないものに思えて仕方ない。
 人間の本能なんだ、と自分の気持ちの揺れを正当化する気は無いけれど。

 香穂さんとの明日を思うとき、僕は眠りにつく瞬間の不安に襲われる。
 儚く消える明け方の夢のように、もしかしたら明日は香穂さんに会えないんじゃないか……、なんてね。

 彼女はちゃんと学院に来てくれるだろうか。
 途中で、事故に遭ったりしないだろうか、とか。

「加地くん……」

 女々しいってわかってるんだ。
 この前も、アンサンブルメンバーから外れたい、と我が儘をいう僕に、香穂さんはゆっくりと言葉を選んで諭してくれたっけ。
 以前土浦ともめたときのことを覚えていたから、だろう。
 けっして『頑張って』って言葉で僕を追い詰めることはなかった。

『アンサンブル、手伝って欲しいの。私、加地くんのヴィオラが好きだから』

 男って現金なものだね。
 好きな女の子から『好き』って言われるだけで。
 たとえ『好き』という言葉が修飾する先は、『ヴィオラ』であって『自分』じゃないってわかってても、こんなに舞い上がってしまうんだから。

 僕があれこれと思い悩んでいるのを察したのだろう。
 香穂さんはゆっくりと口を開いた。

「私……。今の加地くんにできることはあるかな?」
「香穂さん?」

 香穂さんは優しい目で僕を見上げたまま、僕が話し始めるのを待っている。
 街灯の下、香穂さんの白い顔は、細かい粒子がまぶされたようにきらきらと光を増した。

「ふふっ。いいの? 僕が無茶を言い出したらどうするつもり?」

 嬉しさを押し隠して軽い口調で問いかけると、香穂さんは『大丈夫』と小声でつぶやいた。
 その様子は、僕の大好きな曲想にも似て、僕を慰める。
 そして、つまらないことを言ったら、呆れられるかも、という不安を少しだけ小さくする。

 さっきの、手を振る香穂さんの姿を思い浮かべる。
 ── そう。僕は、別れのあとに、必ずまた会える、って確信が欲しいんだ。

 僕はおずおずと口を開いた。

「じゃあ1つだけお願い。別れるときね、君に『また明日ね』って言ってほしい」
「『また明日』? そんな、当たり前じゃない? 明日また会えるんだもの」
「ううん? 僕はそうは思わないよ。香穂さん」

 香穂さんの自宅と星奏学院は、すごく近い。徒歩10分くらいだ。
 だから、さっき僕が想像したような、香穂さんが事故に遭う、なんてことはよくよくのことだ、ってわかってる。

 僕が心配していること。それは……。

 『香穂さんは、音楽の才能のない僕のことを嫌いになるかもしれない』

 ってことなんだ。
 しかも一度俺に取り憑いたその不安は、幾度となく、僕を不眠の縁へ追いやる。

 今は、文化祭に演奏するアンサンブルの練習に香穂さんは余念がない。もちろん僕もだ。
 才能ある人間とともに音楽を奏でる。
 そうすることで、僕はますます劣等感にさいなまれ、そして、思う。
 香穂さんには才能のある、月森や土浦の方がお似合いじゃないか、ってね。

「ね。香穂さん……。ダメ、かな?」

 香穂さんの存在を自分の手で確かめたくて、そっと肩先に手をやる。
 時間を見ていないからわからないけど、こうして2人、街角に立って話して、少なくない時間が経過していたらしい。
 香穂さんのコートは香穂さんよりも雄弁に、冬の始まりの寒さを教えてくれた。

 僕は香穂さんの背をそっと押すと、香穂さんの自宅のある方向へと歩き出した。

「今日は家まで送ってあげる」
「加地くん。あの、今日もいっぱい練習したから疲れてるでしょう? 私、1人で大丈夫だから」
「うーん。これは僕のわがまま。僕がまだ君と一緒にいたいから」

 笑いながら言い返すと、香穂さんは困ったような表情を浮かべて、半歩後をついてくる。

 いつか、香穂さんが、僕の存在に慣れて、僕の隣りを歩いてくれるようになって。
 そして、僕が、香穂さんと過ごす明日を信じられるようになった頃、
 僕は初めて穏やかな眠りが得られるのかもしれない。
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