*...*...* Elise *...*...*
「緊張、するよねー。冬海ちゃん」
「は、はい……。春のコンクールのこと、思い出します。
 あの時も私……。緊張が押さえきれなくて、あ、あの、そのっ」

 教会の前、冬海ちゃんは、素敵なブルーのドレスを着て表情を硬くしている。
 大きく開いた胸元の白さに深い色がよく映えて、すごく可愛い。
 私は細やかなレースワークが可愛い白いドレスに身を包んでいる。
 これは、当日直前まで、着るモノにまで気が回らなかった私にリリがプレゼントしてくれたもの。

『い、いいよ。楽譜も もらってるし、これ以上リリに面倒かけられないよ。
 あ、そうだ。私、春のコンクールで着た、あのドレス、着る!』

 ドレスが一緒でも、付けるアクセサリーを替えれば、同じドレスに見えなくも……、ない、よね。
 なんならアクセサリーのこと、最近ビーズ作りに凝っているお姉ちゃんに相談してもいい。

 私がそう言い張ると、リリは口を尖らせて反論した。

『ちっち〜。日野香穂子、お前は分かってないのだ。
 春のドレスは春のモノ。秋にはふさわしくないのだ!
 音楽は芸術の一部なのだ。季節を大切にできない人間は、繊細な音も大切にできないのだ!』
『だ、だけどっ!』

 結局最終日になっても、私の音は土浦くんや火原先輩、冬海ちゃんの音を追いかけるばかりで。
 最終日最後の練習が終わったとき、4種類の楽器の音が途切れたあとにやってきたのは、重苦しい沈黙だった。
 苦虫を噛み潰したような土浦くんの横、冬海ちゃんが顔を赤らめて、その場を取りなしてくれた。

『あ、あの……。私、最初と比べればかなりまとまってきたと思います』
『土浦くん、ごめんね。私、家でも練習してくるから』
『いや。日野、お前の家、防音部屋ないんだろ? いいよ、無理すんなって』
『で、でもね……』

 お互い歩み寄りができないまま、ため息をつく。

 ソロとアンサンブル。
 違いは認識してたつもりだった。
 けど、いざ自分が演奏するという立場になると、こんなに難しいものなのか、ってこの10日足らずで私、身に染みて分かった気がする。

 日によって。湿度によって、メンバーの気分によって。
 その時々の条件によって、4人の作る音は違ってくる。1日、1度として同じ音は鳴らない。

 以前、耳が鋭い、って月森くんに言われたことはある。
 けど、その些細な音が、私の耳にこんな風に響いてくるとは思わなかった。

 火原先輩に合わせる。── しっくり合う。
 今度は土浦くんの音に添わせる。── これで、いい。
 冬海ちゃんは私の音を聴いててくれる。だから、大丈夫。
 そう思って奏でていても、4人で合わせると、明らかに主旋律のヴァイオリンがブレているのがわかる。
 だから私は土浦くんの顔を直視できない。

 タイム・オーバー。もう、練習もできない。
 ど、どうしたらいいのかなあ……。

 火原先輩は大事そうにトランペットをしまい込むと、私たち後輩を見渡して勢いよく立ち上がった。

『もう明日なんだもん。今まで通り楽しんでやろう?
 あーっと、じゃあ、最終日の最終兵器ってことで、イメトレはどう?』
『イメトレ?』
『イメージ・トレーニング。
 おれ、陸上部の時よくやってたよ。こう、いいイメージを自分の中に刷り込むんだよね。
 日野ちゃん? 今日は、成功する、成功する〜、って念じて寝るんだよ?』
『── はい。やってきます』

 薄暗くなり始めた正門。急に辺りが冷えてきたような気がする。
 もう本番は明日。練習も今日が最後。そうだよね、やるしかないよね。

『じゃ、土浦、日野ちゃん。冬海ちゃんも頑張ろうね!』

 10月に入ってから昨日までの落ち着かない日々。
 あっという間に過ぎた9日間を思い出す。

 ヴァイオリンが好き。
 好きだから、夏休みの間も練習してきた。
 好きだから、今回のアンサンブルに誘われたとき、また春のコンクールのみんなと一緒に演奏できるのは嬉しい。
 単純にそう思った。
 けど、一つだけ誤算があった。

 ── それは、アンサンブルがこんなに難しいモノだったなんて、私が全然知らなかった、ってことだ。

『── って感じだったんだもの。とてもドレスのことまで頭が回らなかったよーー!』 
『ううっ、不憫な……』
『リリ……。あの、いいの。平気だよ? 私、制服のままでも』

 リリは せわしなく羽を動かしながら、目の縁に指を添えている。
 って言っても、多分、この子、泣いてないんだろうなあ。
 きっとリリの手の下には笑みが隠されてる。
 教会のバザーで、またアンサンブルが聴けること、リリ、すごく楽しみにしてたものね。
 手の下にある リリの斜め上にあがった口端を想像して、私は一人 吹き出した。

 なんだかんだ言っても、リリのこの調子の良さに乗せられて、春のコンクールにも参加して。
 こうして、教会のバザーで、アンサンブルに挑戦して。
 今、私の手元には、飴色に光るヴァイオリンがある。

 行きの車の中で、柚木先輩が意味深に笑っていたように。
 この秋も、私やみんなに何かが起きるのかもしれない。
*...*...*
「お? なんだ、この箱は?」

 天羽ちゃんの突撃インタビューやら、春のコンクールで一緒に参加した柚木先輩、月森くん、志水くんの頑張れメッセージを聞いた後。

 演奏会にはまだ少し時間があるということで、私と土浦くんはバザーで売りに出されている雑貨を見に行った。
 袋小路の行き止まりの一角に、古い教会たちから寄せ集めてきたような雑貨が品よく並べられているお店があった。
 棚の一番上には、古めかしい、落ち着いた色の小箱が置かれている、
 手を掛けてあげれば今より うんと素敵になるような気がするのに、その小箱は愛らしさより埃っぽさの方がまさって、ちょっとしおれているようにも見える。

「可愛い……。あれ? 横に小さな金具が付いてる?」

 私は小箱を手にすると、つまみを持って、ふと回すのをためらう。
 どうしよう。売り物、だしね。壊したら申し訳ないし……。
 でも、このつまみ。なんだろう、これ。もしかして……?

 私が指先で金具を弄っていると、土浦くんは大きく屈んで手元を覗き込んだ。

「日野、貸してみ? ああ、オルゴールか。手で回すヤツだな」
「そうなの?」
「ああ。……素朴で悪くない」

 土浦くんはそう言うと、そっと小さな金具を回し始めた。
 掠れた音が一面に広がる。おもちゃのような、ピアノの高い音。
 土浦くんは首をかしげると、目を細めて少し遠くを見つめている。
 きっと土浦くんの視線の先には、この曲の楽譜があるんだろう。そんな、優しそうな顔で音に聴き入ってる。

「名曲だよな。『エリーゼのために』か」
「あ、ちょっと待って。そのままにしてて」

 なんだろう。
 私も今までに何度も聴いたことある音。
 音楽に詳しくない人だって知ってるであろう、それほど有名な旋律、なのに。
 このオルゴールが作る音だけは、私の中の記憶を引っ掻いていく。


 小さな、黒い影。男の子か女の子か分からない。
『かほちゃん』
 っていう幼い声。
 袖を引っ張る小さな力。友だちが帰ろう? って誘ってる。
 ピアノの前のその子は真剣に鍵盤に向かってる。音に集中している。
 影が揺れるたびに生まれる音が、私の脚を動けなくする── 。


 ……なに? これ。どうしたんだろう、私……。
 もうすぐ演奏会が始まるから、って、気分が高ぶってるのかな。

「おい、日野、どうした?」
「頭、痛い……」
「は?」
「大切なことなのに。思い出せそうなのに、思い出せないよ。どうしてだろう?」

 当惑している私を、土浦くんはこれから始まるアンサンブルで緊張してる、って思ったんだろう。
 昨日よりも柔らかい表情をして私を見下ろした。

「身体が思い出したくないって拒否ってるんだ。ま、無理して思い出すこともないだろ?」

 オルゴールはゆっくりと頼りない音を止めていく。
 やがて煤けた色の金具は、自分の仕事に満足したかのように静かに止まる。

 私はぼんやりした顔で土浦くんの顔を見上げた。
 なんだろ。オルゴールが鳴っていたのは時間にすれば30秒にも満たない、短い時間だった。
 だけど、頭の中に浮かんだ幻想は、たった今見た景色のように思い出せる。
 ── その子の履いていた靴下の色までも。

「曲を聴いただけでそのときの景色や気持ちがよみがえってくる……。そういうことってあるよな」

 土浦くんは小さな子をなだめるような口調でそう言うと、手にしていたオルゴールをそっと、飾ってあった棚に戻した。

「俺にもそういう曲がある。……ま、お前にとっては記念の曲、ってわけだな」
「ん……」
「そろそろ戻るか? いい時間になっちまった。お前も少しは指慣らし するんだろ? ……ん?」

 土浦くんは、オルゴールを見つめたままの私に気付くともう一度視線の先の小箱を手に取った。
 私は手を伸ばすことも忘れて、食い入るように土浦くんの手を見つめる。
 どうしよう。今、またこの音楽から離れたら、もう二度とさっきの記憶は思い出せないかもしれない。

『無理に思い出すこともない』

 土浦くんの言ってたことは正しい。けど、でも……。

 ── 忘れられない。

 たぶん、きっと。絶対忘れちゃいけないことだって無意識の自分が判断したから。
 私はあの旋律を、記憶の底で眠らせてたんだよね。

「ま、少し落ち着けって」

 土浦くんはやれやれといった風に首をすくめると、そばに立っている売り子さんに声をかけた。

「── お兄さん、これ、買います。ちょっと急いでもらえますか?」
「はい。まいどー」
「あ……。なに? ちょっと待って、あの!」

 土浦くんの背に隠れて、売り子のお兄さんとのやりとりが見えない。
 大きな背中が振り返った、と思ったら、すらりとした土浦くんの手の上には十字架をモチーフにした可愛い砂糖菓子が乗っていた。

「ほらよ。昨日のお詫び」
「はい?」
「昨日、俺、お前にイヤな態度取っただろ? その、詫び。
 それとお前、あまりお昼食べてなかったろ?
 ピアノと違ってヴァイオリンは立奏なんだ。なにか口に入れておかないと、弾いたあと、倒れるぞ」

 土浦くんはにやりと笑って、私の頭に手をおいた。
 土浦くんのしなやかな もう片方の手が、ドレスからむき出しの腕を押す。
 ── どうやら、早く受け取れよ、ってことらしい。

「ううん? えっと……。ありがとう!」

 無造作に包まれたお菓子を両手に受ける。
 柔らかい紙に包まれたお菓子は舌の上に乗せたら、甘さを感じる前から溶け出してしまいそうな繊細な作りをしている。
 えっと、まず、お礼を言って、それから……。

 そうだ、私。土浦くんに言わなくちゃいけないことがある。

 土浦くんの昨日の態度は当然だ、ってこと。
 そして、私はその態度を全然気にしてない、ってこと。
 それと……。それと。
 私が一番言わなくちゃいけないこと、それは。

「……私、今日は頑張るから!」

 土浦くんの綺麗なピアノの音を、引き立てるような音を作ること。

 演奏が終わったとき。
 火原先輩や冬海ちゃん。バザーを見に来てくれた春のコンクールの仲間たちへ、胸を張って笑えるように。
 憧れてる、なんて、こっちがどういう顔していいか分からないほど優しいことを言ってくれる転入生の加地くんにも、花束分のありがとうを伝えられるように。

「ほら、早く行くぞ」
「うん!」


 私は土浦くんの声にせかされるようにして、教会のアプローチを進んだ。
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