気持ちいい夕焼けが迫ってくる時間。
 柔らかな日差しは、僕と香穂さんをあかね色に染め上げる。
 授業の最中に盗み見る、香穂さんの頬の色を僕は密かに気に入っていたけれど。
 今 目の前にいる香穂さんは、いつもより赤らんだ可愛い頬をしている。
 
*...*...* Atras *...*...*
 僕は、なおもヴァイオリンを弾き続けようとする香穂さんの横顔に見とれていた。
 香穂さんの作り出す音は、消えてもなお残り続ける芳香のように、周囲に拡散している。
 初めて聴いたときからずっと。
 どうして香穂さんの音は、僕を捕らえ続けて離さないのだろう。
 何度聴いても、胸が痛くなる。
 そして、彼女の音に見合うだけの言葉を見つけられないでいる自分がもどかしくなるんだ。

「わわ、加地くん。ごめんね! もう、寒いよね?」

 ヴィオラを肩から降ろして、呆けたように香穂さんを見つめる僕を、香穂さんは、申し訳なく思ったのだろう。
 弾かれたように、ヴァイオリンを肩から降ろすと、僕に向かって律儀に頭を下げた。

「君が謝ることはなにもないんだよ? ただ僕が香穂さんに見とれてただけ」
「あはは。加地くんは優しいなあ。
 ……でも、もう本当に暗いよね? 楽譜も見えなくなってきちゃったし、そろそろ帰ろう?」

 香穂さんはすっきりとした顔で振り返ると、近くのベンチに置いてあったヴァイオリンケースを引き寄せた。

(香穂さん……)

 僕は、香穂さんの姿の先に、艶を帯びた髪がかかった、ある人間を思い出す。
 柔らかな物腰と、上品な笑顔に隠された、あの人の性分を知っている人はそれほど多くないだろう。
 でも僕は、初めて会ったときから、あの人にある種のしたたかさを感じてはいたんだ。
 そして不思議にさえ思った。
 どうして僕以外の人間は、彼のなよやかな仮面に気付かないでいられるのだろう、って。

 誰だって、好きな人間の視線には敏感だ。
 できれば、その視線の先に、自分という存在があれば、と願うし。
 視界いっぱいに僕自身の姿だけが映ればいい。
 そして、僕を認めて、その子の大きな黒目が潤めばいい、とまで祈りたくなる。
 だけど。

 大好きな女の子の瞳は、僕を通り抜け、僕以外の人間の上で止まって、そこで潤む。
 ときどき2人の間に流れ出る、親密そうな空気。
 生暖かい温度を敏感に感じ取ってしまう自分が、ひどく可哀想だったりもする。

(香穂さんは、つまり……。あの人が好き、ってことなんだよね)

 近くのベンチ。香穂さんは僕に背を向けて丁寧にヴァイオリンをケースに片づけている。
 パタン、とケースを閉じる乾いた音がする。

 ── 今、背中越しに彼女の背を抱きかかえたなら。
 僕の感じているすべてのことは一瞬で消え去って、ただの『思い過ごし』になるのかな。

 精巧な機械のような5本の指が、香穂さんの肩に掛かろうとしたそのとき。
 香穂さんはくるりと身体の向きを替えると、僕に向かって微笑みかけた。

「お待たせ。加地くんは? ヴィオラ、もう、片付け、終わった?」
「あ、ああ。うん。もちろん」

 僕を見る、彼女の目はただただ優しく、からりと晴れ上がっている。
 僕は今、かろうじて自分の良心が勝ったことに気づいて、内心ため息をつきながら彼女の横に並んだ。

「今日はお休みだったのに、ありがとうね。おかげでたくさん進んだね」
「……君の気持ちはわかってるんだ」
「はい?」
「君は、あの先輩が好きなんだよね?」
「加地くん! あの、どうして? 私、天羽ちゃんも、冬海ちゃんにも……。ううん、誰にも言ってないのに」

 香穂さんって、香穂さんの作る音色と同じ、本当に素直な女の子なんだろう。
 そう思わせるような答えに、僕の舌も少しだけ余裕を取り戻していく。

「ふふっ。理由? それは、僕が君のことを好きだから……、じゃないかな?」
「ありがとう。……あ! でも、加地くんが好きなのは、『私の音』なんだよね?」

 僕の軽い口調に、香穂さんは笑いながら返事をする。
 今までの僕は僕でいることにすごく満足していたから、あまりクラスメイトの意見、というのを聞かないで過ごしてきたけど。
 なぜか僕の記憶は、眉間に寄せられた土浦の太い眉毛を引っ張り出した。

『まったく。加地の言葉は軽いからなー。それでもってあいつもニブいだろう?
 お前の気持ちなんてまるでわかってない、って感じだぜ?』

 やれやれ。この調子じゃ僕の告白も、毎日交わされる『おはよう』や『さよなら』代わりってこと?
 まあ、別に、香穂さんに対してなら、どんなことだって僕の喜びになってしまうけど。
 僕は、コートの上、寒そうに小さくかじかんでいる香穂さんの手を握りしめた。

「マジ話……。君のすべてが好きだよ」
「加地くん? あ、あの……っ」
「だけど、今、僕がそう言ったら、香穂さんは困るでしょう?」

 香穂さんは苦しそうに唇を噛むと、目を伏せた。
 長いまつげは、また僕の知らなかった香穂さんを作り出している。

「恋は人を愚かにするって本当だね。ダメだってわかってて、それでもまだ君のことが諦められないなんて」
「……私も、一緒だよ? 加地くん」
「え?」
「私も、ときどき、泣きたくなる。諦めた方がどれだけ楽だろう、って思うこともあるよ?」
「香穂さん……」
「あの人が笑えばそれだけで嬉しくて。気持ちの揺れがすごく激しくなって。ときどき、自分でも自分を持てあましちゃう。
 ……だけど、どうしてかな。ずっと好きなままだよ。あの人のこと」

 元々、好意を持っていた先輩、というわけではなかった。
 だけど、自分の好きな子が、それほどまでに想う相手が自分の好きではない人だ、という事実は、
 どうしても拭いきれない妬ましさまで連れてくる。
 このまま、彼女を腕の中に抱きしめてしまえたら、この黒い感情も少しは落ち着くのだろうか。

 僕は、ことさらに明るい声を出して、香穂さんに笑いかけた。

「だいたいその答えも予想してた。まあ、君があの人を諦めるまで待ってるよ。気長にね」
「あはは。そのときは私の失恋記念日になるのかな?」
「了解。記念日というからにはお祝いしなきゃね。僕のお薦めのワインを今から、セレクトしておくことにするよ」

 笑いと一緒に、さっきまで共に奏でていた、『アメリカ』のフレーズが途切れ途切れに響いてくる。
 さっきまでの弾むような雰囲気が消えかかっている香穂さんの手を、僕はそっと離した。

「今は、文化祭のコンサートをきちんと成功させるのが僕の使命だって思ってる。
 だから、君を困らせることをいうのは、もう止めておくよ」

 ギリシア神話に登場する神、アトラス。
 彼は戦いに敗れたあと、ゼウスによって蒼穹を背負うという役目を負わされることになった。
 苦行に満ちたこの仕事を、後年、彼はどんな風に捉えていたのだろう、とふと考えることがある。

『私がこの地球を支えているんだ』

 なんて、案外、苦しみの中に、ささやかな喜びを見い出していたんじゃないかな、ってね。
 香穂さんの近くで、香穂さんの音色を引き立ててあげる。それだけで幸せを感じている僕のように。

「私、加地くんみたいな人がどうしてそこまで私のことを考えてくれるのか、わからないよ……」
「香穂さん?」
「でも、教えてくれてありがとう」
「ううん? 全然」
「すごく嬉しい……、です」

 突然、かしこまって丁寧語になる香穂さんが可愛くて、僕はまた笑った。

 ── これで、いい。
 遠くから見ているしかできなかった彼女が、今こうして隣りにいる。
 言葉を交わす。僕を見て笑ってくれる。
 そうだ。まだゲームオーバーってわけじゃない。
 僕は僕でできることをする。
 諦めようとして諦めきれなかった音楽。きっと香穂さんは僕にとっての音楽そのもの、なのだから。

「加地くん。じゃあ、また明日ね?」
「ううん? 今日は僕に送らせて?」


 僕は、自宅近くの交差点で足を止めてそう言う彼女の背をそっと押す。
 こうすることで、彼女と共有した今日を、もう少しだけ引き延ばすために。
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