『そうそう。いつ、どこに、男子の目があるかわからない、っていうのに』
『って、須弥 お目当ての、音楽科の彼は、いないか〜』
『ちょっ! しーーっ。乃亜、もっと小さい声で』
親友の乃亜ちゃんと須弥ちゃんは、2人でじゃれ合うように笑っている。
2人が言うことはもっともだけど、放課後のまとまった時間はどうしても練習にあてたい。
このところ、ずっと乾燥した天気が続いている。
こんな日は、弦の音が遠くまで響くような気がして、少しだけ上手になれたかも、って幸せな気持ちになる。
昼休み、私は ものすごい勢いでお弁当を食べ終えると図書館へ来ていた。
*...*...* Doughnut *...*...*
「えーっと。モルダウ、モルダウは、っと……」図書館の一番奥。
リリからヴァイオリンをもらうまで、まるで知らなかった音楽の世界。
その象徴のような重厚なドアが、図書館の一番奥にひっそりと はめ込まれているのを知ったのは、コンクールが終わった頃だった。
『ヴァイオリンを弾くだけが音楽ではない。音楽の背景や作者を深く知ることも大切だ』
そう言って、月森くんが案内してくれた。
なんでも……。なんだったかな。
音楽とか、美術、とか。
芸術に秀でる人間を育てるためには、『経済的に』だとか『勿体ない』だとかいう考えは不要なんだ、って聞いたことがある。
だから、なのか、この書庫の中にある本は、普通科の生徒が利用するそれと比べて、かなり大人っぽい感じがする。
装丁にこだわった本も多くて、本棚から降ろすのも、傷が付くんじゃないか、って、緊張するくらい。
「あ、これかな?」
私は目的の本を見つけ出すと、書庫を出て、閲覧スペースに向かう。
スメタナが作った『モルダウ』
初めて聴いたのは中学生の頃。そのときは、なんとなくもの悲しい曲だな、って感じただけだった。
だけど、昨日初めて、月森くんと志水くんの3人で練習をしたとき、『悲しい』なんて一言で片付けられる曲じゃないことに気づいた。
だからもっと知りたくなったんだ。
スメタナさんって人の背景や、その時代の情景、友だち。そしてスメタナさんの祖国、ってものを。
「へぇ……。リストと師弟関係にあったんだ。…で、この曲風はドヴォルザークに引き継がれる、と……」
あれ? そういえば、『家路』って曲はドヴォルザークだっけ。そういえば似てるかも。
1つ1つ、入ってくる知識を系統付けて考える。
一度こうやって覚えたことは忘れない。そして放課後、この人が作った曲を奏でながらもう一度思い出す。
すっと曲に感情移入できるときには、作者さんが私の指を借りて、100年後のこの世界で再び演奏してるんじゃないかと思えてくる。
「やあ、日野さん。図書館で調べ物かい?」
「わっ!!」
ページの上、さらりと音を立ててまっすぐな髪が落ちてくる。
私とは、ううん、私より、ずっと綺麗で素直な髪……、って、この人……?
「ゆ、柚木先輩!!」
「こんなところにまでわざわざイジめられにきたの? お前も物好きだね」
2人きりのとき、柚木先輩は、いつもこんな風に声をかけてくる。
『お前は俺にとって、壁打ちの壁、ってところか』
って言い放った言葉は案外真実かも。
言いたい放題、好き勝手やられ放題。
まさに私は打たれっぱなしのサンドバッグ状態かもしれない。
── だけど。
なんだかんだと言って、面倒見の良いこの先輩のこと、私はとてもいい人だな、という感じに捉えている。
夏休み前のコンクールの時でも。
ぶっきらぼうな受け答えの中に、音楽に関して素人の私に、どうしたら伝わるか、とかみ砕いて音楽の知識を伝えてくれたり。
聴き手にふさわしい弾き手になれるような、立ち位置や姿勢のことを教えてくれたり。
それに、なんと言っても、だって、あの火原先輩と友達なんだもの。
火原先輩は学年問わず、星奏のみんなから好かれている。
そんな火原先輩が、『おれの一番の親友なんだ』って胸を張る人なんだもの。柚木先輩って。
だから、どんなに意地悪な言葉をかけられても、柚木先輩の一部分は、絶対確実に、優しい人に違いない、って思ってしまう。
私は開いていたページを指差すと、柚木先輩に笑いかけた。
「ううん? イジめられに来たんじゃないんです。ほら、見てください。スメタナさんのこと、調べてたの」
「ああ。スメタナか。ドヴォルザークとセットで覚えるとわかりやすい。どちらもチェコ出身で、ボヘミア楽派の音楽家だ」
柚木先輩は、文章を一瞥すると、さらりと的を得た回答を口に上らせる。
「音楽に魅入られたゆえの悲劇、かな? スメタナも最後には自分の魂を音楽に売ったんだ」
「売った……?」
「シューマンしかり、ベートーヴェンしかりだ。……ああ。精神的に病んでしまった、と言えばわかる?」
私は返事をする代わりに深くうなずくと、手にしていた本の文面に見入った。
この前、私の目を覗き込むようにして、語ってくれた志水くんの言葉を思い出す。
『音楽と生きていくのって、大変でこわいことです』
音楽に惹かれる、愛される、っていうこと。
それは対価として、自分の一番大切にしているもの全てを音楽に捧げるという行為なのかな。
── もしそうだとしたら、今の私は、音楽のために何を捨てることができるんだろう。
「……ま、こんな儚いものに、自分の一生を捧げるなんて馬鹿げてるよな」
「はい?」
「お前も早く気づいたら?」
黙りこくった私を取りなすかのように、柚木先輩は声を落とした。
心持ちうつむいた顔からは、長いまつげだけが自身の存在を主張していて、目の色が見えない。
私を励ますだけのために、この人はこんな声を出さない。
柚木先輩には、月森くんや土浦くんが持っているような、音楽に対する暖かみ、とか熱意、とかを感じられないことがある。
まるで音楽から距離を置きたがっているような。
この人は、あれほど素敵な曲を奏でることができるのに。
どうしてこんな投げやりな、人ごとみたいな言い方をするんだろう……。
「あ、柚木、見っけ。それに香穂ちゃんも!」
動くことをやめたような重苦しい空気の中、ふいに ぱたぱたと軽快な足音が聞こえてくる。
その後を追うように、『静かにしてくださーい』という図書委員の子が注意する声が聞こえる。
「火原先輩」
「ああ。火原? どうしたの、こんなところまで」
火原先輩は、嬉しそうに手に持った紙袋を目の高さまで持ち上げた。
「じゃーん。今日購買に行ったら、ドーナツ売ってたんだよ。
いろんな種類があったから、いくつか買ったんだ。日野ちゃん、きみもどう?」
「ありがとうございます! いいんですか?」
購買のドーナツ。
値段の割に大きくて美味しいって評判で。
並んだ、と思ったら、5分で売り切れちゃう、購買で幻の名品、って言われてる商品。
これを、5種類も買ってくるなんて、火原先輩の人脈とフットワークってすごい。
柚木先輩は火原先輩の様子を見て、楽しそうに目を細めた。
「さすがに図書館で、ってわけにはいかないから……。そうだ、みんなで観戦スペースに行こう? 火原」
「オッケー。柚木! じゃ、おれ、先に行って、良さそうな場所、取ってくるよ」
さっき来たときと同じぐらい、ううん、それ以上の早さで火原先輩は走り始める。
今度ばかりは図書館から出て行く生徒だから、と図書委員の子は注意をせず、あきれた顔で火原先輩を見送った。
さっきまでどんより重い、と思っていた空気が、ウソのように軽くなっているのを感じる。
火原先輩がみんなに好かれている理由がわかるなあ……。
火原先輩のトランペットを聴いた時みたいに、先輩がいてくれると周りがぱっと明るくなるんだ。
それにしても、と私は、背後に立っていた柚木先輩を振り返った。
柚木先輩は、いつでも、どんなときだって、火原先輩には優しい声、優しい顔を向ける。
私のときとは大違いだ。ううん、大違い過ぎる!
「なに? その顔」
私の言いたいことを察したのか、柚木先輩は、私の方に目を向けた。
「柚木先輩って火原先輩には優しい。
うまく言えないんですけど、……私のときとは違う顔してる。なんだか……」
『ズルい』、という言葉を口に押し込んだまま、不満を精一杯言葉にしてみる。
本当にこの2人は仲がいい。
好きなモノも、性格もまるで違う2人なのに、2人の間の空気は、暖かくて気持ちいい。
柚木先輩は呆れたような表情を浮かべて、口を開いた。
「当然だろう。お前と火原とは違う人間だから。
火原といると、俺は自然といい人になれる。お前といると、俺はお前をイジめたくなる。
それだけのことだ。簡単だろ?」
「イジめられるなんて、ごめんです!」
私は口をとがらせて目の前のブラックタイをにらんだ。
本当にそう。柚木先輩の気分によって振り回されるのって、こっちから願い下げだもん。
ただ、人の機微を読み取るのがすごく上手な人だから、その……。
私がツンケンしたところを親衛隊さんたちに見られるのは、すごく困る。あとから、困る! だからあまり強くは言い出せない。
「へぇ。……じゃあ、優しくして欲しいって?」
「そ、それも、ちょっと……。遠慮します、です」
歩き出した私の横、柚木先輩は口の端を上げたきり、何も言わなかった。
*...*...*
10月の空はどこまでも晴れていて青い。グラウンドでは明日の体育祭に向けての練習か、あちこちで、バレーやバスケの練習風景が見える。
元々音楽科より普通科の生徒の方が多いからかな。目につく顔は普通科の人がほとんどだった。
「いい天気だな〜」
「こんなに晴れていると、それだけで気持ちがいいよね」
端っこでいい、と思っていたのに、柚木先輩は、火原先輩の横に少し隙間を作って腰を下ろすと、真ん中に座るように目で促した。
私は少しだけ居心地の悪い思いをして、そのスペースに入る。
すると、周囲にいた女の子たちの視線が、さーっと、この場に集まってきたのがわかった。
うう……。ただでさえ柚木先輩、有名人なのに……。
ううん。それだけじゃない。
このとき私は、柚木先輩と同じくらい、火原先輩にも女の子たちの視線が集まってきているのを知った。
── 緊張、する。
こ、こんなに不特定多数の人に見られながら、何かを食べるって、初めてかもしれない。
私がみんなの注目を集めるのってせいぜい、ヴァイオリンを構えたときくらい、だもの。
火原先輩は、そんなことはお構いなし、といった感じで、ドーナツの入っている袋を私に手渡すと、残念そうに声を上げた。
「ねえ、日野ちゃん、知ってた? 音楽科って、体育の内容も普通科と違うんだ。
週に2時間も少ないんだよ? おれはちょっと物足りないな」
「あ、ありがとうございます。いただきます……。えっと、体育の時間が?」
袋からは暖かい感触と、甘い匂いが漂ってくる。
私は、先に好きなドーナツを選ぶのも悪いような気がして、袋ごと、隣りにいる柚木先輩に手渡す。
3年生になったら理数系の授業がなくなるんだよ、と聞いたことはあったけど、体育の授業まで減ってしまう、っていうのは初耳だ。
それは……。柚木先輩はともかく、身体を動かすのが大好きな火原先輩にはつらいことかもしれない。
柚木先輩は、その袋を一瞥すると、再び私の膝の上に置く。どうやらお前が先に取れよ、ということらしい。
私は軽く頭を下げると、ピンクのチョコレートが乗っているドーナツを手にした。
それはまだ温かく、ふわふわとしていて、イチゴのような甘い香りが漂ってきた。
「だからおれ、昼バスには結構力を入れてるってわけ。
そうでもしなきゃ、身体から悲鳴が聞こえるよ。もっと身体動かせ〜、暇だ〜、ってね」
「そうは言っても、スポーツをしていて何かあったら大変だからね。無理はしないで? 火原」
「へへっ。サンキュー、柚木」
柚木先輩は、飾り気のないシンプルなドーナツを手に持つと、再び袋を私の脚に置いた。
不思議だ。この人が手にするだけで、何気ないドーナツも、とても大切で可愛らしいモノに見えてくる。
私は、ふと思いついて、柚木先輩の方に顔を向けた。
「えーっと、でも、たとえば、ラケットを持つスポーツはどうですか? だったら、突き指の心配もないし」
「いや、テニスなんかは、片方の腕ばかり太くなるから勧められないね」
夏休みが過ぎてからかな。
肩の筋肉痛がひどい私と、ダイエットになるかも、っていうお姉ちゃんとの意向がぴったり合って。
週末の夕方は、たまに2人でバトミントンをやることがある。
指も痛めないし、気楽にできるし、我ながら いい考え、なんて思ってたけど、それはどうやら違うらしい。
「あ、でもね。演奏のための筋力は必要なんだよ。腹筋、背筋。
身体も楽器の一部だから、きちんとメンテする必要はあるよね。
トランペットだったら、ブレスコントロールのためにも筋力鍛えないといけないし」
「えっと、……じゃあ、ジョギング、が、いいのかな……?」
もともとスポーツが得意じゃない私の中で、マラソンは1番苦手な競技だ。
1キロ走っただけで、膝がガクガクになる。
グラウンドにいるみんなに目をやる。
普通科の生徒さんのうち、音楽はスポーツだ、って気付いてる人、って、いったい何人いるんだろう。
柚木先輩は、たった今気付いた、と言いたげに顔を上げた。
「日野さんのヴァイオリンも、美しく滑らかな動きをするためにはある程度鍛える必要はあるね」
「あ、あの。柚木先輩はどんなスポーツをやっているんですか?」
綺麗に手入れをしてある髪を見つめながら思う。
火原先輩が汗をかいている姿は簡単に想像することができるけど。
この真っ白な肌に汗が流れてるところなんて想像つかない。
「さあ。君とは楽器が違うから、参考にはならないでしょう?」
またしても、柚木先輩はさらりと質問をかわす。
こういうところ、も、ううん、何もかも、私はとても柚木先輩に太刀打ちできない、よね……。
火原先輩は、5個あるドーナツのうち、3個をぱくぱくと平らげると、ぽん、と胃の上を撫でて笑った。
「日野ちゃん。そんなに堅苦しく考えなくてもいいよ。とりあえずよく食べてよく眠って元気だったら、大丈夫」
「そうだね。火原の言う通りだ」
いつもだったら、火原先輩に優しく相槌を打つ柚木先輩に対して、複雑な気持ちが浮かぶのに。
ドーナツのせいかな。それとも、雲1つない空のせいかな。
2人の先輩とお話できたことが嬉しくて、私は大きくうなずくと、お礼を言った。