*...*...* Again *...*...*
「── そう。教会のバザーでアンサンブルを? それは楽しみな企画だね。僕もできたら顔を出すよ」
「ホント? 柚木。そうしてくれると嬉しいな! みんな、頑張ってるんだよ、土浦も、冬海ちゃんも、日野ちゃんもさ!」

 昼休み。
 隣にいる火原は、ごそごそと白い袋の中に手を突っ込むと、2つ目に食べるパンをどれにするのか選ぶのに余念がない。
 俺はその邪気のない横顔を、複雑な思いで見つめる。

 ── なんだ。また、日野絡み、か。

「なんかさ、懐かしいよね。春のコンクールが」
「ああ、そうだね」

 観戦スペースを渡ってくる気持ちいい風に当たりながら、俺は火原の言葉に釣られるようにして、春のコンクールのことを思い出していた。
 普通科から参加したというだけで、充分な話題性がある上、さらに、普通科の判官贔屓も手伝って、日野のコンクール順位は、4回のコンクールの間中、ずっと1位を保ち続け、ついに総合優勝を飾った。

 ── どうしてだかわからない。今になってみてもわからない。

 日野の音楽というのは、どこを取っても平凡だ。素直で、まっすぐで。大した技巧も表現力もない。
 あのレベルなら、同等のヤツらが学院には何十人といるだろう。

 しかし、そう思う俺の中に、日野の順位はひどく当たり前のことだと肯定する自分もいたり、する。

 あいつが奏でる音は、どんな音も、心地良い。
 ラ・カンパネッラのような激しい曲も、ユーモレスクのような華やかな曲も、日野の手に掛かると、どこか教会の賛美歌のような穏やかな曲調になる。
 森の広場で顔を合わせたときなどは、暇つぶし程度に合奏に付き合ってやったこともあったが。
 ふうん、なるほどね。
 あれと同じようなことを、火原を含む4人は今、やってるってわけか。

 そして忌々しいことに、ふんわりとした日野の音は、フルート以外の他のどんな楽器にも優しく馴染んでいるのだろう。

 火原は最後のパンをあっという間に平らげると、手にしていた袋を小さく丸め込んだ。

「ほら、日頃、学年が違ってたりするとなかなか一緒に合奏する機会ってないよね。
 ましてや日野ちゃんや土浦は、普通科でしょ? 普段組めない人と合奏できるなんてラッキーだよ」
「まあ、ね」

 俺は手にしていたお茶を飲み干すと、あごに手をやる。
 4人。火原と土浦と、冬海さんと、それと、日野、か…。
 管2、弦1、か。面白い構成だな、トランペットが室内楽か。

 トランペットを少人数のアンサンブルに入れるのは珍しい。
 思いつく編成と言えば、金管五重奏くらい、か。
 でもそれも、日野の弦が入っていてはできない。
 主旋律を追う日野と、伴奏の土浦はいい。あと、は、トランペットとクラリネット、か……。
 弦が1本では少なすぎる。これではトランペット以外の楽器がトランペットに消されてしまう。

「ねえ、火原。今回の選曲はなに?」
「え? えーっと、『だったん人の踊り』かな? リリ経由で楽譜をもらったんだ。
 これならこの4人の編成でも大丈夫かなー、って。さらっと譜読みしたけど、なんとかなりそうだったよ」

 火原は俺の3倍の量のパンを簡単に腹の中に納めると、勢いよくペットボトルのジュースを飲み干した。

「火原も大変、だね。オケ部の演奏会もあって、そして、日野さんにも頼まれて」

 多少の含みを持たせて告げたつもりだったが、火原は俺の屈託に全く気付くこともなく、笑って立ち上がった。

「いいよ。おれ、オケ部の方は、今度の演奏会、乗り番少ないんだ。
 それに、日野ちゃんやあのメンバーと一緒に練習できるの、楽しいしさ!」
*...*...*
 放課後。
 俺は自分の気分に任せて、森の広場へと脚を進めた。
 制服が一斉に色濃くなっただけで、どこかしら周囲の木々も秋らしい色に染まってきているような気がする。
 自分自身が夏を好まないこともあって、どこか涼しさを備えた風は気持ち良く頬を撫でていく。

 手には、ナナカマドの色を映したフルートが光っている。
 本当は春のコンクールを終えた時点で手放さなくてはいけないと思っていた楽器だったが、来春必ず志望大学に合格するという条件の下、祖母は俺が楽器を続けることを許可した。
 夏休みを過ぎた今でも、授業で楽器に触れる機会は継続してある。

『大学に合格するための学力は損なわないようになさい』

 理性では分かっていても、祖母にとって、どこかフルートの存在は目障りなモノなのだろう。
 フルートケースを携えて学院に通う俺を、時折、眉を顰めて顧みている。

 ── 全く、つまらない人生だね。
 何百年も前から続いている家。権力。血筋。
 変わるモノなんて何もない。
 何の役にも立たない日記を書き続けるという、脈々と受け継がれる柚木家の家風の中、俺も何百年か後の子孫に、こいつはなにつまらないことを書いていたんだと そしられるのかもしれない。
 ── 今の俺がそう、過去の人間をあざ笑ってるように。

 俺は指慣らしを始めるべく、腰に力を入れて、心持ち脚を広げる。
 どんなところにいたとしても人の目がある。
 それに加えて俺には、3年間の蓄積もある。
 俺の無様な練習風景など、誰の記憶にも残したくないからね。

 手慣らしの曲。そうだ。今日はあの曲がいい。
 俺は思いついた楽曲に満足しながら、フルートを構えた。
 旋律の山を高く保つために、深く息を吸う。
 相棒に息を吹き込もうとしたそのとき、ひょうたん池の向こうから 素っ頓狂な声が響いてきた。

「んーー。上手く合わないね……。どうしよう、冬海ちゃん」

 ── この声は。……日野か?

 ……なんなんだ? あいつは。
 演奏に向けて盛り上がった気持ちを、急に上から蓋をされたような感覚が浮かんでくる。
 俺は眉を顰めると、声のする方に顔を向けた。

 10月に入ってからというもの。火原が日野のことを口にするたび。
 日野のヴァイオリンの音だけじゃなく、声までもが俺に引っかかってくるようになったのか?

 木々の陰の元、普通科のプリーツスカートと、見慣れた音楽科の深緑色のスカートが見える。
 手に持っていた楽器を降ろしたのだろう。
 普通科の白いスカートの横に艶やかな弓が見え隠れする。
 ── やっぱり日野。あいつか。
 普通科のヴァイオリン持ち、といったら、あいつしかいない。

「ええっと、冬海ちゃん、ここの解釈なんだけど……。曲の入り方、っていうか、どうしたらいいのかな?」
「あ、あの、立ち上がり、ですね。香穂先輩は主旋律ですし……。
 土浦先輩のピアノに合わせて一緒に……、って私は考えていました」
「待って。ってことは、私がミスる、と……?」
「えと、その……。香穂先輩の後から入る私も、そして火原先輩も、そその、ミス、することに……。ごごめんなさい」

 冬海さんはクラリネットを降ろすと、日野に頭を下げたのだろう。
 手に持っていた楽器も申し訳なさそうに、日野に向けて大きく上体を揺らしている。
 って何も冬海さんが日野に謝ることは全くないだろうに。

 俺は、一歩脚を進めた。
 日野は、俺に背を向けて、譜面台の楽譜に大きな赤丸を付けている。

「うう、ヴァイオリンって責任重大なのね……。ごめん、私、もう一度自分一人で さらってみる!」
「わ、私ももう少し、自分のパート、やり直してきます」
「ごめんね、冬海ちゃん、もうオケ部の練習時間だよね。
 また明日、一緒に合わせよう? 私、普通科つながりで、土浦くんに声をかけておくから」
「わかりました。私、これからオケ部で火原先輩にお会いするんです。火原先輩の都合も聞いておきますね」
「ありがとう。よろしくね」

 冬海さんはよほど時間が気になっていたのだろう。腕時計を見つめると、弾けるように森の広場を横切っていく。
 日野は冬海さんの後ろ姿が見えなくなるまで飽きることなく手を振っている。
 冬海さんは、よほど日野の態度が嬉しかったのだろう、何度も振り返り、ぺこりと会釈をして走っていく。

「アンサンブル、か……」

 日野は自分に聞こえるくらいの小声で呟くと、さらりと楽譜を撫でている。
 俺はそんな様子を背後から眺めた。

 ── こいつ、全然変わってない。
 肩先で元気に跳ねている髪も。伸びやかな肩のラインも。

 春のコンクールに初めて会ったときから。
 コンクールが進んで、本当の自分を見せたあとも。
 そして、音楽科を差し置いて、俺たち3年をも差し置いて、優勝したあとも。

 気負わず、明るく。── ただ、純真に音楽だけを楽しんでいるように見える。

 その屈託のない元気さは、俺の親友とかなり似通っているように思う。
 ── だから、俺は、見過ごすことができないでいるのか?

 俺は、もしかして認めているのかもしれない。日野は俺にとって強敵なのだと。

 だとしたら、やっぱり。
 遠く離れたところで、こいつの様子を人伝てに探るより。
 いっそのこと俺の手中に入れて、監視している方が、精神衛生上良いかもしれない。

「よーし。もう1回自分でやってみよう。ここから、かな?」

 日野はヴァイオリンを肩に乗せると、弦を鋭角に持ち替えた。
 話しかけるなら、今のタイミング、ってところか。

「全く。相変わらず騒々しいな、お前」

 日野は俺の声に何か感じるところがあったのだろう。
 ぴくりと肩を震わすと、ゆっくりと弓を降ろして振り返った。

「び、びっくりした! 柚木先輩……。い、今、気配、なかったですよ?」
「心外だね。誰かさんと違って、俺は静かな佇まい、っていうだけだよ」
「あはは、確かに、そうかも……。えっと、柚木先輩も練習ですか?」
「ああ。森の広場の静寂さを好ましく思ってやってきたら、お前のにぎやかな声が聞こえてきたってわけ」
「ごめんなさい。アンサンブルって難しいなあ、って悩んでたんです」

 日野は肩に乗せたヴァイオリンを降ろすと、まぶしそうに目を細めて笑った。

「火原から聞いてるよ。アンサンブルやるんだって? それもまたリリ絡みで」
「んー。どうだろう。リリ絡み、っていうなら、王崎先輩絡み、って言った方がいいかも、です。
 えっと、ううん……。それも、違うかな……」
「なに?」

 日野はくるくると表情を変える。
 そのときに浮かんでは消えた、うたかたのような感情を追いかけるのに必死といった雰囲気だ。

「そう。私、冬海ちゃんと一緒に、また演奏したいなーって思ったんです。
 春のコンクール、よく一緒に練習しましたから。── なんだか、私を頼ってくれるのが嬉しくて」

 俺はさりげない風を装って、聞きたかった核心に触れていく。

「ふうん。じゃあ、火原をメンバーに選んだ理由は?」
「えっと、そうですね。火原先輩は星奏の付属大学へ内部進学だって聞いたことがあって……。
 受験がないなら、アンサンブルの練習をするお時間もあるかなあ、って。
 オケ部の先輩としての本領も発揮してくれそうだよね、って冬海ちゃんとお話して」
「へえ」
「その後すぐ、リリから楽譜をもらったんです。
 そうしたら『だったん人の踊り』はピアノが必要だ、ってことになって、土浦くんにお願いして」
「なるほどね」

 今の日野の言葉にそれほど事実との隔たりはないだろう。
 大体、こんなあどけないばかりの日野に流暢なウソをつく智恵が回るとも思えないしね。

 ということはつまり。
 ── 火原を選んだ気持ちに取り立てて下心もなさそうだ、ということか。
 別にそうならそうで、見てる分には楽しいしね。
 俺も卒業までの退屈しのぎができた、ってところだし。

 まあ、これからの火原の動きに注目、といったところか。

 俺は譜面台に目をやる。
 そこはまだ手に入れてから2日しか経っていないのに、あちこちに朱いペンで書き込みした跡のある楽譜があった。

「『だったん人の踊り』か。いい選曲じゃないか。俺好みだ」
「そうですか? ありがとうございます! なんだか最初の入りのタイミングがなかなか掴めなくて……」
「アンサンブルは理屈じゃ割り切れない、人間くささがある。
 だからアンサンブルメンバーと何度でも音合わせするんだな。それで見えてくるモノもあるから」
「はい」

 日野はこと音楽に関する話を聞くときは、真剣な面持ちで俺を仰ぎ見る。

 春もそうだった。こんな感じだった。
 俺の助言を聞いて。それで終わりじゃなかった。
 数日後に聞く音色は、いつも俺の助言以上のモノを返してきた。
 だから、俺は……。絶えずこいつのことが気になっていた。
 日野は、譜面を睨み付けると、指で音譜を追っている。
 春のコンクールの時の、ヴァイオリンのみの譜面とは違う。
 旋律の中に各パートの副旋律、従旋律が入り込み、ぱっと目には真っ黒に見える楽譜。
 そんな中、日野の演奏する主旋律だけは朱色のラインが引いてある。

 俺は軽く咳をすると、日野から目を逸らした。
 ……そう。俺にとって、今こいつに対して浮かぶ感情は、── 悪くない。
 日野の一途さを見るのは。

「まあ、お前を除いて、みんな音楽の素地豊かな人間ばかりだから、大丈夫だろ?」
「はい、そうですよね……。って、……あれ?」
「なに?」
「お前を除いて、ってなんなんですかーー」
「今頃気付くなんて、お前、反応悪すぎ」

 故意に含ませたトゲ。それに気付く反応の遅さも以前と変わらないまま。
 そして、そのトゲを丸めて しなやかに返してくる様も、夏休み前と変わらない。

(どうしてアンサンブルに俺を誘わなかったの?)

 なんて言葉は、もう渡す必要のなくなった古い手紙のようにも思えてくる。

 ひとしきり笑った後……、と言っても、目の前の日野の笑顔は、苦笑混じりの恥ずかしそうなものだったが、俺はどこか心が軽くなるのを感じていた。

「それにしても、お前も次から次へといろいろ巻き込まれるものだな。日野」
「ま、巻き込まれる、ですか?」


「そうだろう? 春のコンクール然り、今回のアンサンブル然り、だ。
 俺の親友を引っ張り回すんだ。せいぜい、恥ずかしくないだけの音を聴かせろよ」
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