私は、自分の生まれた日の風景を覚えていない。
 けれど、いつの頃からかな。
 そう、夏がいつの間にか終わって、あれ、日暮れが早くなってる? って気付く頃。
 朝夕、ちょっとだけ暑さを感じなくなるころ。
 そして、街からちょっと遠くの風景を眺めたとき、青かった自然が、金色に姿を変えているとき。
 誰に聞かされることもなく、もうすぐかな? って思う。── そう、もうすぐ。
*...*...* Name *...*...*

 その日の朝。
 カーテンの隙間から差し込む光が、昨日よりもほんの少しだけ足を伸ばして、私の顔に触れていた。

「ん……。もう、朝……? って、7時過ぎてる!!」

 もしかして、もしかして、1時間早い、ってことだったらいいな、と自分の目を疑いながらもう一度目覚ましを見る。
 けれど、どういう風に見つめたって、時計は明らかに7時5分を指していた。
 ぱたぱたと制服に着替え……、って今日から冬服だっけ。
 と手に取っていた夏用の制服を脇に置くと、私はクリーニング済のタグを取り外しながら冬服を着た。
 やっぱりちょっと布地が厚い。これじゃ、お昼休みなんかは暑いかもしれない。

「間に合わないよ……」

 カバンと、ヴァイオリンケースを手に勢いよく階段を降りてダイニングに向かう。
 するとそこには、お姉ちゃん用のハムエッグをお皿に盛りつけているお母さんがいた。
 彼女は、私を認めるとうっすらと目を細めた。

「おはよう。香穂子」
「お母さん、おはよう。私、ハムエッグ要らない。ミルクと、ロールパンだけでいい。早く!」
「香穂子、誕生日おめでとう。今年も良く晴れたわね」
「え? 今日だっけ?」
「そう、10月1日。今日で17歳ね。おめでとう」
「ありがと……」

 うわーん、時間、時間がないんだけどな。
 ダイニングの置き時計をちらりと見る。えーっと、あと、うん、5分くらいなら、大丈夫なはず。
 私は自分の席に座ると、一口大に切ってある果物を口に入れた。
 そして、ある予感に、少しだけ身構える。
 ── うう、多分、あの、話だ……。
 お姉ちゃんと軽く目配せをしていると、案の定 お母さんは、いそいそと嬉しそうな顔をして口を開いた。

「香穂子が生まれたあの日、ね……。香穂子ったら、予定日過ぎても生まれてこないから」
「そうそう、私を連れて、散歩に行ったのよね」

 お姉ちゃんが合いの手を入れる。
 う、お姉ちゃんてば、もうお化粧もキレイにすませて、朝ご飯も食べ終わって、優雅にコーヒーを飲んでる。
 同じ姉妹なのに、どうしてこんなに性格が違うの……?

 私は目の前に置かれたマグカップを手にすると、一気に半分くらいミルクを飲む。
 お母さんは、お姉ちゃんに笑いかけると、軽くトースターで焼いたロールパンを私に差し出した。

「そうね。お兄ちゃんは小学校に行ってたから」
「ふふ、香穂子は食べるのに精一杯みたいだから、私が続きを聞いてあげるわよ。お母さん」
「あー、もう。私、続き、知ってるもの。毎年聞いてるから」

 口を尖らせてそう言うと、お姉ちゃんはたしなめるような視線を送ってくる。な、なに……?

(聞いて欲しいのよ、きっと)

 その目は、笑いながらそう告げている。
 ま、まあね。お姉ちゃんのそういう気配り名人なところ、本当に感心する、とは思う。けど。
 秋が巡ってくるたび、私の名前を付けた理由。
 折にふれ、思い出すたび、何度も同じことを繰り返すお母さん、って……。
 ん……。今の私にはまだよくわからない。

「そうそう。ちっとも生まれないからたくさん歩いてください、てお医者さまに言われてね。
 その日はお姉ちゃんを連れて、ずいぶん遠くまで歩いたのよ。
 しばらくお姉ちゃんを構ってあげられなくなるわね、って、その日はバスに乗って、遠出したの」
「うん、それで?」
「行き先は特に決めてなかったから、一番最初に来たバスに乗ったの。
 そうしたら、そのバスったらどんどん田舎道の方に向かっていったのよ。
 私、途中で慌てて降りたわ。そのころは携帯なんて便利なモノ、なかったし。
 あまり遅くなるとお兄ちゃんも帰ってくるし、って」

 お母さんは、椅子に座るとうっとりと話し続けてる。
 上気した顔は、私が見ても、本当に愛らしい人、だとは思う。
 で、でも。えーっと、時間、時間が気になるよ……。
 どうしよう、ここで置き時計を見たら、お母さん、可哀想かな。で、でも今日は本当にマズい、よ。

 私は少しだけあきらめの気持ちを持って、ロールパンをちぎると口に入れた。
 ── もう、いいや。今日はお母さんにお付き合いしよう。

 お母さんは私がおとなしくなったのが嬉しいのか、にっこりと笑いかけてくる。
 聞き手を、しかも、一番語りたい相手を一人確保できた、って、感じの得意満面な顔をしている。

 毎年、この日に語られるお話。
 お母さんもこのお話はかなり話し慣れたんだろう。
 毎年、少しずつ、話の内容が面白くなってる。
 そして、毎年、少しずつ、修飾部分、っていうのかな、追加の話が増えてくる。── なんだか、可笑しい。

「それでね。降りた場所は少し高台で、すごく香ばしい匂いがしたの。ほら、妊娠中って鼻が利くようになるから。
 最初は何の匂いか分からなかった。けど、目の前の景色が教えてくれたの。
 ああ、これは、豊かに実った稲穂の匂いだ、ってね」
「お母さん、その先のセリフを言ってあげようか?」

 お姉ちゃんは目に微笑を浮かべてお母さんに問いかけた。

「『目の前に広がる稲穂が風に吹かれて、ビロードみたいに色を変えたのよ』、って?」
「『だからその日生まれた子に、香り高く、稲穂のような実りある人生を、って『香穂子』と名付けたの』、って?」

 私もお姉ちゃんに釣られるように、お母さんの続きの言葉を口に載せて。
 2人で思わず笑い出す。
 私たちが告げた2つの言葉は、例年、どんなことがあっても変わらない、お母さんの中の名文だったから。

「もう、なんですか。2人して。お母さんの一番言いたかったところを先取りするなんて」

 お母さんは不満そうに口を尖らせてる。

 家族に女の子が、って、お母さんはもう女の子は卒業かな……。女の子が3人いる、ってある意味、不幸かも。
 どうしても2対1に分かれちゃう。
 そして1になった人は、どんなに正論を告げたとしても、言葉の数からして負けちゃうんだ。

「今日も暑いかな……」

 ひとしきり笑った後、東に面した出窓を見てつぶやく。
 夏休みほど強い日差しではなかったけど。
 そこには、暖かな日溜まりが照り返していつもより白っぽい部屋を作り出していた。

「そうよ。例年、あなたの誕生日は晴れって決まってるの。
 あなたの生まれた日も、こんな風に空が高くて、清々しい日だったわ」
*...*...*
「やっぱり、遅刻だよーー。新学期早々、遅刻なの? カッコ悪い……」

 私は大通りまで一気に走ると、肩で息をした。
 出掛ける直前に、ぱっぱとツインテールにした髪の毛も、今は、頬の横でふわふわと踊ってる。
 どうしよう。SHRが終わったら、一度鏡を見に行かなきゃ。

 手には、カバンと、そして、ヴァイオリン。
 冬の制服を着たからかな。それとも、今私がいるこの空気が、春と似ているからかな。
 私は珍しく、春のコンクールのことを思い出していた。

「ふぅ、っと……」

 そうして、呼吸を整えるためにゆっくりと歩き出す。

 春のコンクールに出てから、私の生活は大きく変わった。
 いつでも、ヴァイオリンのことを考え続けるようになった。

 ヴァイオリンに出会う前の毎日を今になって振り返ると、── そう、なんでも『受け身』、だったように思える。
 なんとなく、それなりに勉強をして。放課後はみんなと遊んで。カラオケに行ったり、ショッピングに行ったり。
 ── 与えられたモノを、そのまま、当たり前に楽しんでいけたら、それで十分、って感じだった。

 リリからの頼まれ事も、あんなに困った顔をしてるリリを放っておけなくて……。
 私が手伝えることなら、なにか、やろっか? って軽く応じた。
 コンクールに参加したばかりの時は、音楽のことなんて本当に何もわかってなかった。

(でも── )

 真剣に音楽に向き合っている音楽科の人たちと話すにつれ、考えるようになった。
 この人たちをここまで駆り立てる音楽って、なんだろう、って。
 私は、この人たちの『音楽』と同じ存在のモノを何か手にしてるのかな、って。

 進んでいくコンクール。親しくなり始めていった、コンクール参加者さんたち。
 それぞれみんなスタイルは違うけれど、真摯に音楽に向かっている姿を見たとき。
 コンクール良かったよ、って声をかけてくれる人が増えたこと。
 そして。
 演奏の後に受ける喝采。
 身体の内面から沸き上がる震えを、どうしようかと思った。

 ── それに、なにより……。
 ライバルの存在である私に 惜しみない拍手を送ってくれてた 最前列のコンクール参加者さんに、泣きたくなった。
 音楽ってすごい、ってそう思った。
 音楽っていう壮大な入れ物の中じゃ、ライバルとかそういうささやかな垣根はどうでも良くなっちゃうんだ。
 どうでも良くなって、そして、私が作る音、そのものを楽しんでくれてる。

 ── そんな大切な気持ちに気づかせてくれた音楽に、私はずっと触れていきたい。

 そう思った私は、コンクールが終わってからも、ずっと1人でヴァイオリンの練習を続けていた。
 学院がある日は学院の練習室で。週末は、港の見える公園で。街角で。
 リリの姿はあれ以来もう見ることはなかったけど、それでも幸せだった。

『ブラボー!!』
『香穂、良かったよ! 頑張ったよ〜〜』

 ふとした弾みに思い出す、コンクールのときにもらった拍手が、ずっと私の背を押してくれていた気がする。

『お前さん、そんなにヴァイオリンやるならさ、音楽科に転科してみたらどーだ? ん?』

 夏休み中、しょっちゅうヴァイオリンを弾きに学院に通ってた私を見つけると、金澤先生は何度か同じ言葉を投げてきた。

『ん……。今はヴァイオリンを弾くことが楽しくて、転科って、ピンと来なくて……』
『そうか? まあ、3年に進級するときまでにゆるゆると考えるのも悪くない、か』

 転科? 私が、音楽科に?
 なんだかその未来は、私が入学したときに想像していた生活とは全くかけ離れてるだけに、どうしても想像がつかない。

 だから。……いいや。今できることを、今、精一杯、しよう。
 それから後のことは、もし私にとって必要なものなら、絶対私の背中に付いてきてくれるはず。
 で? 私が今すること、っていうのは……。

「遅刻しないこと、だよ〜!」

 誕生日に遅刻なんて、恥ずかしすぎるもん。
 腕時計を見て、猛ダッシュする。
 うわああん。朝のSHR、間に合うかな。家に帰ったら、お母さんに文句言っちゃいそう。
 あ、冬服の制服が目に入ってきた。あの集団に入れば、セーフ、かな。よし、もう少しだ。

「日野さん?」
「は、はい??」

 すぐ目の前に黒塗りの車が止まった、と思ったら、そこから優しげな声が聞こえてきた。
 この声は……?

「柚木先輩? おはようございます!」
「車から見えたんだけど、やっぱり君だったんだね。学院まで乗っていかない?」
「ありがとうございます。助かります」

 私はぺこりと頭を下げて、渡りに船、と言わんばかりに柚木先輩の車に乗り込んだ。

 車内は空調が整っていて、目の前の人は汗一つかいてない顔で私の顔を覗き込んでいる。
 3年生なのに、身に着けている制服は、1年生の子のように、汚れ一つない。
 それでいて、制服はすっきりと身体に馴染んでいるみたい。すごく着慣れてる感じが漂ってる。

 ── 緊張する。

 思えば、これで遅刻しなくてすむ、ラッキー、って感じで、誘いに乗ってしまったけど……。
 なんだか面映ゆい。
 柚木先輩は、コンクールの間はそれこそ毎日のように顔を合わせていたけど。
 夏休みを経て、9月。
 そして、今は、ときおり放課後に話をするくらいの間柄だったから。

『柚木は外部進学だからいろいろ受験の準備が大変なのかもね。
 え? おれ? おれは内部進学だから、多分大丈夫だよ』

 火原先輩が言っていたことを思い出す。
 そっか。だから、練習室に行っても、あまり柚木先輩の姿を見かけないのはそのせいかもしれない。

 会わない時間が積み重なって、なんとなくぎこちない空気が生まれてくる。
 柚木先輩は私の雰囲気を感じ取ったのか、さりげなく話題を振ってくれた。

「車の窓から見る風景はいつもとはまた違うんじゃないかな。
 街路樹も色づき始めた。すっかり秋らしくなったよね」

 そうだった。私……。
 この先輩の、こういうところが好きだったっけ。
 時折り私に見せる凄みのある態度も。容赦ない言葉も。
 あとで振り返ってみると、とても私のことを考えた上での、心からの助言だって気づいたときから。

「はい……。本当ですね」

 窓の外に目を向ける。そこには、確かに昨日とは違う、優しい黄色に染まっているイチョウが立っていた。
 それは、毎日遅刻〜、とか言って、走ることばっかりに夢中になっていたのがもったいないな、って思えるほど、素敵な色合いをしていた。
 んー。明日からもう少しだけ早起きしよう。17歳になったんだし、できるよね、きっと。

「君と初めて会ったとき、季節はまだ春だった。……ずいぶん前に感じるよ」
「そうですね。私も、そう思ってたんです。今日、衣替えでしょう?
 冬の制服に手を通したとき、春のコンクールのこと、思い出しました」
「おや、そう?」

 柚木先輩は軽く頷くと、すんなりとした細い脚を組んだ。
 革靴のつま先が光ってる。
 うわ、こういう人に、遅刻、とか、寝坊、とか、全く似合わない言葉かも……。

「コンクールは実りある時間だったと僕は思うよ。今となっては思い出深いね。
 ── ときに、君はこの秋には何が待っていると思う?」
「んー。なんでしょう……?」

 待ってる、待ってる……。
 体育祭でしょ。それに、文化祭。と、それと、あまり想像したくない期末試験。

 友達や先輩に聞くばかりで、完全なお客さま状態だった、1年生。
 こんな脳天気な私でも、少しは受験のことを考えなきゃいけなくなるだろう、3年生。
 そして、そのどちらでもない2年生の今年。

 自分の生まれた季節、ってこともあって、大好きな季節の始まり。
 ── きっと、何かある。
 わくわくして、泣いたり、笑ったりして。

 多分、今、考えられるのは、文化祭、クラスで出店する模擬店のことかもしれない。
 少し先のこのイベントを、親友の乃亜ちゃんと須弥ちゃんは心待ちにしているみたい。

『日野っち、アンタ、お菓子作るの得意でしょ? ノルマ、クッキー200枚!』
『200枚? 本気で??』
『クッキーって日持ちするじゃない。私たちも香穂子んちに手伝いに行くからさ。頑張って』
『オッケー。じゃあ、2人とも、働かせちゃうからね〜』
『ラジャ』

 200枚もクッキーを作るのは確かに大変だけど、そんな風に、大親友たちと過ごせる週末って、すごく楽しみな気がする。
 あ、そうだ、2人の好きなパッヘルベルのカノン、さらっとおさらいしておこうかな。喜んでくれるといいな。

「日野さん?」
「あ、えーっと。もちろん、楽しいことが待ってると思います」

 車はあっという間に校門の前に付くと、運転手さんが恭しくドアを開ける。
 柚木先輩は、口元に微笑を湛えて、私を目で促した。



「ふうん、君はそう思ってるんだ。── まあ、君の思い通りになるといいよね」
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