「……すまないが、俺はここで失礼する」
「まあまあ、月森、そう言わないでさ。もう8時に近いよね。
 今日はこのままみんなで夕ご飯でも食べに行こうよ。僕、いいところ知ってるんだ。
 バイキングなら、好き嫌いがあっても大丈夫でしょう?」
「加地。俺にはやりたいことがあるんだが」
 
 僕は、今すぐにでもこの場から立ち去りそうな月森に声をかける。
 志水くんはといえば、僕と月森を取りなす、というわけでもなく、
 ……えーと、もっと端的に言えば、僕たち2人にはまるで興味もない感じ、かな。
 あらぬ方向を見つめている。
 ってことは、この場2人の取りまとめは、僕担当、ってことでいいのかな。
 
「ねえ、一緒に食事をするって、すごく本能的なこと、って知ってた?」
 
 芸事に秀でている人間っていうのは、こう、頑ななまでの意志の強さっていうのがあると思う。
 そういう性格が今の実力を養ってきたのか、もともと いびつな性格だったのか。
 でも、ここ3ヶ月の間、一緒にアンサンブルを組んできてわかったことがある。
 こういう場合は、僕の提案になにかしらの付加価値をつけることで、解決するかな、なんてさ。
 
 いきなり『本能』なんて言われて、あっけにとられている月森を、僕は小さな女の子に対して説得する気分で言葉を選ぶ。
 
「食事ってね、いわば、お互いの恥部を見せ合うようなものなんだって。
 この地球上の種族には、みんなの前で抱き合うのはOKでも、食事をするのはタブーって民族もいるんだ」
「それが一体……」
「つまりね、一緒に食事をすることで、これから僕たちが奏でる音楽にも、深みが出るってこと。
 今日僕たち3人で『アメリカ』、いいところまで行ったじゃない?
 明日は香穂さんのヴァイオリンがもう1本入る。ふふっ。そうしたら完成までは、あと少しだよ」
「バイキング……。いいですね。……月森先輩、行きましょう」
 
 ずっと僕たちの様子を見ていた志水くんは、ここになってようやく行き先に納得してくれたのだろう。
 スタスタと僕の指差す方向に歩き出した。  
*...*...* Battle *...*...*
「あ、ここの店だよ。よかった。先に予約しておいたから、すぐ席に案内してくれそうだ」
 
 僕の跡を付いてきた2人は、幾分疲れた顔をしている。
 正直言えば、僕が2人の足を引っ張っているのは紛れもない事実。
 これでも僕は真面目に練習しているんだ。
 夜、学院から帰ってから楽譜をさらって。
 朝、学院に行く前だって、譜読みをして。
 
 だけど、僕なりに積み上げた『自信』は、いつも2人の前ではあっけなく覆されるんだ。
 天才っていう人種は、僕とは違う生き物なんだ、って。
 
 ……だけど、不思議だよね。
 
 以前は、自分の短所を、できるだけ人に見せたくない。
 できれば、自分という個体から引き離して、踏みつけて。存在自身を消し去りたい、って思っていたのに。
 月森や志水くん。土浦や火原さんたちに、僕のヴィオラのつたなさを知ってもらうことが心地良い。
 意見を聞けるならラッキーだ。
 そう思ってる僕がいるんだ。
 
『加地くん、最近すごいね。私も加地くんに負けないように練習しなきゃ!』
 
 香穂さんは僕のヴィオラが鳴るたびに、嬉しそうに駆け寄っては笑ってくれる。
 でも香穂さんは本当の理由を知らない。
 僕は僕のためにヴィオラを弾いてるんじゃない。
 
 ──── 君が、喜ぶから。
 嬉しそうに、僕を見て、笑うから。
 君の笑顔のためだけに僕はヴィオラを弾く。
 ……なんて。
 世の中に、そんな間抜けな理由で弾く、ヴィオラ奏者がいても、いいでしょ?
 
「……加地先輩、すみません。僕、今日はそんなに持ち合わせがないです」
 
 洒落た造りの建物を見て、志水くんは困ったように眉をひそめる。
 僕は首を振ると、彼の背中を押しながらドアを開けた。
 
「あ、いいよ、気にしないで? ここは僕の父親の顔が利くところだから。なんとかなるよ」
 
 ホールのような広い部屋。壁側には4人掛けのテーブルがずらりと広い間隔で並んでいる。
 なにより目を引くのは、中央に置いてある料理の類だろう。
 規則正しく並べられたテリーヌは、絵を見るように美しい。
 
「テーブルを適当に押さえて、あとは、それぞれに料理を取りに行けばいいよね。ほら、あそこに皿がある」
「香穂先輩」
「は? 志水くん、なに言って……」
「本当だ。香穂子がいる」
「え? 本当? 月森」
 
 香穂さんが今日、練習に参加できなかったわけ。
 それは、学院を分割するという意志を譲らない吉羅さんを説得する、とかいう話だったはず。
 なのに、どうして……?
 2人の視線を追いかけた先には、後ろ姿でも見間違えることのない香穂さんの背中があった。
 
「加地先輩。ちょうどいいです。香穂先輩が揃えば、弦楽四重奏の4人が揃います。話しかけにいきましょう」
「ま、待って! 志水くん。きっと、香穂さんは……」
 
 言いかけて、言葉につまる。
 ここはスイーツの店でもない。ましてや女の子が1人で立ち寄るようなハンバーガーショップでもない。
 多分、香穂さんには連れがあるはず。
 そして。
 ──── 多分、その連れは、女の人じゃない。オトナの、男だろう。
 
 見たい。いや、見たくない。
 だけど、見たい。
 香穂さんと一緒にいる男の顔を見たいんじゃない。
 男と一緒にいる香穂さんの、僕たちを見たときの反応が見たいんだ。
 
「……こんばんは、香穂先輩」
 
 志水くんは僕の思いに頓着することなく、テーブルに腰掛けた香穂さんに話しかける。
 柱の影で見えない男の顔。
 肩のラインがすっきりと若々しい。
 身体に張り付いたそのラインは、香穂さんといる男は、かなりスーツを着慣れてる男だ、ってことだ。
 
「……感心、しないね。学校帰りに、そのまま外食とは」
「……あ……。学院を分割しようとしている人」
「こんばんは、吉羅さんでしたか。志水くん、この人は吉羅さん。星奏学院の理事長だよ」
「おや? ご説明、ありがとう。たしか君はヴィオラの加地くん、だったね」
 
 志水くんを小声で取りなしたにも関わらず、スーツ姿の男にはしっかり聞かれていたらしい。
 吉羅さんは澄ました顔で礼を言うと、厚紙のようなナプキンで口の端を拭いた。
 香穂さんは、といえば、『助かった』とでも言いたげな顔で、僕たちの方を見て眼を細めている。
 
「志水くん、それに、加地くん。月森くんまで、どうしたの?」
「練習帰りだ。『アメリカ』の曲想について、もう少しすりあわせをした方がいいだろう、という話になった」
「あ、そうだったんだ。月森くん、練習、本当にお疲れさま。私も明日、話を聞かせて?」
「そうそう。どうして、その、香穂さんは……」
 
 僕は強引に話に割り込む。裏返ったようなヘンな声が喉に引っかかった。
 
「ん? 加地くん、どうかした?」
「どうして、君は、理事長と食事をしているの?」
 
 一見した限り、香穂さんと吉羅さんの間に流れる親密さ、というものは感じられない。
 むしろ、香穂さんは吉羅さんと一緒にいることでガチガチに固まっているみたいだ。
 取り皿もほとんど汚れていない。
 一方で理事長は、といえば。
 これは年の功なのだろう。緊張し切っている香穂さんを見ることを楽しんでいるようにも見える。
 
「せっかくだ。よかったら君たちもここのテーブルに来るかね?」
 
 吉羅さんは、失礼するよ、と、テーブルに置かれているワインを自分のグラスに注ぐ。
 10年前の、ブルゴーニュ当たり年のビンテージ。
 確か吉羅さんもヴァイオリンをやってたって聞いたっけ。この学院を経営している一族だとも。
 だとしたら、この人も僕と同じ、『お坊ちゃん』なのかもしれない。
 
「……僕、お腹が空きました。行きましょう、香穂先輩」
「あ、みんな、先にどうぞ? 私、みんなの荷物を見てるよ」
 
 香穂さんは屈託なく僕たちを送り出す。
 新しい料理が運ばれてきたのだろう。蒸気のような湯気の中、客の顔は輝いている。
 吉羅さんは慣れた様子で料理を2、3種選ぶと香穂さんのいるテーブルへと戻る。
 僕は吉羅さんと香穂さんを2人きりにしたくなくて、適当にオードブルを選ぶとスーツの背中を追いかけた。
 
「やれやれ。君はなかなか食べ物の好みにうるさいことがわかったよ。これなら食べられるかね?」
 
 吉羅さんは寿司を並べた皿を香穂さんの前に差し出す。
 
「ありがとう、ございます。……私、好き嫌いはないんです。今日は緊張してて……」
「ちょっと、吉羅さん、待ってください!」
 
 中身を見て、僕は香穂さんの前に置かれた皿を取り上げた。
 
「香穂さんは、青魚がアレルギーなんです。ヘンなモノを食べさせないでください」
「加地くん? 私……」
「君もダメだよ? 食べられないモノはダメってちゃんと言わなきゃ!」
「それは……、その、小さい頃はダメだった、って話はしたけど」
「コンサートも近いんだ。香穂さん、体調は万全にしなきゃ」
「どうか、したんですか? 加地先輩……」
 
 そこに皿イッパイに料理を盛った志水くんが帰ってくる。
 ……バイキングって特別なマナーがあるワケじゃなくて。
 強いていえば、自分が取った料理を残すのはマナー違反、っていうくらいだけど、
 志水くんはこれだけの量、食べられるのかな。マナー、わかってるよね……。
 僕は、香穂さんの前に置かれている皿を目で指し示しながら志水くんに説明する。
 
「聞いてよ、志水くん。吉羅さん、香穂さんに青魚の寿司を食べさせようとしたんだ」
「……本当ですか?」
 
 今まで眠っているかのような半開きの目をしていた志水くんは、信じられないといった風に吉羅さんを見つめる。
 
「この人は、学院の分割の邪魔をする香穂先輩が許せないのでしょうか?」
「いや、2人とも、待ちたまえ。ただ、私が日野君の嗜好を知らなかった、というだけだろう」
「……このテーブルは騒々しいな。一体どうしたんだ?」
「や、やあ、月森、遅かったね」
 
 実は少しだけ月森の帰りが遅いのが気になってはいたんだ。
 だけど、香穂さんにアジを食べさせようとする吉羅さんの行動を見逃せなかったしね。
 
「って、月森……、その、皿」
「……いや、こういうところでは、自分がサーヴしたモノを残すことはダメだと聞いたことがある」
「だから、って、なにも生野菜ばかり山盛りにしてこなくても」
「いや。一度も食べたことのない料理は、どんな味かわからないだろう? これならおおよその見当がつく」
「……まあ、ね」
 
 僕は軽く脱力しながら返事をする。
 このままじゃ、とても音楽の話まで辿り着けない。料理の話だけで食事が終わってしまいそうだ。
 
「それで、なにか? さっきからこのテーブルは目立っていた。なにがあったのだろうか?」
「聞いてよ、月森。吉羅さんが香穂さんにね」
 
 僕はさっき志水くんにした説明をもう一度繰り返す。
 とは言ってもクールな月森のことだもの。
 あっさり、
 
『それがどうしたんだ? どうしてもイヤなら、香穂子から直接吉羅さんに説明すればいい話だろう』
 
 とか言うかも。
 
「……吉羅さん、それは本当の話でしょうか?」
「つ、月森?」
 
 僕の話が終わるか終わらないかのうちに、月森は吉羅さんの方に膝を向けた。
 一体、なんだっていうの? 人間、空腹だとどんなことでも怒りたくなるんだろうか?
 
「いや。まだ、未遂だ。彼女はこのとおり、私の勧めた寿司には手を出していない。
 だからこれは結果的に問題がなかった、と言っていいだろう」
「勧めることも問題です。まだ、アレルギーの原因は医学的にすべてが解明されているわけではありません。
 目から受けた刺激から、身体が不快感を示せば、それは悪影響といっていい」
「……それは月森、少し話が発展しすぎだよ」
「先ほどの『アメリカ』のときも同じことを思ったが、音楽には発展性が必要だ。
 それにはまず基本的な練習は個人で先に済ませておくべきだろう。
 君にはときどき練習が足りないと思うことがある」
「ふふ。そう? よかった」
「は? 加地、君は……?」
「ようやく、話が音楽に向かっていてよかった、ってこと」
 
 吉羅さんは、あれこれ話し続ける僕たちを不思議そうに見回していたけれど、
 やがて香穂さんの前に置かれた寿司をするすると平らげると、ボトルのワインを半分だけ残して立ち上がる。
 『アメリカ』の話を興味深そうに聞いていた香穂さんは、吉羅さんを追いかけるように席を立つ。
 
「あの、吉羅さん。学院の分割のお話は……? まだ、その。お話、途中でしたよね?」
 
 
 
 
 
 
「日野君。……2週間後のクリスマスコンサート、私は楽しみにしているよ」
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