*...*...* Poster *...*...*
 ここのところ、ずっとからりとした天気が続いている。
 昼はまだまだ半袖が恋しいほど暑いけど、朝夕はどこか涼しい。
 私は、教室の窓から見えるファータの銅像に目を遣る。
 明日の教会のバザーも、今日くらいのいい天気になるといいな。

『香穂先輩。今日も一緒に音合わせをしましょう』

 お昼休みのカフェテリアで冬海ちゃんにそう言われていたことを思い出す。
 そっか、もう、明日が本番なんだよね。ってことは練習できるのも今日が最後、ってことだから……。
 しっかりやっておかないと、だよね。

 火原先輩と、土浦くんと冬海ちゃん。それに私。
 音楽科の2人は言うまでもなく、そして、普通科という枠は土浦くんには当てはまらないくらい、3人の技術はすごい、と思う。
 勘が良い、っていうのかな。それを人は『センス』とか『才能』って言葉に置き換えるのかも知れない。
 一緒に音を合わせていて、ちょっとしっくりしないところがあると、彼らはそれを耳に書き留める。
 そして次の演奏の時には、耳のノートを開いて、確実に合わせてくる。
 ノートと言えば、紙と鉛筆が必需品の私には、とてもマネできない才能だと思う。

 私はぼんやりと昨日の練習を思い出した。

『あ、あの! ごめんなさい。私、立ち上がり、遅かったよね?』
『あ、いいですよ。香穂先輩。私が少し遅らせましょうか』

 冬海ちゃんは優しい笑顔でそう言ってくれる。

『ん……。ありがと。ごめんね』

 音がずれるたび、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 冬海ちゃんを助けたい、って思ってコンサートの参加を決めたのに。
 助けたい、どころか足手まといになっているような気さえしてくる。

『って、冬海。日野を甘やかしても、こいつのためにならないぜ?』

 土浦くんはピアノの上に指を置いたまま、手厳しく反論した。

『立ち上がりの出来不出来で、その曲の8割の印象が決まるんだ。
 しっかりやっておかないと、その後の演奏、自分が苦しいぜ? ほれ、もう一度やってみな』
『あ、じゃあ、おれも乗るよ。日野ちゃん、土浦の言うようにさ、もう一度やってみよ? いくよ』

 火原先輩は、私と土浦くんの間を取りなすように、明るい声で盛り上げてくれる。
 そっか。教会のバザー、明日なんだ。ってことは今日の放課後しか練習できないんだよね。
 が、頑張らないと……っ。

 手をぎゅっと握りしめる。
 手の平に当たる爪は、堅さを持って緊張感を伝えてくる。

 ソロでいっぱいいっぱいの私が、アンサンブル、なんて、考えれば考えるほど無謀、だったのかもしれない。

 ソロが出来たらアンサンブルはすぐ出来るのかな、って思ってたけど、どうやらそれは大きな勘違いだったみたいで。
 ソロの場合、一緒に演奏すると言えば、伴奏のピアノ、もしくは無伴奏で。
 本当はあってはいけないことなんだろうけど、もしも私のヴァイオリンのピッチが少し速くなってしまったときには、伴奏のピアノさんは、主旋律のヴァイオリンに合わせてくれる。

 だからソロは、極端な場合、自分の感情を全て乗せてしまう演奏も可能だった。

 けれど、アンサンブルはそうじゃない。

 演じる以上に、聴く耳、が大切なんだって、練習するたびに思う。
 そして練習するたびに、痛感する。── 自分の耳の情けなさに。
 聴けてない。追いつかない。音を消す瞬間が分からない。

 主旋律を受け持つヴァイオリンパートが乱れると、他の楽器全部に影響する。

 他人の音を聴くゆとりがある3人は、自分のリズムを調節する余裕がある。
 私が、しまった、と思った次の瞬間には、絶妙なタイミングでテンポを調整してくれる。
 そのたびに、身体が縮まるような居心地の悪さを感じてしまう。
 もちろん、火原先輩、土浦くん、冬海ちゃんは私を責めるようなことは何も言わない、けど……。

 私は、沈み勝ちな考えを振り払うかのように首を振った。

 明日、なんだもん。
 まずは練習あるのみ、だよね。今、私ができる、できるだけのことをするしかないもん。
 放課後になったら真っ先に、待ち合わせ場所の正門に行こう。
 そしてみんなより先に練習していよう。少しでも、いいから。

「日野っち。今日も練習?」
「香穂子〜。私たち張り切って聞きにいくからね!」

 背中から柔らかい腕が回ってくる。振り向く前に、肩の上にぎゅっとあごを乗せられた。

「須弥ちゃん、乃亜ちゃん……」
「プレゼント、須弥は、王道で花でしょーっていうんだけど、私はダンゴ派なんだ。
 香穂子、プレゼントは食べ物の方がいいよね? ねね、『いいよ』って言ってー!
 私、駅前に最近オープンしたケーキ屋、全種類制覇したいの!」
「乃亜ちゃん」
「って、乃亜、あんた、自分が食べたいだけなんじゃないの?
 日野っち、明日、何色のドレス着るの? ドレスに合った花を買っていくよー」
「須弥ちゃん……」
「日野っち?」
「あ、えーっと、ドレスはね、ドレスは……」
「香穂子?」
「どうしよう。まだ、私、準備してない!!」
「は?」


 きらきら。
 そんな言葉が一番ぴったりくるような親友2人の笑顔に送られて、私は練習に向かう。
*...*...*
「コンサートのお知らせでーす。よろしくお願いしまーす。
 あ、コンサートです。よろしく……。やあ、日野ちゃん」
「火原先輩!」

 屈託のない声がする、と思ったら、真っ先に笑顔が飛び込んできた。
 火原先輩の手にはトランペットの代わりにすごく分厚い紙が握られている。

 たくさんの原色。飛び出して来そうなポップな文字。遠目からでもぱっと目を引く。
 火原先輩、なに持ってるんだろ……。
 えっと、さっき、『コンサートのお知らせ』って言ってたよね。
 だから、コンサート。そして、多分、明日の教会バザーのコンサートのお知らせ、かな?

 でも、火原先輩の持っている紙からは、教会、だとかそういう古めかしい雰囲気は全然感じられない。
 華やかな原色からは、レストランの開店ポスターの案内のような活気が溢れている。

 火原先輩は明るい笑顔で、手にしていたチラシを1枚、手渡してくれた。

「今さ、チラシ配ってたんだ。コンサートの宣伝しようと思って。ほら、これ、見て見て」
「本当……。わ、トランペットの写真入り、ですか」
「うん、あのね、そのチラシ、おれが作ったんだよ!」

 火原先輩は得意満面、っていった顔で笑っている。
 どうしてだろ。火原先輩は私より年上で、音楽の経験からしても明らかに先輩。
 それは変わることない事実なのに、こういう顔で見つめられると、私の方が年上のような気がしてくる。
 ── 火原先輩からもらった分以上の元気を、お返ししたくなってくる。

 私の表情が不安だったのか、火原先輩はちょっと声のトーンを落とした。

「とにかく目立つヤツにしようと思って。絵とか写真とか貼ってみたんだけど、どうかな? ちょっと派手?」
「ううん? 素敵です。私、コンサートのチラシって思いつきませんでした。元気な感じでいいですよね」
「良かったー。そう言ってもらえると嬉しいよ!」

 ……んー。教会のコンサートというより、ライブハウスのロックコンサート? って感じも、しないわけではなかった、けど……。
 明るい色調のチラシからは、火原先輩がどんなに明日のコンサートを楽しみにしてくれているのか伝わってくるようだった。

 心の底がじわりと暖かくなる。
 ── なんだか、嬉しい。

 さっきまで感じていた、アンサンブルに対する不安が少しだけ 音を立てて溶けていくみたい。

「あれ?」

 火原先輩の胸に影が差す。柔らかい影は確実に火原先輩を包み込むとそこで止まった。
 通りすがり、の人じゃない。誰か、確実に、私たちの会話に興味があって、ここまで来た人。
 誰、だろう? 土浦くん? 冬海ちゃん?

「ふうん。それって火原の作ったチラシかい? 見せてくれるかな?」
「柚木!」
「ああ、日野さん。こんにちは。いよいよコンサートも明日だね」
「あ、柚木先輩、こんにちは」

 柚木先輩は私の挨拶に軽く頷いて、火原先輩からチラシを受け取った。
 2人の間の空気はすごく心地良い。
 3年間、ずっと同じクラスで親友なんだよ、って火原先輩が自慢するように、2人の雰囲気はとてもしっくりしてる気がする。

「柚木、どう? このチラシ」
「すごくいいねえ。にぎやかで、火原らしくて、とても目を惹くと思うよ」
「ホント? へへ、柚木がそう言ってくれると心強いよ」

 柚木先輩の言葉がよほど嬉しかったのかな。
 火原先輩は私のとき以上の笑顔を見せて、柚木先輩に笑いかけている。

「おれね、コンサートがすごく楽しみなんだよ!
 たくさんの人に聴いてもらって、音楽を楽しんでもらえたら楽しいし、嬉しいよね!
 だからできることは全部やろうと思うんだ」
「それはいいけど」

 柚木先輩は一旦、言葉を切ると、悲しそうな表情を浮かべた。

「でもね、火原。そんなにたくさんのチラシまさかひとりで配るつもりなのかい?
 僕たちはあてにされてないのかな?」
「え? 手伝ってくれるの?」
「もちろんだよ、ね、日野さん。せっかくのコンサートなんだ。みんな喜んで手伝うさ」
「そっかー。じゃあ、っと。……あ! 志水くんと、月森くん、発見!!」

 火原先輩は柚木先輩の言葉に素直に頷くと、早速下校途中だった志水くんと月森くんをつかまえて、チラシを手渡している。

「ええとね、志水くんは50枚! 月森くんは志水くんより先輩だから、はい、100枚ね!」

 月森くんと志水くんには、天羽ちゃん経由で、教会バザーのコンサートをするんだよ、とは伝えておいたけど、
 まさかチラシを配るお仕事を任されるなんて考えてもいなかったんだろう。
 突然の展開に、断るタイミングも見つけ出せないまま、チラシの束を受け取っている。

「ごじゅうまい……」
「志水くんはまだいいじゃないか。俺は、100枚……。一体何枚作ったんだ」
「え、多いかな? それ重い? おれ、張り切りすぎ?」

 当惑したような2つの顔を見て、火原先輩は顔を曇らせている。

「ふふ、いいんじゃないかな。コンサートだし、それくらいしないとね。
 さ、日野さん。僕らも配ろうか。── 君は何枚にする?」
「え? 私も、ですか?」

 ええっと、星奏って全校で何人いるんだっけ。って、そもそも火原先輩、何枚印刷したのかな?
 火原先輩の手にはまだ分厚いチラシの束。
 それを柚木先輩はあっさり半分引き受けると、にっこり微笑んで そのほとんどを私に手渡した。

「わ。こんなに、ですか?」

 うわあ……。私は月森くんの手元を見る。うわ、これ、絶対、月森くんの倍はある!

 突然降って湧いたように入った、教会のバザーでの演奏会。
 このイベントを知らない子も確かに多い。だから、直接チラシを配るって、効果がある、とは思う。
 で、でも。

 200枚近い枚数の紙、私、全部捌ききれるのかな?

 恨みがましい目で見つめていると、柚木先輩は楚々とした顔で口の端を上げた。
 品良く細められた目には、

(お前に拒否権、ないから)

 って書いてある……。ううん、絶対、そう言ってる!

「おや、日野さん。何か不満でも?」
「い、いえ! あの、やります。ううん、やらせていただきますっ」

 ── や、やればいいんだよね? やれば……っ。

 よく考えてみれば、今度の教会のバザー、月森くんや志水くんは参加しない。
 柚木先輩も参加しない。
 けれど、春のコンクールに一緒に参加した仲間だっていうことで協力してくれてるんだもの。
 こうやってみんなが手伝ってくれるのは火原先輩の人柄の賜物なのかもしれない。

 あの、底抜けの笑顔を見てると、こっちまで元気をもらったような気持ちになってくる。
 ── そう、火原先輩のトランペットと同じなんだもん。

 私はリリの銅像の下に、そっとヴァイオリンを置く。
 ここから見上げたリリの指先の方向には、暖かそうな秋の日差しが満ちている。

 よっし。頑張って配っちゃおう。
 チラシを配ることで少しでもバザーに来てくれる人が増えるなら、王崎先輩も喜んでくれるよね。

 手の中で、パサパサとチラシを馴染ませて、端っこに指を添える。
 いつも授業で使う紙とはちょっと厚みが違う。火原先輩、張り切って、すごく良い紙を使ったのかな。
 私の手の中、チラシは言うことを聞いてくれない。
 わ、さらりと紙は指から逃げていく。1枚ずつ、取りにくい、かも。

 折り線を付けないようにそっとチラシを抱えると、最初受け取った以上に重みを感じた。
 う、200枚、か……。

 待って。……200枚?
 ってことは……。

 学院にいる人全員が、私のことを応援してくれているワケではないことは知ってた。
 けど……。

『コンサート? 相変わらず君って目立ちたがり屋なんだね。── 音楽科でもないくせにさ』
『大体 素人の君に、アンサンブルができるとは思えないけど』

 昨日、正門前で練習した後、白い制服の人に言われた言葉。
 タイの色が月森くんと同じだった。だから、2年生。私と同級生。
 メガネの奥、光った目が凄みを増したのを覚えてる。決して好意じゃない、鋭い視線を。

 その言葉を確信づけるような、ちっともしっくり響かない『だったん人の踊り』のメロディが聞こえてくる。
 拙いまでの私の演奏も。

「そっか……」

 目が熱い。
 ……って、バカだ、私。泣く前にしなきゃいけないこと、ヤマのようにあるのに。

 そっか。今、あの人たちが来ることも、当然あり得るわけ、で。
 私、笑顔でお願いします、って言うんだよね。言えるかな。
 200枚もあるんだもの。渡す人を選択してたら、渡し切れない。

 知らないうちに止まった手を、柚木先輩は何か言いたげに見つめている。

 ── どうしよう。私。
 昨日ぶつけられた言葉と同じような言葉を柚木先輩に今言われたら、少し、ううん……。
 かなり、落ち込んじゃう、かも。

 柚木先輩は、くるりとキレイな弧を書くように見渡すと、さりげなくみんなに指示を出した。

「ああ。配る人がこんなに集まってていてもなんだね。少し散らばろうか。
 さ、日野さん。僕が声をかけるから、君はチラシを手渡して」
「あ、そうだよね。柚木。じゃあ、月森くんと志水くんはこっち来て。
 おれが 声かけ係、ね。で、きみたちは、チラシ配り係、と。みんなにどんどん手渡していってよ」

 先輩たちに言われるままに、私たちは正門の前、二手に分かれる。
 手にしているチラシは遠目から見ても、くっきりとした原色が目に止まるのだろう。
 同じチラシを持っている私たちは目立った。
 中には あからさまに私たちに指を差している子もいる。

 そうだよね。興味を持ってくれる人になら、手渡すこともスムーズにできるよね。
 昨日のあの人たちに会ったら。
 私は、余計なこと言わないで、お願いします、とだけ言って、会釈して手渡せばいいんだ。

 ふ、っとため息をついて、もう一度手の中のチラシを撫でる。1枚ずつ、と、紙の端を広げていく。
 再び動き出した手を、柚木先輩は今度は何も言わずに見守っている。
 そしてふと顔を寄せると、耳元で囁いた。

「ふぅん。ベソかきそうになってたから連れ出してやったのに。お礼の言葉はないわけ?」
「は、はい?」
「さっき、あそこでお前 泣き出したら、他の人間に言い訳できないだろ?」
「…………」
「それとも、そのまま放っておいてあげた方が良かった?」

 傷を知ってるクセに、知らん顔して様子を見ている。
 ネズミをいたぶるネコってこんな感じなのかもしれない。
 けど、昨日言葉をぶつけてきた音楽科の人と、違うところが1つある。

 心配に裏打ちされたこの人の意地悪を、私は、春のコンクールで知っているから。

 ── 負けるもんか。

「日野?」
「えっと。お気遣い、ありがとうございます。
 あ、もしかして、柚木先輩。受験勉強で視力が落ちた、かも、ですか?」
「は?」
「私、泣いてなんていませんから。
 ……よし。頑張って終わらせちゃいましょう! 柚木先輩、じゃんじゃん人を集めてくださいね」

 チラシの一枚を手に取る。
 早く配ったら配っただけ、他のみんなと練習する時間が増える。
 ん。そうだ。急いで、全部配っちゃおう。
 それで、4人でアンサンブルする前に、土浦くんと2人で練習しよう。
 まっすぐな気性の彼なら、きっと私の音に対して、まっすぐなコメントをくれるはず。

 柚木先輩はやれやれといった風に笑うと、集まってきた生徒に聞こえないような小さな声でまた意地悪を言った。

「ったく。気をつけろよ」
「はい? 何を、ですか?」



「── 紙の端で、指先を傷つけるなよ、って言ってるの。
 技術も足りない上に、ケガでもされちゃ、俺の方が聴くに堪えないからね」
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