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 教会のコンサートが無事終わった、翌日。

「ま、日野。お前さんになら次の創立祭のコンサートも安心して頼めそうだ。頑張れよ、在校生代表」

 金澤先生は、やっかいごとが1つ減った、とでも言いたげなすっきりとした顔で私の肩をたたいていく。
 私の手には押しつけられた1枚の紙が残る。
 柔らかい日差しが差し込んでくる、普通科棟の廊下。
 夏よりも長く影が伸びているのは、また少し秋が近づいてきたせい。

「って、あ、あの! 私、まだ、創立祭のコンサート、やるって言ってないです!」

 少し皺の寄った紙の端っこには、『創立祭コンサート要項詳細』なんて堅苦しい文字が躍っている。
 って、待って。ってことは私、また、コンサート、やるの? アンサンブル、する、ってこと……?

『……今日のようにお前たちがよい音楽を奏でて世界に音楽を広めてくれれば。
 我輩の力も少しずつ元に戻るとは思うが……』

 昨日のコンサートが無事済んだとき、リリが心なしか元気のない顔でそう言ってたのを思い出す。
 えっと、つまり、またコンサートをやれば、リリはやった分だけ、元気になってくれる、ってことだよね。
 そ、それは分かる。分かる……、けど、でも!!

 金澤先生は私の表情を見て、大げさに眉を下げると 口の端を上げた。

「大丈夫大丈夫。お前さんにならきっとできるって。なんなら、あの2人に相談してみなって」
「あの2人?」
「火原に土浦。あの2人、すっごく面倒見いいだろ〜。俺みたいにさ」
「金澤先生!」
「お? 俺、こー見えてもけっこう忙しいの。お前さんばかり可愛がってるわけにはいかないのよ。
 じゃあな、日野、あとは頼んだぜ」

 金澤先生は白衣を翻して音楽室へと向かう。

 う、ちょっと、待って。私……。
 私はあっけにとられて、伸ばしていた手をパタンと下ろした。

 ぐるぐると、昨日の『だったん人の踊り』を弾き終えた直後のことを思い出す。
 ところどころ空いた客席と。
 ── そして、少しだけ寂しさが残る、間延びした拍手、と。

『すっごく良かった。私、感動してちょっと泣きそうになっちゃた』
 確かに、今朝学院に来る途中でいろんな人から声を掛けてもらった。

『今度は私をアンサンブルメンバーに入れて欲しいの』
 春のコンクールで私の伴奏を手伝ってくれた森さんからは、縋るような目で、そう、頼まれた。

 けど……。本当は自分自身と、アンサンブルメンバーが一番良く知ってる。
 冬海ちゃん、土浦くん、火原先輩。

 ── レベルの高いみんなの脚を引っ張り続けたのは、この私だ、って。

 結局、私の演奏するヴァイオリンパートは一番肝心なところのフレーズを確実に弾きこなす、ということで話がまとまって。
 あとは、3人の力で本当だったら私が弾くフレーズを上手く分担して、なんとか取り繕ってくれていたんだ。

「同じ音楽でもやっぱり違うのかなあ……」

 ソロとアンサンブル。
 アンサンブルって、一人で弾きたいように弾くソロとは全然違う。
 音楽科の人がごく普通に身に付いている、ソルフェージュの力、っていうのかな……。
 リズム感、即興力っていうのが私にはまるで、ない。
 弾くたびに情けない、身体が縮こまるような疎外感を、また、私、繰り返すのかな?
 さっき金澤先生が渡してくれた要項をちらりと見る。
 開催日は10/28。
 もしこれ引き受けたら、私、今月中にまたコンサートをする、ってことだよね。

 ── 無理、だよ。絶対無理!

 私はおそるおそる顔を上げて周囲を見回す。
 放課後の普通科棟の廊下。
 部活にいく人。帰りの遊ぶ計画を立ててる人。雑踏の中に私はいる。
 今、土浦くんに会ったら、あの長い腕でひょいと私の持っている紙片を取られるかもしれない。
 それでもって、またあの嬉しそうな顔で押しきられそうな気がする。

『なんだよ、お前、せっかくの誘いを断るのか? 昨日、すごく気持ち良かっただろ?』

 火原先輩の声の調子まで浮かんでくる。

『大丈夫だよ、場数を踏んでいけば、日野ちゃんだってだんだん慣れてくるよ』

 ……ど、どうしよう。ちょっと待って。今は……。
 ── 今は、ちょっと逃げたい気分、かも。

 私は荷物を手にすると、一番2人に会わなさそうな場所へと走り出した。
*...*...*
「うー。どうしよう。コンサート、か。もう、無理だよ……」

 柊館の一番端っこにある、図書館。
 その中でも、私は1番人目に付かなさそうな、奥の席に座る。
 そして、さも調べ物があるかのように、適当に手に取った辞典を机の上に広げた。

 何も映してない目とはウラハラに、私の頭はカタカタといろんなことを考え始める。

 ん……。理解できない、ってわけじゃない。
 それどころか、私の周りは全員正しい方向に向かっていて。
 私1人だけがあまのじゃく的な考えをしているんだと思う。

『音楽を世界に広めたい』

 って必死な顔で言うリリの想いも。
 アンサンブルって楽しいよね? って本当に嬉しそうに笑う火原先輩の気持ちも。
 王崎先輩に喜んでもらいたいから、って教会のバザーを引き受けた冬海ちゃんの真剣な目も。
 ── そう。みんな、わかるんだ。
 でも、私の中に引っかかっているモノ、それは……。

「みんなと、私、実力が全然違うんだよ、ね……」

 主旋律を追うことが基本のヴァイオリン。それほど難しいヴァイオリン譜はない、って言われてる。
 むしろ、ぱっと見比べたとき、一番難しいって思うのはピアノ譜。
 どうして初見でここまで弾けるのかって思うほど、細かく黒い塊が五線譜の上にも下にも踊ってる。
 土浦くんはそんな楽譜を難なく追いながら、それでさらに私の練習にも付き合ってくれてたっけ……。

 私はため息をつきながら、おそるおそる金澤先生からもらった紙を広げる。
 そこには課題曲は2曲選択のこと。さらに金澤先生の走り書きで、『清らかな曲がベター?』なんて書いてある。
 2曲。
 たった1曲をあれだけ四苦八苦してた私が、2曲……?
 少しだけ、創立祭のコンサート頑張れるかな、と思ってた気持ちがしゅんと小さくなる。
 ── やっぱり、無理だよね。……うん。

「日野先輩……?」
「は、はい! ごめんなさい! 本に頭、乗せてて……っ」
「はぁ……」
「あ、あれ? あ、志水くん」

 ふいに飛んできた声にあわてて謝って顔を上げると、そこには訝しげに首を傾げた志水くんが立っていた。

「昨日の教会のコンサート、お疲れさまでした」

 志水くんは律儀に頭を下げてくる。
 私は見上げる格好で、志水くんの顔を眺めた。
 長い睫が志水くんの頬に長い影を作っている。
 強い光に晒したら、透けてなくなってしまいそうな薄い色の髪がふわりと額を覆ってる。
 本当、可愛い子、だなあ……。

「う、うん……。どうもありがとう。あの、志水くん?」
「……なんでしょうか?」

 よく天羽ちゃんは、志水くんのことを、『反応がうすい』とか『からかいがいがない』って言って笑う。
 確かにそんなところはあるかもしれない。
 けど── 。
 彼は音楽に対しては真剣だ。だから、きっと感じたままの意見を聞かせてくれると思う。
 私は志水くんの方に身体を向けて尋ねた。

「あ、あのね。志水くんは昨日のコンサート聴いてて、どう思った? 感想、聞かせて?」
「そうですね……」

 ぼんやりとしていた志水くんの表情が、徐々にはっきりしたものに変わっていく。
 きっと彼の頭の中には、昨日のコンサートの旋律がオルゴールみたいに忠実に再現されてるに違いない。

「そうですね。ヴァイオリンが必ず、1/16拍ずつ遅れるのが気になったかな……」
「あ……。そ、そうだよね! ごめんなさい」

 う、やっぱり志水くん、耳がいいんだ。
 ってそうか、私が昨日の演奏の感想を聞けた人って、ほとんどが普通科の人ばっかりだもの。
 乃亜ちゃんや須弥ちゃんは、良かったよ〜、ドレスが。とか、つっちー、なかなかやるよね、とか。
 音楽がどう、ってことより、着てたドレスとか、教会の雰囲気についての感想がメインだったっけ……っ。

「冬海さんと火原先輩……。管の2人はぴったりだっと思います。オケ部であの2人はよく合わせてるからでしょうね」
「うん」
「僕にとって意外だったのが土浦先輩でした。
 あの人はソロ向きだと思っていたんですが、アンサンブルもきれいに響いてくる……。耳がいいんでしょうね」
「うん……」
「ヴァイオリンは少し音が固かったです。緊張で左手首が硬くなっているのを感じました」
「うん……。ごめんね」

 志水くんの総評を要約すると、つまり……。
 志水くんの耳は、私以外の3人には、合格点を。
 そして私には、……なんだろう? 赤点をプレゼントした、ってことになるのかな、……うん。

 感想、聞く前から大体予想はついたことなのに。
 こう、はっきり伝えられると、やりきれない気持ちが浮かんでくる。
 や、やっぱり、今度の創立祭のコンサートは、断ろう。これ以上、足、引っ張るわけにいかないもん。
 私はさっき金澤先生から渡された、創立祭コンサートの要項を手に取った。
 うん、そうだよ。みんなに相談する前に辞めよう。

「日野先輩?」
「ん? あ……、ありがとう、志水くん。いろいろ教えてくれて!」

 突然立ち上がった私に驚くことなく、志水くんはおっとりと微笑んでいる。

「……けど、いいところがありました。先輩のヴァイオリン」
「え?」
「先輩の作る音は、丁寧です。
 丁寧な音に対して、聴衆は丁寧に向かわなくてはいけない、という気持ちにしてくれます」
「ん……。だって、私、それしかできないもの」

 私は自嘲気味に笑うと、机の上に添えられていた志水くんの指を見た。
 男の人にしては小さな手。けど、弦を押さえる左手は、右手よりも一回り大きい。

 何年音楽に携わってきたか。それを言ったら私の経歴は1年にも満たない。

『おれって、まだ音楽始めてからあまり時間が経ってないんだ』

 そういう火原先輩だって、もう6年もトランペットを手元に置いてる。
 学年という区切りの中でだけ冬海ちゃんは私の後輩だけど、やっぱり音楽経験からしたら、私は彼女の足元にも及ばない。
 土浦くんは、といったら、それこそお母さんのお腹にいるときからピアノの音に触れていたわけ、で。

 ── だから、言われたことだけはちゃんとやろう。それだけは決めて練習してきた。

 けど、不思議。丁寧ってことは、こんなに褒められるべきこと、なの……?

 志水くんはふわりと小さく笑うと、まっすぐ私を見た。

「それは先輩の強みです」
「志水くん……」
「先輩の音は、僕にこれからの何かを期待させてくれる。
 だから、今度アンサンブルを組むときは僕もメンバーに加えてください」

 手にしていた参加要項が揺れる。
 私は、ぼんやりと志水くんの方に顔を向けた。

「え? あの、どうして、知ってるの? 今度、アンサンブル、って……?」
「金澤先生から聞きました。創立祭のコンサート、日野先輩をフォローするように、って」
「はい?」

 にやりと笑った金澤先生の口元を思い出す。
 ってことは、なんだろう。
 この書類を受け取った時点で、創立祭のコンサート参加は、決定事項だった、ってこと……?

 知らないうちに堅く噛みしめた唇から、痛みが伝わってくる。
 今の決意が苦しみを生むのか、喜びに変わるのかは、まだわからない。

 けど。  また、私、できるのかな。
 昨日アンサンブルを組んだみんなと。さらに高い演奏技術を持った志水くんとも。
 ── 一緒に、アンサンブル、してもいいのかな?

 志水くんはゆっくりと口を開いた。

「音楽と生きていくのって、大変でこわいことです。
 だけど、こわいとわかっていても、僕はもっと深く音楽に触れたい。そう思っています」
「志水くん……」
「音楽には僕の知らない先がある。
 僕は、日野先輩と僕のチェロがどんな風に響くか、興味があるから。
 だから……。よろしくお願いします」
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