どんよりとした雲が背中におおいかぶさるかのように 低く濃く たれ込めている。
 このところずっと良い天気が続いていたけれど、昼休みに森の広場で練習をしたときに、少しだけ弦の揺れが小さいことに気づいた。
 そろそろ長雨が降るころなのかもしれない。

(創立祭まであと少し、だもんね)

 放課後のチャイムに押されるようにして、私は練習室の前にやってくる。
 部屋に入る前、ふぅ、と思い切り息を吐いて意識的に背筋を伸ばす。
 最近始めた、背中のストレッチ。
 あまり変化は感じないけれど、やらないよりやった方が、気持ちがいい。

 隣りの部屋からは、早くも指慣らしのオーボエの音が響いてくる。
 SHRが終わって担任の先生よりも早く、1番に教室を飛び出してきたのに。
 やっぱり、同じような行動を取る音楽科の人には敵わない。

 だけど、最近知ったことがある。
 みんなが平等に持っている時間を、有利だ不利だって言ってたってどうしようもない、ってこと。
 できないところは、集中力でカバーするしかないってことに。
 
 普段ならぴっちりと閉じているドアが細く開いているのは、もしかしたら練習メンバーが揃っていないのかもしれない。

「ねえ。ちょっとそれ本当なの? 柚木サマのご家族が経営されている会社が買収されるって?」

 オーボエは軽いステップを一旦止めると、押し殺した声で話し出した。

「……え?」

 柚木サマ、って? 柚木先輩……? 買収?
 買収、って、ニュースでよく見る、あの、経済の世界のこと?
 そういうニュースが出るたび、お父さんは気難しそうに眉をひそめて、テレビのボリュームを上げる。
 あの、『買収』?

 秘密めいた空気を縁取るように、小さなピアノの旋律も聞こえてくる。

「そのことで、柚木サマがしばらく休学される、って話も聞いたわ」
「まあ。そうなの?」

 低い声には、寂しさ以上に、どこか羨ましさが含まれている。

「あ〜。でもなんだか素敵。柚木サマなら、大人の方も理論的に穏やかに言い負かしそう〜」
「あの柚木サマのことですもの。ご家族の方も、さぞ頼りにしているでしょうね」
*...*...* Sadly *...*...*
「危ないな。気をつけろよ」
「あ! ごごめんなさい。私、急いでて……っ」
「柊館で走り回るなんて、やっぱり君は普通科だな」

 宝物のようにヴァイオリンを抱えている男の子の、射るような目つきに頭を下げながら、私は走り続けた。
 そうだ。ここは柊館。ピアノ専科の子以外はみんな、自分のたった1つの楽器を持って校内を行き来してる。
 そんな中、走るのは絶対絶対タブーだって、私、夏休み前に分かりすぎるほど分かってるのに。

 (柚木先輩……。どこ?)

 以前、好きな場所だと教えてくれた正門前から始まって。
 屋上。図書館。カフェテリア。それに、エントランスも。
 私は学院中を走り続けた。
 頬に感じる空気は、不自然に生暖かく、そして重い。

 アンサンブルに加入してくれたときに交換した携帯の番号にかければ、今、柚木先輩がどこにいるのかはわかるのに。
 ちらりと頭の端っこで思った。

 だけど、どう、聞いていいのかわからない。
 そもそも、本当のことかどうかもわからないのに。

『誰もが自分の好きな道を選べるわけじゃないよ』

 数日前のカフェテリア。火原先輩を励ますかのような笑みを浮かべて、つぶやいていたのを思い出す。
 今のウワサと、柚木先輩の進路。
 その2つが、どこか根っこのところで繋がっているような気がしてしょうがない。

「どこにいるの……?」

 観戦スペースまでくると、私は上がった息を整えるために、目の前のベンチに座った。
 はたはたと生ぬるい風が、私と制服の間をすり抜けて行く。

 なにをやっているんだろう、私……。
 なにが、私をこんなにも動揺させているのかな。

 アンサンブルのメンバーが足りなくなるから、心配なの?
 ── だったら、別のフルートの奏者さんに声をかければいい。
 それとも、柚木先輩が休学するかも知れないから、心配なのかな。
 ── だったら、また、一緒に演奏できるのを楽しみにしてます、って伝えればいい。

 ……ううん。違うな。
 もっと、私の奥。私自身 手が届かないところに鈍い痛みがある。なんだろう。

「あ……」

 目の前のグラウンドでは、サッカーの試合が続いている。
 赤いユニホームの子が思いがけなくシュートを決めたのか、観戦スペースの中でも大きな声が上がった。

『ま、3年になると進路が現実の問題になるという話だよ』

 大人っぽい微笑に隠されて、私、あの時には気づかなかった。

 そうだ。わかった。
 私の気持ちを釣り上げてくれている糸が、ぷつん、とちぎれてしまったような感覚。

 それは、柚木先輩が、音楽の道から離れて行っちゃう、その事実を裏付けるようなウワサだったから、だ。
 だから、私、こんなに動揺してるんだ。

「お前、なにやってるの、こんなところで」
「は、はい! あ……」

 ふいに優しく肩を掴む人がいる、と思ったら、それは、たった今まで私が思っていた人だった。
 湿り気を増した空気の中、柚木先輩の髪は、いつも以上に艶やかに光っている。

「柚木先輩が観戦スペースにいらっしゃるなんて珍しいですね。探しました……」
「探した? 俺になにか用でも?」
「えっと、いえ……。なんでもない、です」

 馬鹿だ。私。
 どうして、走り回っている間中に、質問の仕方を考えておかなかったんだろう。
 でも、これはそもそも質問をしても良いことなのかどうかも分からない。
 そう。これは、ただのウワサじゃなくて。
 もっともっと、柚木先輩自身が、触れて欲しくない、って思っている部位への質問かもしれないんだもの。

「そう そわそわされたんじゃ、イヤでも気になるだろう? いいから言ってごらん?」

 柚木先輩は私の隣りに腰を下ろした。
 遠くから見ていると、華奢な優雅な人、っていう印象なのに、面と向かうとやっぱり違う。
 私より広い肩幅。しなやかな指が軽くタイを整えている。

「ほら」

 言葉は優しいものの、やや不機嫌そうに凝らした目が、私の目と口元を行き来する。
 に、逃げ場はないかな。……ない、よね。
 私は柚木先輩のスラックスの折り目に目を遣りながら一気に尋ねた。

「あ……。あの!! 柚木先輩のうちの会社が買収される、って……。休学、って本当ですか?」
「は?」

 目の前の人は、ふっと身体の力を抜いたように息を吐いた。

「なんだ。もっと興味深い話でも聞かせてくれると思ったら、そんなことか」
「そ、そんなこと、じゃないです! あの……。本当ですか?」
「まあ、ね。うちの会社が外資系の投機筋の標的にされているのは事実だよ」

 柚木先輩は他人事のように言葉を繋いだ。

「じゃあ、休学、っていうのは……?」
「それは尾ひれの部分。ウソとウワサは大きい方が面白いからな」
「そうだったんですか……。よ、良かった……っ」
「日野?」
「── 本当に、良かった」

 柚木先輩はやれやれといった風に口を歪めると、ベンチから立ち上がる。
 雲の隙間から細く差し込んでくる太陽は、細かい飛沫を振りまいて私と柚木先輩をオレンジ色に照らした。

「まあ、俺が音楽を辞める時期が半年早くなるか、ならないか、っていうだけの話だろう?」

 諦め、なのか、痛みなのか。それとも達観?
 自分のおかれている状況を判断して、一つ一つ何かを手放していくような。
 いろいろな感情を混ぜたような笑みを浮かべながら柚木先輩は髪をかき上げた。

「お前が小さな頭を悩ませたところでどうなる問題でもないよ、これは。
 それよりお前は目の前の問題に集中することだね」
「はい……」
「お前は俺の暇つぶしにちょうどいいから」

 いつもだったら、笑って返せる軽い嫌味。
 それが、どうしてか今は、憤りのような思いが、胸の中からこみ上げてくる。
 それは、一気に私の喉を通り越え、唇から外の世界へと飛び出して行った。

「どうして? どうして、柚木先輩はなにもかも諦めちゃうんですか? 音楽も。生き方も」
「日野」
「どうして? 全員が全員、柚木先輩のような才能を授かってるわけじゃないのに。
 人が羨ましいって思うほどの才能があって。柚木先輩も、こんなに音楽のことが好きなのに!」
「黙れよ!」

 ふいに唇に冷たいモノを感じる。
 目を見開いて目の前の人を見つめると、その人の腕はまっすぐに私の顔に伸びていた。
 これ、って……。柚木先輩の、指……?

 呆然としている私を、柚木先輩は満足げに見つめ にっこりと綺麗な微笑みを作った。

「……言いたいことはそれだけ?」
「先輩……」
「気はすんだ?」

 聞いたこともないような低い声と。
 感情の捨てる場所を探しているような暗い瞳が、私の横をすり抜けていく。



「── お前なんかに、なにがわかるっていうの」
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