*...*...* Course *...*...*
 腹八分目、という言葉があるが、俺はそれよりも心持ち少なめの量を食すと静かに箸を置いた。
 昼下がりのカフェテリア。
 この時期はまだ気温が上昇するからか、登校するときは羽織っていた上着を椅子に掛けて、ベスト姿でいる生徒も多い。
 食器を片づける者、遅れたとばかりに、慌てて食べ物を口に放り込む者。さまざまだ。

 昼からの実技に備えて、食べる量を調節する。
 そんなことは誰でもが基本的にしていることかと思ったが、どうも俺の感覚は違うらしい。
 実技のある午後はいつも昼食を控え目にする俺に、火原はいつも目を丸くして答える。

『え? 柚木、ご飯、もう食べないの? そんなんじゃ思い切り吹けないじゃん』
『ああ。僕はいつもこれくらいの量で満足してるんだ。実技前となると、あまりおなかが膨れていても吹きにくいから』
『って、もっと食べなきゃダメだよ。おれたち成長期なんだから』
『ふふ。まだ僕たちは、成長期なの?』
『うん! 兄貴が言ってた。タバコを吸わなきゃ、男はハタチまで大きくなれるって』
『そう』
『だからおれ、しっかり食べておこうと思って! 実技って特にハラ減るしね』

 似たような楽器とはいえ、トランペットとフルートでは力の入れる場所が違う。
 トランペットは横隔膜を深く振動させることで、フルートはブレスを止めながら少しずつ息を続けることによって音を作る。
 だからといって食事の量が、楽器に依存するとは考えにくい。
 結局のところ、食事の適量というのは、個人の裁量に依存する、といったところか。

(実技、か── )

 カフェテリアの中を見回すと、三々五々に生徒は散っている。
 普通科の制服の中、音楽科の制服がちらちら目に入る。
 食欲を満たす、という本能的な行動の前、みな柔和な顔をしているような気がする。

 分かっていたことだ。
 音楽は高校まで。それから先は、法学部か経済を選択し、柚木の家を助ける。
 わかっていたことだ。だから自宅でそれなりの勉強をすることは大した苦労じゃない。

 苦労、いや、── 苦痛、なのは。
 こうして学院にいる間中、音楽に囚われる、ということだ。

 俺の意志とは全然違う場所で、至極まっとうに、音楽は流れていく。
 当たり前だ。俺の属している科は音楽科。ほとんどの人間が音楽に関係ある進路に向かう。
 授業の約5割は音楽関係。
 放課後は練習室からさまざまな楽器の音が流れる。

 ── 離れようにも離れられない。

 だったら、そうなら。
 俺の思う最高の形で、音楽と別れてやる。
 音楽から見捨てられたのではない。俺が、俺の意志で音楽を見捨てるんだ、と。
 それが俺の中の美意識だった。

 知らずに出たため息を振り払うかのように立ち上がると、俺はトレーを返却口に返した。

 ── 日野。
 昨日聴いたヴァイオリンの音がよみがえる。
 今、普通科にいるあいつは、音楽の道へ進むのだろうか?
 春先に聴いた拙いばかりの音は、技巧の点では明らかに音楽科に劣っていた。

 ……けれど。

 俺の中に浮かぶ予感は、ある種の確信を持って胸の中で乱反射する。
 春のコンクールで思いも掛けない成長を見せたあいつのことだ。
 今度のアンサンブルでも、日野は俺が唇を堅く結ばずにはいられないほどの変化を見せてくるだろうか。

「柚木」

 ふいに肩を叩かれる。
 振り返ると、いつもより少しだけ小さめの紙袋を持った火原が立っていた。
 袋一杯の食べ物は火原の元気のバロメータだと考えている俺は、さりげなく火原の持っている袋を見て顔をかしげた。
 食べ物と火原の元気度の因果関係をそんなところで計ってると、火原が知ったときのことを俺は想像する。
 たぶんこの親友は、屈託なく子どもみたいに頬を膨らませて笑うのだろう。

『全く、柚木ったら、こんなことで、おれの元気度を測らないでよ』

 けれど、ま、3年近くそばにいるんだ。
 態度や行動。口に出さなくても把握できる部分はいくらでもあるってことだ。
 ── とはいえ、『探偵』扱いされるのは本当に心外だけどね。

「どうしたの? 火原。そんな顔して。目的のパンが買えなかったの?」
「いや、パンは買えたよ。パンはね……。ううん、そうじゃなくってさ」
「どうかした? 君が口ごもるなんて珍しいね」
「え? あ、うん。柚木の進路のことなんだけどさ」

 こくりと息をのみ、火原は視線を床に落とした。

 ああ、そう言えば、今朝は進路調査票の最終提出日だった、か。
 それで、この親友は、なにかの弾みに俺の進路票を目にした、というところ、か。
 音楽科の中で一人だけ、音楽ではない進路を選択する俺に、音楽科の先生方も多少戸惑っているところがあるみたいだから。
 進路主任の先生が、俺と火原の関係を知った上で、何気なく火原に話題を振ったのかもしれない。

「僕の進路?」
「うん、そう。柚木さ、……大学に行ったら、ほんとに音楽を辞めるの?」

 ── やっぱり、ね。
 俺は目元に微笑を作ると火原を見上げて言った。

「ああ、そのことね。そうれならもう、高校に入ったときに決まっていたことだから。今更言っても仕方ないだろう」

(イマサラ イッテモ)

 自分の告げた言葉が、この時だけは信じられないほどの量感を持って胸に迫る。

 高校を受験するときから、いや、ピアノを辞めた中学から。
 いや、もっと言えば、俺が柚木の人間として生まれたときから。
 俺は柚木の家をサポートする駒の一つだ。
 音楽は芸術の一環として自分を彩るたしなみの、数あるうちの1つ。
 人生のレールにするにはあまりに不安定な存在だと。

 ── そう、わかっていたはずだ。

 とはいえ、自分の発した言葉が耳を伝って、脳が『理解する』という一つの形を取ったとき、この事実を誰よりも納得させたい人間は、俺自身なんじゃないかという気がしてくる。

 馬鹿な。何を言ってるんだ、俺は。
 柚木の家の方針をそのまま受け入れ生きることが、俺の最善な道だと分かっている。
 そのそばから、こんな気持ちが浮かぶなんて。

 火原はくやしそうに頬をゆがめると俺を見据えた。

「そりゃあ、柚木の家の事情はおれだって知ってるけどさ。なんか、こう……。おれは納得できないよ。
 柚木が音楽が好きだってこと、誰が見たってわかるのに!」
「火原」
「どうして、それだけじゃダメなのかな……」
「誰もが自分の好きな道を選べるわけじゃないよ。だけど、ありがとう」
「柚木?」
「親身になってくれる友人がいるっていうのはいいものだね。それだけで気が楽になるよ」

 止めることのできない時間の中で、数多くの人間が今まで、行き交い、離れていった。
 その中で、火原と出会えたことは、俺の数少ない財産かもしれない。
 ── そう、心の荷物をそっと降ろしたような。

 どうせ音楽を続けることはできないんだ。
 だったら、せめて惜しまれて辞めるのも、俺の美意識に準ずる行動だろう。
 少しの間 床に目を落としていた火原は、知り合いを見つけたのか、大きく手を振った。

「あ、日野ちゃん!」
「やあ、日野さん。君もカフェテリアに来たの?」

 日野は気まずそうに会釈をすると、もごもごと言い訳のような小さな声を上げた。

「あの、今日のアンサンブルの練習場所のこと、火原先輩にお伝えしようって思ってて。
 そうしたら、なんだかお取り込み中みたいだったので、少し待っていたんです。
 ごめんなさい。あ、あの……。ちょっとだけ聞こえてしまいました」
「ああ、今の話?」
「はい。本当なんですか? 柚木先輩が音楽を辞める、って……」

 日野は火原と変わらないほど、強い意志の持った瞳で俺を見つめた。
 夏の日焼けが少し冷めたのか、それとも冬用の制服がそうさせるのか、日野の顔はどこか白っぽく光っている。

「私、まだ、春のコンクールの時の先輩の音、覚えてます。春の歌も、フォーレの子守歌も」
「日野さん?」
「もう、聴けなくなっちゃうんですか?」
「日野ちゃん……」
「ごめんなさい。柚木先輩には柚木先輩の事情があるのに……。
 でも、私、この秋からまた音楽漬けの毎日が始まって、ますます音楽が好きになってきたんです。
 火原先輩や柚木先輩に教えてもらいたいこともまだ、たくさんあるんです。なのに……」

 火原は俯く日野を痛ましそうに見ている。
 日野と同じ気持ちなのだろう。
 俺を責めることも、日野を励ますこともできないまま、ぼんやりと俺の顔に視線を移した。

 どうして、なんだ? ……どうして2人とも、そんな悲しそうな顔をするんだ。
 俺が音楽を辞めたから、と言って、お前たちの進路が塞がれるわけではない。
 音楽を知る方法は、俺以外でも十分用が足りるというのに。


 ── 利己的すぎる俺を、どうして、そこまで、気に掛ける?


 沈黙を破るように、俺は明るい口調で2人の間を取り持つ。

「ま、3年になると進路が現実の問題になるという話だよ。3年になれば日野さんもわかるんじゃないかな」
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