『ヴィオラジョーク』

 最初に聞いたときには、確かにいい感情は浮かばなかったな。
 だって僕は、ヴィオラの音色に惹かれてヴィオラを始めたんだし。
 音だけじゃない。ヴィオラのフォルムにも惹かれたんだよ?
 ヴァイオリンよりも よりなだらかな肩のラインが,、高貴な女性みたいだと思った。
 なにしろ、この貴婦人の奏でる音色は、ヴァイオリンよりも優しくて、親しみやすくて。僕にとって特別な感じがしたんだ。
 だから、早く身体を大きくしたかった。
 分数ヴァイオリンなんてあっという間に通り抜けて。ゴールの先には、貴婦人が待ってる。そう信じてた。

 だけどね。自身を肯定するそばから、悪魔の声が耳元でつぶやくんだ。

『お前は いわば、振るい落とされた側の人間なんだよ。
 ヴィオラを褒めるヤツらはみな、ヴァイオリニストになりたくてもなれなかったヤツらばかりさ』
 
*...*...* Joke *...*...*
 秋の空が心地よく広がる観戦スペース。
 僕は香穂さんの音色を追いかけて、学院中、探検モードでいろいろなところを歩き回る。
 元々、テニスをやっていたせいか体力には自信があったけど。
 あまりに歩き回るものだから、どうして葵さんは最近、こんなにかかとの減りが早いのかしら? なんて母さんに不思議がられている。
 そのとき僕は、香穂さんの音色を追いかけて歩き回る楽しさを知らない母さんをちょっと可哀想だと思う。

 はじめは、聞こえるか聞こえないかのようなかすかな音。そんなとき、僕は香穂さんの音を心の耳で見つける。
 自身の脚を速めるにつれ、柔らかな音は彼女から発信されているって確信する。
 ああ、僕はやっと理想の音に近づくことができたんだ。って。
 そうか。
 母さんもヴァイオリンをやっていたから、わかりあえる部分も実はあったりするのかな?
 彼女の音色を聞いた瞬間の高揚感を、一度母さんにも味合わせてあげたい気分だよ。

 やがて、聴覚とともに僕の視覚も香穂さんを捉える。
 その瞬間、って最高だ、って思う。
 できれば僕と香穂さん以外のすべてのものを消しゴムで消して、すべてを真空にしてしまいたい、と思うほどにね。

 日差しは僕の頭の上に柔らかく降り注ぐ。
 グラウンドを蹴る陸上部の足音は、いかにも健全な高校生たる生活、って雰囲気を醸し出している。
 僕は、グラウンドに向かってヴァイオリンを構えている香穂さんの背に話しかけた。

「やあ。香穂さん。今日はここで練習なの?」
「あ、加地くん。……そうなの。ほら、見える? あそこに土浦くんがいるの」
「ああ。本当だ。今日は土浦はサッカーなんだ?」
「うん。どうしても助っ人が必要だって言われた、って、終業のベルと一緒に教室、飛び出して行ったみたい。
 頼まれたらイヤって言えないの、土浦くんらしいよね?」

 香穂さんは、肩に載せていたヴァイオリンをそっとベンチに置くと、遙か遠くにいる土浦に目を当てている。
 赤いゼッケンを着けた土浦らしき選手は、アシストが上手くいったのだろう。
 たった今ゴールを決めた選手から、タックルの洗礼を受けて笑っている。
 日に焼けた顔と唇からこぼれる白い歯は、男の僕から見てもすがすがしくて、
 反対に、土浦の作る音色はどうしてあんなにも繊細なのか、逆にわからなくなってくる。

 観客席に僕と香穂さんがいるのがわかったのだろう。
 土浦は、よう、といった風に片手を上げて僕たちに合図を送ると、再びホイッスルの音に弾かれたように走り始めた。
 香穂さんも顔の横で、小さく手を振って応えてる。

 ……香穂さんも。
 いや、音楽的才能の豊かな彼女だからこそ。
 やっぱり香穂さんは、土浦のような音楽の神さまに愛されている人間を好きになるのかな。

 いや。土浦だけじゃない、か。

 月森だって。柚木さんも、火原さんも。志水くんは言うまでもなく。
 アンサンブルメンバーのみんなは、僕以外は才能に溢れた人ばかりだ。
 ……本当にね。たまに、僕は周囲を見回して愕然とする。
 僕は僕一人だけ、一生白鳥にはなれない、醜いアヒルの子なんじゃないか、って。

「ねえ、香穂さんは……」

 言いかけたままの言葉は、薄い皮膜を重ねたような雲に消えていく。
 君を音楽に駆り立てるモノはなに?
 どうして、君は無邪気な笑みを浮かべたまま、練習を続けることができるの?
 好きだから、っていう気持ちは、やがて、才能という名の壁も、乗り越えていけるの?

 そして、いつか……。
 こんなこと、口に出すことも憚れそうだけど。

 僕は君みたいな音色を奏でることができるの?
 ── 僕が、君のそばにいる権利、ってあるのかな?

「ん? 加地くん。どうかした?」
「……君にとって、音楽ってなに?」
「はい?」

 僕の突然の質問に、香穂さんはあっけにとられたような表情を浮かべて僕を見上げた。

「知りたいんだ。どうしても」
「む、難しいよね……。そういえばあまり考えたこと、なかったかも」
「そうなの?」
「うーん。志水くんだったら、一晩でも二晩でも語り続けそうだよね?」
「ああ。月森もね」

 そう言ってお互いの顔を見て、思わず吹き出す。
 月森も志水くんも、この手の話になったら、きっと『寝食を忘れる』という言葉どおりに、延々と自身の思いを語り出すに違いない。
 いや、……そうでもないかな。
 月森と音楽。2つの関係は案外シンプルで。
 透きとおるような蒼い目で、太古からの決まり切った事象のように、こう告げられるのかもしれない。

『俺にとって音楽はすべてだ』

 なんてね。
 ははっ。聞くまでもない、ヤボな話、って感じかも。

 香穂さんはあれこれ思いを馳せる俺を柔らかい表情で見守っている。

「そうだ。加地くんは? 加地くんにとって音楽ってどういう存在?」
「え? 僕?」

 まさかこんな風に聞き返されるとは思っていなくて、僕は改めて香穂さんを見つめた。
 松脂を塗ったばかりなのだろう。香穂さんは慎重に光る弓を扱うと、そっとヴァイオリン本体の横に置く。

「なんだか照れくさいね。香穂さんに面と向かって言うのは。
 こういうのは詩集の中からそれらしい言葉を見つけ出すか、あるいは、自分の日記にこっそり書き記しておく類のモノかもしれないね」
「うん……。わかるような気がする」

 笑顔で繕いながらも、僕の胸の中にはくっきりとした想いが浮かんでいた。

 僕にとって、音楽は、香穂さんそのもの。
 近づこうとしては遠ざかる、理想で、あこがれで。
 だけど結局は追いつくことのできない、挫折を知らしめる存在なんだ、って。
 愛おしい気持ちの裏側に、切なさも一緒に背負ってくるから、余計困る。
 あきらめることも、認めることも哀しい。簡単に、切り捨てることができない。

「よぉ。香穂。それに、加地も。ああ、そうか、練習の時間か?」

 赤いゼッケンがあっという間に大きくなる、と思ったら、グラウンドから土浦が勢いよく階段を上がってくるのが見えた。
 額には汗が はりついている。
 その姿は ともすれば 暑苦しそうに見えるヤツもいるのに、土浦の光るモノは、さわやかさを彩るアクセントのようだった。

「あれ? 土浦、サッカーはもういいの?」
「ああ。2点もアシストしたんだ。もう、いいだろう。最初から前半20分だけ出てくれ、って話だったしな」
「あはは。土浦くん、そうだったんだ」
「って、文化祭まであんまり時間、ないだろ? 加地、お前ヴィオラは? 早く練習しようぜ?
 俺、4時から練習室、予約してあるんだ」

 土浦は屈託のない表情で僕と香穂さんを交互に見つめた。

 才能のあるヤツは性格もいい。なんて事実を僕は最近知り得た気がする。
 努力した分だけ、伸びていく。だから、誰だってきっとそうだ。
 上達しないのは、練習の差。それ以外は考えにも浮かばない。
 だから、加地は、なに、ちょっとでも練習すれば上手くなるに決まってる。
 そう信じて疑ってないまっすぐな土浦の視線が痛い。

「加地?」
「あ、ああ。了解。じゃあ香穂さんと2人で先、行ってて? 僕、ヴィオラ取ってくるから」

 数日後に演奏する予定の、『謝肉祭』のメロディが浮かんでくる。
 水辺のようななめらかなピアノの上、ヴァイオリンの旋律が響いていく。
 ヴァイオリンを盛り立てるためのヴィオラの旋律は、サビのフレーズで、いつもつまずく。
 ヴィオラのあとを追う柚木さんのフルートが、少しだけ慌てたようにテンポが速くなるのも知ってるんだ。

『ヴィオラジョーク』、か。
 時間の洗礼を受けてきた言葉っていうのは、案外真理なのかも。
 才能のない人間は、心まで、一歩引いたような、ひねくれた見方をするようになるのかもしれない。

「香穂。行こう?」
「う、うん……」

 僕を気遣うような視線を感じながらも、一足先に僕は2段飛ばしで階段を昇った。
 ── このまま、逃げ出してしまえたら。いや。逃げ出してしまいたい。
 そうだ。適当な時間に、あとでメールすればいいんだ。そう。急用ができたから、と。





「加地くん!」

 観戦スペースの1番上まで上り詰めたとき、香穂さんの細い声が聞こえた。
 かなり距離がある。でも僕の耳に届いた、ってことは、香穂さんがすごく大きい声を出したから?
 香穂さんの隣りにいる土浦は、そんな香穂さんの様子が信じられないのか、ぎょっとした顔をしている。

「な、なに? 香穂さん……」

 振り返った僕に、香穂さんは唇だけの動きで告げた。



『待ってるから』
「香穂さん……?」
『土浦くん、と、柚木、先輩、と。みんなで、待ってるから!』
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