*...*...* Reason *...*...*
教会のコンサートが終わってから1週間。森の広場で。エントランスで。正門前で。
以前にも増して、学院中のあちこちで、日野がデュオを組んでヴァイオリンを構えている姿を見かけるようになった。
目に入るのは、教会のコンサートメンバーとは違う、土浦や火原以外の人間……。
昨日は、志水や月森といった弦仲間が日野の周囲を集っていた。
その前は、志水くんの間を取り持つように、冬海さんや王崎先輩が混ざっていた。
(なるほどね。まずは弦の仲間に声をかけた、ということか)
日野は深く認識はしていなかったようだが。
教会でのコンサートで選んだ楽器は、ヴァイオリニストにしてみれば、ひどく難しい取り合わせだったと俺は思う。
アンサンブル慣れをしていない人間が、デュオなり、トリオなりを組むのなら。
ピアノは別として、弦は弦同士、管は管同士組むのが好ましいし、やりやすい。
音楽科では基本的すぎるその事象に、日野は気づかないまま、リリの渡された楽譜を頼りに、この前の演奏をしたのだろう。
(もし、俺が日野と組んだなら……)
火原と同じ管とはいえ、フルートはかなり繊細な楽器だ。ヴァイオリンともそこそこ音域も合う。
── 俺なら、もっとあいつを引き立ててやれるのに。
「……なにを馬鹿なことを」
そこまで考えを巡らせて、俺は自嘲気味にため息をついた。
こんな日の放課後、俺の脚は忠実に俺を屋上へと運んでいく。
夏休み明けに出した、進路の調査票。今日は、その2回目の提出日だった。
担任から話を伝え聞いたらしい金澤先生は、昼のカフェテリアで俺を見かけると、言いにくそうに口を開いた。
『なあ。柚木よ。お前さん、本気か?』
『なにが、でしょう?』
『って、お前さんの進路のことだよ。
お前さんの担任は、創立以来、音楽科から音楽以外の進路で、優秀な生徒が出る、ってご満悦だがな。
── お前さんは、本当にそれでいいのか? お前さんはまだまだ音楽をやりたそうに見えるがね』
『……おっしゃる意味がわかりかねますよ。先生』
元々、俺にとって音楽は、自分を彩るための道具。単なるステイタスでしかない。
あんな儚いものに、この俺の一生など かけられない。
気持ちを落ち着かせるために、と脚を運んだ屋上では、早くも萩や女郎花が重たそうに蕾を抱えて立っている。
ふと一人になりたいとき。考えを落ち着かせたいとき。
俺は自分本来の姿に戻りたいと思うと、好んでこの場所に足を向けては、わけもなく、正門前で行き交う学生たちを眺めていた。
時折 先客があると、また、来客があると、人知れずため息をついてその場を後にしたけど。
どうしてだろう。
── 俺の領域に入る人間のうち、なぜだか日野だけは、不快じゃなかった。
「おや? ……なんだ。先客あり、か」
俺は、ドアを開けてすぐ横の階段を昇って風見鶏の近くまでいくと、フルートを組み立て始めた。
と、そのとき、俺の行動を見計らっていたように弦の二重奏が響き始めたからだ。
1つはヴァイオリン。このふわふわと柔らかい音は、あいつ。日野だ。
優しい音色、というのはソロでこそ、映える機会を与えられるかもしれないが。
デュオとかアンサンブルになった場合、ややもすれば、個性の強い奏者に消されてしまう。
そしてもう1つの弦。
これは……。チェロじゃない。チェロとヴァイオリンの間の音。……ヴィオラか。
中年の落ち着いた女性のような穏やかな音色とは裏腹に、時折、浮ついたような華やかなキーが混じる。
かなり弾き込んである上、恐ろしいくらいまでに、聴き手を意識した演奏なのが気にかかる。
星奏音楽科の中で、ヴィオラを専科としている人間はそれほど多くない。
良い意味でも悪い意味でも、記憶に残る強い個性。
少なくとも、俺は一度聴いたら忘れない。
── 一体、誰が弾いてるんだ?
眼下の2人は、初めての手合わせだったのだろう。
フレーズの山を軽く合わせ終えると、弓を持った手を止めた。
「すごいすごい! 初めてのデュオで、こんなにうまくいくなんて! ありがとう。加地くん!」
「どういたしまして。君はまだ気がついていないだけさ」
「はい? 気づくって、何を……?」
「君の音色はどんな楽器とも、どんな演奏家とも合う、優しい音なんだよ。
厳かなのに、暖かくて、気持ちいい。……僕の夢がこんなに早く叶うなんて、誰に感謝したらいいんだろう」
男、か。……加地、というのか。
届く声も、柔らかく、耳障りがいい。
たった今終わった演奏に酔っているかのように、加地という男は、そめそめと日野に語りかけ続けている。
「えっと……。夢? 叶う、って、なあに?」
「え? あ、ああ。それはこっちの話。あ、そうだ。僕、これから、ちょっと図書館へ行ってくるよ。
今の感動を忘れないうちに、この曲の背景と史実を深く分かりたいから。じゃあね。日野さん!」
「あ、か、加地くん? 今日はありがとうね」
加地、と呼ばれた男は俺に気づくことなく、屋上のドアを開けると、リズミカルに階段を降りていった。
「ヴィオラとヴァイオリン、か……」
屋上に一人取り残された日野は、さらりと楽譜台の上の総譜を撫でて微笑んでいる。
「よーし。もう1回練習しよう!」
大きな声の独り言。
こういうところが子どもっぽいというか、なんというか。
── 見ていて危なっかしくて。気になって。……腹が立って。
白い横顔が風に吹かれてちらちらと見える。
ほんの一部分だけ、何かの間違いのように、朱く火照ったような頬。夢見るような口元。
楽譜を追うために伏せられた目の端には、長いまつげが陰を作っている。
いつからだったろう。……思い出せない。ピアノを辞めた頃から、ずっと、だろうか?
違う。だったら、もっと最近のことから思い出してみよう。
俺が、今の日野のように。
── 無心に微笑みながら楽器に触れた、一番最後の日はいつだっただろう……?
俺に音楽に続く未来はない。待っているのは、退屈なあの家での暮らしだけだ。
そう。俺は、日野のように、音楽一辺倒ではいられない。
「ふぅ、っと」
俺は、ヴァイオリンを肩から降ろし、ほっと息をついている日野に軽い拍手を送った。
日野は、太陽の光がまぶしかったのだろう。目を細めて、逆光になった俺を見上げる。
「あ、柚木先輩ですか? こんにちは!」
「お前、相変わらずだな」
「え?」
「お前、夏休み前のコンクールの時も、そうやって屋上で練習してただろ?
音楽は聴衆がいてこそ成り立つ芸術だ、と俺が何度も教えてやっても、な」
「はい……。でも、なんだか落ち着くんです。この場所」
日野は軽い足取りで階段を昇って俺の隣りにくると、嬉しそうに白い歯を見せた。
たった今終えた演奏を反芻しているような、優しい顔で。
「なあ、日野。音楽って、そんなに愛しいものなの?」
「はい?」
「何度も言わせるなよ。お前の考えが聞きたいだけ。どうなんだ?」
「どう、って言われても……」
言葉を濁してあちこちへと視線を逸らしていた日野は、俺の問いかけが真面目なのを察すると、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「柚木先輩が言った、『愛しい』って言葉は、まだ私にはしっくりこないような気がします。
音楽って、今の私には手に負えなくて、戸惑ってばかりだから……」
「へえ」
「だけどね、ヴァイオリンが好きです。1人で演奏するソロよりも、みんなでやるアンサンブルの方が好きです」
「……そう」
「私、土浦くんや火原先輩、冬海ちゃん。一緒に演奏してくれる人の足を引っ張らないようになりたい。
今はそれだけ、かな……?」
「ふうん。面白いじゃないか」
この時の俺は、何に腹が立ったのかわからなかった。
音楽への熱意か? 無邪気さか。単純さか。
いや、俺にはすでに閉ざされているドアを、簡単にノックし、開いて、飛び込もうとする姿なのか。
斜め後ろからの、俺の不機嫌な視線には気づかなかったのだろう。
日野は俺を振り返ると、思い詰めたような目をして俺を見た。
「そうだ。あの……。柚木先輩も、アンサンブルメンバーに入っていただけませんか?
受験でお忙しいと思うので、お時間のあるときだけでも、一緒に、その……」
「お前の言う通り、俺は今年、受験生でね。音楽とも卒業と同時に辞めることは、お前も知っているはずだ」
「そ、それは……っ」
「フルートなら他にもいるだろう? そいつらを誘えば?」
「で、でも、あの!」
日野は珍しく言い募ると、痛みに耐えるように顔を歪めた。
「柚木先輩のフルートが、いいんです。聴いてて気持ちよくて、その……。
ずっと聴いていたくなるんです。柚木先輩の代わりはいなくて、だ、だから」
「……で?」
「あ、あの! お願いします」
ヴァイオリンと弓を持った両手を身体の前できれいに組んで、日野は生真面目そうに頭を下げている。
その真剣な様子が面白くて、俺は、つい、からかいたくなった。
「へえ。それほどまでのお願いなんだ」
「は、はい!」
「じゃあ、お前、何でも俺の言うこと、聞く?」
「はい……?」
「たとえば、こうしたり、とか」
ヴァイオリンで両手がふさがっていることをいいことに、俺は日野の頭を抱きかかえると、そのまま自分の胸元に押しつけた。
風を はらんだ髪からは淡い香りがし、その奥には形の良い耳が見える。
「じ、冗談はやめてください。あ、あの……っ」
「むやみに振り回すと、ヴァイオリン、傷つくぜ?」
「あ……」
あと半年を音楽と一緒に。
── どうせなら、飽きない人間を傍らに置いておいた方が、楽しめるかもしれない。
これ以上なく赤らんだ日野の頬に満足しながら、俺は承諾の返事をする。
「明日からは、練習するときは、俺に声をかけろよ。……お前より客受けは いいはずだ」