ウィーンに来て、半月。1日の約半分は、薄曇りの空しか見えないことにも慣れてきた。

 食事がおろそかになることが心配だったのだろう。

『学院の紹介の下宿よりも、こっちがいいんじゃないかしら?』

 日頃あまり意見を言わない母が、何度もドイツ語で書かれた手紙を指さしながら俺を仰ぎ見ていたことを思い出す。
 
*...*...* Card *...*...*
「レンーー? レーーン! あなたに手紙よ」
「……ありがとうございます」

 下宿先のヘルマンさんは、ドイツとハンガリーを故郷に持つ、気さくな女性だ。
 多くの留学生の世話をしてきたからか、出身によってその人に合った料理を出してくれるとか、で、
 あまり食べることに関心の無かった俺も、彼女の料理は違和感なく口に合った。

 だけど、ただ、1つ。彼女の難点を挙げろ、と言われたら、俺なら『大きすぎる声』と評するに違いない。

 ヘルマンさんは、手にした封筒を俺に手渡しながら、興味深げに俺の手元を覗き込んでいる。

「あら? いつもより少し分厚いわね。なにかしら?」
「そうですね」
「なにか心当たり、あるの?」

 以前の俺なら、これほど自分のプライバシーに入り込んでくる人間を疎ましいと考えてしまっていただろうが、
 なんの邪心もなく尋ねてくるヘルマンさんに、今は、家族に近い親しさを感じていた。
 与えられる好意に素直に気持ちを開くこと。
 ……これも、香穂子が俺に与えてくれたモノの1つなのかもしれない。

「そうですね。多分、バースディカードかと」
「バースディ? レンのバースディなの? 今日?」
「はい」
「何歳になるの、レンは」
「今日で19歳になります」

 ブルーグレーの瞳が、一瞬明るく光って、これ以上ないくらい細められる。
 と感じた次の瞬間、俺の身体はがっしりとした太い腕に絡み取られていた。

「まあ。なんてこと。なんてこと! 水くさい。レンの誕生日だったの!
 あ、そうね。ディナーにはまだ間に合うわね。ティナのところで、とびきりの肉を買おうかしら?」
「いえ。お気遣いは結構です」
「下宿のみんな、呼べるだけ、呼びましょう。ね? レン」
「いえ……」
「いいこと? レン。夕食は6時からよ。とっておきの料理を作るから、遅れないように。いいわね?」

 耳の下で切りそろえられた彼女の銀髪が、嬉しそうに飛び跳ねている。
 こういうときの彼女には何を言っても伝わらない。
 俺はある種の覚悟を持って、のろのろと彼女の顔を見上げた。

「ねえ。全部私に任せておきなさいな。ね?」

 満面の笑顔はそう断言する。
 肩に乗せられていた手は、ゆっくりと滑って、俺の二の腕を労るように撫でていった。
*...*...*
 俺は最近よく行く公園まで脚を伸ばすと、レンガ造りのベンチに腰掛けて そっと香穂子からの封筒を開く。
 数十時間前には、確実に彼女の手の中にあった紙片。
 彼女はどんな想いでこのカードを書いて。
 いや、カードを送るという行為は、カードを探すことから始まるのか。
 香穂子は、どんな想いでこのカードを買い求めていたのだろう。

『音楽は、技術だけではなにもならない。難しい曲など練習すれば誰でも弾ける。
 大切なのは、届けたいと思う相手が演奏者に存在するか。そのメンタリティなんだ』

 ウィーンの音楽学校で一番最初に言われた言葉。
 その言葉に打たれたように、思い浮かんだ顔はただ1人。

 ウィーンに着いてから何度も想いを乗せて奏でた。
 だが、願いながら奏でる音の先に、彼女はいない。
 もしも、日本を発つのが1ヶ月遅かったなら。
 俺の香穂子への気持ちは、溢れるように大きくなって、ウィーンには旅立てなかったのではないだろうか。

 封筒からは、空色のカードが顔を出す。
 今の気持ちを引き延ばすかのようにそっと開くと、中には香穂子の優しげな字が踊っている。

『月森くん。誕生日おめでとう。
 今、日本はすごくいい天気だよ?
 染まりそうなほど真っ青な空が広がっています。
 ウィーンにも続いている、って思うとなんだか嬉しいです。』

 あっさりした文面。だけど、その行間に、香穂子の想いが散らばっているような気がしてならない。
 俺はカードを手にどんよりとした空を見上げた。

 ── 会えない

 溢れて、声にならない。
 香穂子を空に思い描く。
 面影が歪んで見えるのは、泣いているのが俺自身だからだろうか?

 ふと、先日王崎先輩からかかってきた電話を思い出す。
 彼は、国際コンクールで優勝を果たしたあと、ふたたびウィーンに留学。今は、俺のいる隣町に住んでいる。

『日本が恋しくなっている頃かと思ってね。月森くん。どう、調子は?』
『いえ。特に問題はありませんが』

 自分の中の感情をどう伝えていいのかわからなくて、その場をやりすごそうと俺は適当なことを言った。
 王崎先輩は電話口で少しだけ考えるように息をついた。

『頑張ってね。孤独は時にして、自分の音楽を高めてくれるのに役立つと思うよ』
『王崎先輩?』
『……おれも、そうだったから』

 俺は右手首につけている腕時計に目をやった。
 午後2時。ということは、日本は夜の9時になる。
 この時間なら、香穂子は自宅にいるだろうか。
 俺はゆっくりとダイアルを回した。
 聞こえ出す呼び出し音までも聞き逃さないように、痛いほどに耳殻を押し当てる。

「はい。日野です。……月森くん?」
「香穂子。今、いいだろうか?」
「うん。大丈夫だよ? どうしたの?」

 香穂子の声はいつも、俺の尖った部分を包み込むように優しい。
 俺はほっと息をつきながら、口を開いた。

 元々国際電話というのは、相手の声が聞こえるまでに数秒のタイムラグがある。
 母は俺に対する心配が止まらないのだろう。ともすれば、俺の言葉とぶつかり合って、聞き取れないことも多い、というのに。
 今まで香穂子と話していてそういうことは一度もなかったような気がする。

「君からのバースディカードを受け取った。……ありがとう」
「よかった。今日、24日にちゃんと届いた?」
「ああ」
「手紙出すときにね、何度もしつこいくらい聞いたの。ちゃんと24日に届きますか? って。
 あんまりしつこく聞くから、係の人、呆れてたの」

 ころころと愛らしい声が受話器から響いてくる。
 そうだ。
 去年の春、初めてこうして香穂子と会って。それから約1年。
 今は、こんなにも彼女の声が愛しい。

「香穂子……」

 そして離れている距離を思う。
 声は、聞くことができても。彼女の作る音を、CDごしに聴くことはできても。
 今は、彼女の姿を見ることはできない。もちろん触れることも。

「なあに? 月森くん」
「……君に、逢いたい」

 これは誕生日だというささやかな気持ちの揺れが、そうさせているのかどうかは分からない。
 だけど……。
 共に歩んだ、そして歩んでいく、その先に俺たちはまた再び出会うことができる。
 そうと思っているのは俺だけじゃない。そう信じたい。
 どう伝えればいいのかわからないような、生暖かい沈黙が2人の間に横たわる。
 すっかり乾き切った唇を舐めて、もう一度彼女の名前を呼ぼうとしたとき、香穂子の声が届いた。

「……私も逢いたいよ。また、一緒にヴァイオリンを弾きたい」
「香穂子」
「ヴァイオリンを弾いていれば、もっともっと上手くなれば、月森くんに逢えるかな」

 電話口の彼女は小さく笑った。

「そういえば、君は、ヴァイオリンの先生に就いたのだろうか?」
「えっと……。うん。昨日、初レッスンだったの」

 俺がいなくなった後、誰かが香穂子のヴァイオリンを気にかける人間がいればいい。
 そう思っていた俺は、ウィーンへ発つとき、自分の恩師を香穂子に紹介した。
 あれからもう3週間が経っている。
 1週間でも1日でも早く、先生の雰囲気を掴んだ方がいい。
 そう考えて、早めに師事するように伝えてはいたのだが。

「そうだったのか。もっと早く就いたのだと思っていたが」
「ごめんね。あの……。なかなか先生の都合がつかなくて」

 心持ちきつい口調になったのだろうか。香穂子は、すまなそうに口ごもった。
 いや、俺はなにを言っているのだろう。
 今日は、ヴァイオリンの話をするのではない。ましてや香穂子を責めるのではなく。
 しかし、ことヴァイオリンのこととなると、どうしても、香穂子に強く言ってしまうところが俺にはある。

「……いや。君を責めるつもりはない」
「ううん? そんな」
「すまない。ただ俺はカードのお礼が言いたかっただけだ」

 沈黙が続く、電話の先、香穂子はどんな表情を浮かべているのだろう。
 笑っていて欲しい。だけど、そう願うのは俺のエゴなのだろうか。

「今度の君の誕生日には、俺もカードを送ると約束する」
「……うん」

 ふいに、香穂子の声が詰まる。
 数秒のタイムラグ。
 それを待ち、やり過ごしても、遠く日本からは、微かな息づかいが聞こえるだけだ。
 こういうときは、どうしたら、いいのだろう、と俺は手にしている受話器を握り締める。

 すぐ近くにいれば、どうするのだろう。俺はどうしたいのだろう。
 多分、そうだ。
 香穂子の手を握り締めて、香穂子の身体を自分の胸の中に押し込めるだろう。そしてその先は……。
 ── 溢れて、声にならない。


 受話器から、自分の思いそのままの声が聞こえた。



「……逢いたい。早く」
←Back