「はーい。頑張ります!」
……どーして『ほどほど』っていう言葉から『頑張ります』が飛び出すのかよくわからんが。
お前さん、俺の話、聞いてないだろ? というツッコミは、俺の口の中で消えた。
2DKの小さなアパートのキッチンで、日野はコンロの火を細めるのに苦戦している。
日頃、空の缶ビールが並ぶだけの空間は、こいつ1人のおかげで、まったく別の空間を作っている。
3月1日。今年は、えーと、月曜日か。で、俺は今年いくつになるんだ?
── やれやれ、いったい いつ頃からだろう。
自分の誕生日に何の感慨も覚えなくなったのは。
『金澤先生。3月1日の夜は絶対、予定、空けといてくださいね?』
正月を過ぎた頃から、だろうか。
ことあるごとに今日の予定について、何度も日野から念を押されたっけな。
『一緒に、ご飯、食べましょう? 私、先生の家でなにか簡単なモノ、作りますから』
『へいへい。わかりましたとさ』
『うう。先生、あまり、嬉しそうじゃないかも……』
しっぽを振ってた子犬が急にしょんぼりとうつむく。
そんな様子に、俺は慌てて言い訳を付け足した。
『おっと。誤解してもらっちゃ困るぜ? お前さんと過ごすのがイヤって言ってるんじゃない。
ただ、俺は自分の誕生日に特に感慨はない、ってことさ』
『うーん……。どうしてでしょう?』
日野は不思議そうに目をしばたたせると、俺を見上げてくる。
『そりゃ、お前さん……』
(10代のお前さんたちとは違うからなあ)
答えはいつも尻切れトンボのまま、俺の中に着地点を求めて さまよっていた気がする。
*...*...* Happy! *...*...*
「こんにちは。今日はいっぱい買ってきましたよ〜」「お。来たか」
7時10分。
月曜日は帰宅が7時頃になりそうだ、という俺に合わせて、日野はアパートのチャイムを鳴らした。
小さな子でも抱くかのように、重そうな紙袋を両手いっぱいに抱えている。
「じゃあ、さっそく始めまーす!」
日野は紙袋からベージュのカフェエプロンを取り出すと、制服の上にふわりとかけた。
するすると袖をまくると、白い細い腕が出てくる。
安っぽいアパートの照明の下、日野のその部位は、やけに瑞々しく見えた。
なんつーか。……華奢だよなあ。
俺が大した力を使わなくても、こいつなら、なんなくこいつの自由を奪うことができる、ワケ、で。
「先生?」
俺の無遠慮な視線にまるで頓着なく、日野はあどけない目を向けた。
手は、手際よく食べ物を取り出すと、テーブルの上に並べている。
そして袋の1番底から、小さな天ぷら鍋を取り出した。
「揚げ物はできたての方が美味しいから、ちょっとだけ、キッチン借りますね」
「おー。好きに使えや」
俺はキッチンの脇に立つと、日野の手先を見つめた。
油も用意していたのだろう。
日野は手際よく鍋に油を注ぎ込むと、鍋の油の温度を菜箸の先で見ている。
「あ、その前に。やること、あったんだ」
そう独り言を呟くと、そしてサラダを皿に盛り付け、オードブルを並べる。
それらの動作にまったく無駄がない。
まるで1人で複数の楽器を使ってオーケストラでもやっているかのようだった。
「お前さんの意外な一面を見た、ってところか。結構料理の手際がいいな」
「そうですか? ありがとうございます。これも理由があって……」
日野は苦笑を交えながら話し始めた。
「私、兄と姉がいるんですけど、私はちょっと年が離れて生まれたんですね」
「ほう」
「だから、兄も姉もハタチを過ぎてるんです」
「なるほど」
「ハタチを過ぎたら、兄も姉も、父の晩酌に付き合うようになっちゃって……」
「ははっ!」
「そう。私とお母さんが、おつまみ係になっちゃったんですよ」
日野の指は、コロモをまとったエビを、そっと油に泳がす。
飛び跳ねる元気も失せたのか、朱くなったしっぽは、ふわふわと鍋の中で踊り出した。
日野は満足げに菜箸でそれをつつくと、はっとしたように顔を上げた。
「急いで作ります。金澤先生は主役なんですから、あっちへ行っててくれますか?」
「おいおい。そりゃまたツレないなー」
「だって、サプライズにしたいんだもの」
「って、これだけ見ておいて、か?」
日野は、頬をふくらませながらも、吹き出している。
「気持ちの問題なんです。よろしくお願いします」
*...*...*
まな板の上で何かを切る音。水の流れる音。料理の匂い。その間を縫うように、日野の鼻歌が聞こえる。
ひそやかな夕暮れの風景だ。
確か……。
俺は思いを馳せる。
日本じゃない、遠い異国でこうしてオンナと暮らしたことはあったっけな。
でも時間の流れっていうのは、確実に事実の輪郭を薄く、曖昧にさせる。
勝手な言い草かもしれないが、過去の情事は過去の俺のモノ。
今は、心から愛しいと思えるお前さんと、新しい生き方を始めていけたら、ってな。
手持ちぶさたに、指はテーブルの端をたたいている。
そうだった。
『日野にふさわしい俺でいたい』
なんて殊勝なことを考えて、今年に入ってからというもの、タバコは押し入れの奥深くに隠したんだっけ。
「お待たせしました!」
日野は満面の笑みを浮かべて、お皿を抱えて俺のいる部屋へとやってきた。
「まずは、サラダ、です」
「ほう」
「それと、オードブル。これは、家で作ったのをちょこちょこ持ってきました」
「おいおい。エラくまたゴージャスじゃないか」
「いえ……。金澤先生の好みがわかなくて、ネコのウメに聞いたんです。そしたら、ツナ系がいいだろう、って」
「ははっ。猫神サマのお告げ、ってか?」
「はい!」
日野は楽しそうに話し続ける。
「それと、揚げ物、です。たくさんあっても食べきれないかな、って思ったので、全部少なめです」
「へえ。お前さん、飲み助の気持ち、よくわかってるじゃないか?」
「はい。お父さんとお兄ちゃんに鍛えられました」
やれやれ。
こんな短時間に、こんな風にこいつの長所を見せつけられたら。
俺がますます、お前さんに惹かれてしまう、ってこと、目の前の女の子はわかってやっているのだろうか?
「ま、まあ。その、なんだ? お前さんの心づくしだ。冷めないウチにいただくとするか」
「はい!」
年甲斐もなく頬が熱くなっているのを感じて、俺はテーブルに並んだ料理を見つめ続けた。
日野も、ポン、と手を合わせてから、なにかに気づいたのだろう。
慌てて立ち上がると、申し訳なさそうにキッチンを指差した。
「ケーキ、忘れてました! 待っててくださいね」
「ケーキ、ってその……。クリスマスに食うヤツか?」
「え? えっと……。誕生日にも食べますよ? あ、ロウソクも点けましょう?」
「よし。じゃあ、俺が点けようか」
誕生日にケーキ? 日野の誕生日にケーキなら可愛らしいモンだが。
この俺の誕生日にケーキと聞いて、こそばゆさが消えない。
タバコが疎遠になっても、なぜか、ポケットにはライターが入っている。
俺は久しぶりにオイルの匂いをかぎながら、ロウソクに火を付けた。
ゆらりと揺れる炎は、日野の頬に大人びた深い陰影を作る。
俺は言うべき言葉も忘れてそれに見入った。
「えへへ。今日は金澤先生を1人占め、ですね」
「……まあ、そう、可愛いことを言うなよ」
「はい?」
「いんや。こっちの話」
なんていうんだろうな。
俺にはもうこういう感情が生まれる場所なんて、とっくに枯れ果てたと思っていたのにさ。
こいつの奏でるユーモレスクが浮かんでは消えていく。
ドヴォルザークが故郷を思って作った曲は、第二楽章からが、彼の本音だと思える。
── ただ、思い出すだけで優しい気持ちになれる、ヤツ。
それが、今の俺にしてみれば、日野の存在だったりする。
「誕生日、おめでとうございます。金澤先生」
「……ああ。ありがとさん」
ちんまりと対面に座った日野は、俺がローソクを吹き消すと、パチパチと白い手をたたいた。
「なあ。お前さんの定位置は、いつからそこに決まったんだ?」
「はい?」
俺は自分の脚の間を指差して言った。
「お前さんの場所は、ここって決まってるんだよ」