*...*...* Coin *...*...*
ぴかり、と秋の日差しを浴びて、冬海ちゃんの投げたコインが翻る。私も、あわてて後を追う。
コインは綺麗な放物線を描いて、噴水の水柱の中、1番高く盛り上がっている場所に吸い込まれていった。
『クラスの女の子も何人か願い事がかなったそうなんです』
冬海ちゃんの言葉に、縋るような気持ちで手を組む。
(どうか、もっともっとヴァイオリンが上手になりますように。
せめて、一緒に演奏してくれるみんなの足手まといになりませんように……っ)
神さまにお祈りするより前に、自分の努力不足をなんとかしなくちゃいけないってことは分かってる。
ソロとは違う、アンサンブル。そのために私が今できることはなんなんだろう。
その方法だけでもいい。神さまが導いてくれたら。
私は、もう少しだけ自信を持って、月森くんや志水くんをアンサンブルに誘うことができる気がする。
まるで神さまが水の中に隠れているような思いで、私は一心不乱に、しかも自分勝手な願いを押しつけたあと顔を上げた。
「あ、えーっと……。ちょっと真剣にお願いしちゃいました」
すぐ間近に柚木先輩の顔がある。
なにか皮肉めいた言葉でも降ってくるかと思ったら。
意外にも目の前の人は優しそうな目をして、私、そして、冬海ちゃん、志水くん、月森くんを流し見ている。
わらにもすがる思いで真剣にお願いした自分が、幼すぎて恥ずかしい。
しかも柚木先輩って、こういう非科学的なことって、とことん信じなさそうな気がする。
「えっと、冬海ちゃん。冬海ちゃんは、なにをお願いしたの??」
私は気恥ずかしくなって、冬海ちゃんに声をかける。
可愛い後輩は、顔を赤らめて小さな口を開いては閉じている。
「え? 私? 私……。私は、ええと」
「うん。よかったら、教えて?」
「── 演奏のときに、あがりませんように、って」
「ん……。わかるなあ。あの、始まる前、シーンとなった瞬間、ってすごく緊張するよね」
「はい! 私、すごく指が震えて……。ちゃんとキーを押さえているのか、見えなくなるときがあるんです」
意外な返事に首をかしげる。
冬海ちゃんの音楽の始まりは、とても優しくて、頼りがいがあって。
教会のコンサートのとき、火原先輩はいつも冬海ちゃんの立ち上がりを頼りにしてたくらいなのに。
『おれ、一人で勝手に突っ走っちゃうところがあるからさ。冬海ちゃんの様子見ながら、ゆっくりと息、吹き込むんだ』
そう思いながらも、私は冬海ちゃんのクラリネットへの思いに、きゅっと身体の引き締まる気がする。
こんなに上手な子が、もっともっと上を目指したい、って思ってるんだ……。
そっか。冬海ちゃんには冬海ちゃんの、もっと極めたい先があるのかな。
── 私も、もっと、やれるはず、だよね。
「ええと、志水くんはどんなお願いをしたの?」
冬海ちゃんは、1番長い時間 頭を垂れていた志水くんに聞いている。
「僕? ……音が形になりますように」
「え? 形に?」
「うん。志水くんの音が、形になるといいね」
わかるようなわからないような返事に口ごもっていると、冬海ちゃんは、納得したように何度も深く頷いている。
うう、この一年生コンビ、っていろんな意味で最強だ、って思えちゃう。
エスパー? みたい? これは夏休み前から思っていたこと。
だってどんなときも冬海ちゃんは、志水くんの小さなメッセージを、正しく補足、解説できるんだもの。
「えっと、じゃあ、月森くんは? なんて?」
私は月森くんを振り返って尋ねた。
柔らかな西日が、白い頬を彩っている。
わ……、淡いブルーの髪って、日に透けると金色に光るんだ。
月森くんは、腕を組んだまま深い息を吐いた。
「より優れた技巧をマスターできるように願うところだが……。願うより先に自分がすべきことがあると俺は思う」
「そ、そっか。そうだよね。私、頑張ります」
月森くんの言葉は月森くん自身に向けられている、とわかっていても、チリ、と胃がきしむような感じは避けられない。
そっか、今度のアンサンブル、月森くんも1曲乗ってくれる、って言ってくれたんだもの。
私も、もっと練習、しなきゃ。
「そうだ。柚木先輩は、なにをお願いしましたか?」
手を組む、だとか、目を閉じる、だとか。
取り立てて、『お祈り』という仕草はまるでなかった柚木先輩に私は尋ねた。
みんなの欲しいモノをすべて持っているこの人が、願うことってなんだろう。
ちょっと、聞いてみたいかも。
柚木先輩は、小さく肩をすくめた。
「そうだね。……じゃあ、『コンサートが成功しますように』、ということにしておこうかな?」
「はい?」
きょとんとした私に、柚木先輩はかぶせるように言葉を繋いでいく。
「だって、みんな、アンサンブル頑張ってるでしょう? 今度の星奏創立祭に向けて」
「いえ、そうじゃなくて、えっと……」
「なんだい? ここは、個人的な願いごとをしないといけないのかい?」
「はい。私も、みんなもお話したんだもの。聞きたいです」
しつこいかな、と思わなくもなかったけど。
私は光の加減か、やけに寂しそうに見える柚木先輩の顔を覗き込んだ。
他の3人も、じっと柚木先輩の口元を見つめている。
柚木先輩は、一瞬だけ身構えたように表情を硬くした後、やがて、みんなを取りなすかのように柔らかな笑顔を向けた。
「── いいんだよ。僕には、特に望みはないから」
*...*...*
「へぇ〜。昨日、そんなことがあったんだ。残念! おれも悪友とツルんでないで、みんなと一緒に帰れば良かったよ」
「はい。また、一緒に帰りましょう?」
気持ちよく晴れた、翌日の昼下がり。
昼バス帰りで飲み物を買いに来た、という火原先輩と私は近くのベンチで昨日の話をした。
月森くんの願い。志水くんのメッセージ。そして私と冬海ちゃんの願いごとも。
「願いごとかー。なんだか女の子らしい話題だね。ムサい男ばっかりといると、そんな話は絶対出てこないよ」
「ん−。冬海ちゃんのクラスで流行ってるんですって。噴水の中、コインでいっぱいだったもの」
「なんか、可愛いよね。そうやってお願いごとをする、って。みんなの願いも、香穂ちゃんの願いも叶うといいね」
「うう……。願う前に、練習あるのみかも、です」
「ははっ。大丈夫だよ。今のままでいけば、学院祭までには、香穂ちゃん、かなりイイところまでいくんじゃないかな?」
「はい」
火原先輩の楽天的な意見に釣られるように頷きながらも、私の心は忠実に この前の教会でのコンサートのことを思い出していた。
ところどころ空いた席。
テンポの遅れるヴァイオリン。
そして、ちょっと寂しげな拍手の音も……。
『だったん人の踊り』の旋律は、私にとって、教会のレンガの鈍色を思い出させる悲しいメロディだ。
「香穂ちゃん?」
「あ! は、はい! ごめんなさい。浸ってました」
「浸って?」
「あ、えっと、この前の教会でのコンサートのこと……。私、みんなの足を引っ張っちゃったから」
「そんな、香穂ちゃん。すんだことは気にしない気にしない。
今の香穂ちゃんは、あのときの香穂ちゃんとは違うんだからさ」
火原先輩は私の顔を覗き込むようにして話し続けた。
「今度のアンサンブルは、月森くんも、志水くんも。それに、あの有名人の転校生、加地くん、だったっけ。
彼もヴィオラで入るんでしょ? 弦がそれだけ揃えば、香穂ちゃんも自然にアンサンブルに慣れていくよ」
「はい……」
「今日、放課後、また音合わせ、しよう? 香穂ちゃんは元々耳が良いから大丈夫だよ」
「はい! よろしくお願いします」
オケ部で何十人という部員さんを引っ張ってる火原先輩は、こういうとき、すごく頼りになるなあ、って思う。
この人の明るさで、救われた人って、きっと私以外にもたくさんいるハズ、だよね。
「そうだ……。火原先輩だったら、駅前の噴水、なにをお願いしますか?」
予鈴が鳴って、そろそろ教室に向かおうか、と立ち上がった火原先輩の背中に尋ねる。
高2の私と、高3の火原先輩。
たった1年でもこの1年の差は大きい。
1年先の人生を歩いている火原先輩と柚木先輩は、きっと私たちが知りようのない、いろいろな願いがあるのかな。
「そうだなー。明日も購買のカツサンドがゲットできますように、とか?」
「はい? それって、願いなんですか?」
「え? ダメ? じゃあ……。明日も昼バス、土浦たちに勝てますように、とか?」
「は、はい?」
「あはは!」
言葉を真に受けて間の抜けた返事ばかりしていると、火原先輩は、すごく気持ちよさそうに笑った。
うう、また、もしかして、私、だまされた、のかな?
火原先輩は、ふと顔を引き締めると私の方を振り返った。
「── 柚木も似たような気持ちなんじゃないかな?」
「へ? 柚木先輩もカツサンド……?」
「違う違う。そうじゃなくって」
し、しまった……。
でも、だって、カツサンド、昼バス、ってきて、『柚木も同じ気持ち』って、どういう意味なのかな?
柚木先輩とカツサンドの取り合わせが面白かったんだろう。
火原先輩はまた ひとしきり笑ったあと、やがてまっすぐな目で私を見つめた。
「── おれたち、ずっと、昨日の続きのような毎日が過ごせたらいいな、って思ってるよ。
好きな仲間に囲まれて、ずっと好きな音楽をやれたらいいな、って」
「火原先輩……」
「でも、きっと、そういうワケにはいかないんだろうね。おれたち、来年は卒業だから」
昨日、噴水に向かってみんなで投げたコインの色を思い出す。
みんな、思い思いに投げていたコイン。
けれど、実は、学年によって、コインの輝き方は違ってたんじゃないかな、なんて、記憶の映像を辿る。
冬海ちゃん、志水くんのコインは、まだ、何色にも染まっていない、白色に。
私や月森くんのコインは、悩み始めたばかりの、淡い色に。
そして、柚木先輩のコインは、思い詰めたような、深い色に。
こんなに明るくて、悩みなんてなさそうな火原先輩も、もしコインを投げたら、柚木先輩と同じ色をしているのかな。
1年後、私も、先輩たちの色に近づいているのかもしれない。
考え込んだ私の頭を、火原先輩はぽんぽんと撫でて笑った。
「……とりあえず、今度のアンサンブル、頑張ろうね!」