*...*...* Memory *...*...*
 荒々しく足音を立て、俺は観戦スペースをあとにした。

 ひんやりとした、日野の唇の感触が指に残っている。
 何度か後ろを振り向こうと思ったが、俺は自分の感情を引っ張り上げるようにして、足を進めた。
 日野の顔を見るのが不安だったからじゃない。
 今の自分の顔を、日野に見られるのが不快だったからだ。

「……やれやれ。それにしても、くだらないことが噂になっているものだね」

 ため息とともに、独り言が飛び出す。
 まったく……。いつも俺の周囲にまとわりついてくる女たちを思う。

 笑顔を添えての、会話のやりとり。
 虚構のような中身のない内容を繰り返しているというのに、女たちはそれだけで、もう『分かり合えた』と誤解するらしい。
 どうしてあんな風に俺のすべてを知ったつもりになっているのか、俺にはまるでわからない。
 人は『理解し合える』という錯覚の中で、自分自身を愛でているにすぎないのに。

 今度の創立祭のコンサートまであと5日。
 星奏の身内しか来ないコンサートということで、音楽科の人間の中にも、このコンサートを軽んじる輩が多いが、俺はそうは思わない。
 音楽に携わってきたOB、OGというのは、普通の人間よりも耳が肥えていること。
 加えて、今までの人生でそれなりに培った愛校心。
 この2つが、俺たちの演奏をより厳しい目で見ることは明らかだろう。
 あだやおろそかにはできない聴衆だ。

『どうして? どうして、柚木先輩はなにもかも諦めちゃうんですか? 音楽も。生き方も』

 脳裏に日野の泣き顔が浮かんでくる。
 あいつも、他の取り巻きと同じだ。
 どうして、わかり合えたようなふりをして、土足で俺の領域に入り込んでくるんだ。

『どうして? 誰もがみんな、柚木先輩のような才能を授かってるわけじゃないのに。
 人が羨ましいって思うほどの才能があって。柚木先輩も、こんなに音楽のことが好きなのに!』

 火原といい日野といい。あいつらは、どうにも俺に構いすぎる。
 悔しそうに眉を顰める顔を見ていると、俺よりもあいつらの方が悲しそうに見えてくる。

 懐中時計を取り上げると、針は4時を指していた。
 自宅に戻ってからは練習はできない。
 下校までのあと2時間を効率よく組み立てていかないと、今日の練習の予定分は捌けない。
 頭では分かっていながらどうしても練習する気になれなくて、俺は気持ちの赴くままに脚を進めた。

 重苦しい空色が学院を覆っている。
 こんな日は、弦の力はいつもより弱まり、その代わり、木管より金管の方が音が冴える。

 遠くで火原の音らしい、賑やかな音色が聴こえてくる。
 ……まったく。火原らしい、ってところか。

 親友の音色を羨ましくも疎ましくも思いながら、俺は校舎内に入ると何気なく音楽室を覗いた。

「おや?」

 すると、舞台の端の目立たない場所で志水くんが、ゆっくりと目を閉じて弓を動かしている。
 周囲に人はいない。
 彼は誰に聴かせるでもなく、基本的なフレーズを幾回となく繰り返していた。

 その集中力は、多くの人間を見慣れている俺でも、目を見張るほどの静けさがあった。
 正確なピッチが、室内を浸食していく。
 多分、チェロ専科の先生が聴いても、満点近く与えるだろうと思われるフレーズ。
 それに厭きたらず、彼は99点と100点の間を埋めるための作業をしているようにも見えてくる。

 ── 5分は経った、だろうか。

 志水くんは閉じていたまぶたをぽっかりと開けると、俺の姿に目を当てた。

「……あ、柚木先輩」
「あ、ああ。ごめんね。邪魔をしてしまったかな? 君の熱心さに惹かれて、つい足を止めてしまった」
「……いえ」
「いいよ。続けて?」
「はい」

 再び始まった彼の演奏に合わせて、小さく歌詞を口ずさむ。
 ……モルダウ、か。なるほど、綺麗に歌い上げている。
 申し分ない技巧が彼のベースに存在しているから。
 どんな曲にも、彼は追いついていく力がある。安定感と言い換えてもいいだろう。

 ── 俺は、羨ましいのかもしれない。この2つ下の後輩が。

 なんの迷いもなく、音楽に祝福されて、音楽の世界に飛び込んでいけるであろう、彼が。
 今、志水くんの心の中を、半分に割ってみたとしても。
 その中には、音楽を辞めるという選択肢はどこにも存在しないだろう、彼が。

 曲が終わってもなお足を止めたまま動かない俺を、志水くんは再び穏やかな目で見上げた。

「……ありがとうございます。柚木先輩」
「どうしてお礼なんて言うの? お礼を言うのは僕の方じゃないかな?」
「いつも……。僕のチェロの先生は言うんです。チェロでお話をしましょう、って」
「は?」

 木訥とした調子でありながら、ゆっくりと話し続ける志水くんが珍しくて、俺は壁に背中を預け、聞く体勢を作る。

 音楽科の人間と、普通科の人間。
 それは、物事を系統立って話す能力の長けているかどうかで大きく二分することができると俺は思う。
 話の行き着く先が同じであっても、多少、音楽科の人間は、そのアプローチにやや遠回りすることが多い。
 もっとも、それが悪いことだとは思わない。音を作るときは、遠回りな考え方が音に反映されることもあるからだ。

 穏やかな彼の声に、なぜだか、自分の荒立っていた気持ちが静かになっていくのを感じる。
 彼の音色の素直さが、俺に感染した、のかもしれない。

「音楽は、奏でるにしても、聴くにしても、丁寧に向き合わなくてはいけないと思うんです。
 ……今の柚木先輩のように」
「志水くん?」
「そうすることで、弾き手にも張りが生まれるから」
「ああ。それは確かにそうだろうね」

 音楽は独りよがりの存在であってはいけない。
 聴衆の好む曲。聴衆の反応。聴衆を味方につけてこそ、俺の音楽は始まる、と思っている。
 自分が気持ちよければ良い、というのは小学生までだ。

 自分の意見が受け入れられたのが嬉しかったのだろう。
 志水くんはにっこりと微笑むと、チェロから弓を一旦外した。

「そうだ。柚木先輩も、一緒に合わせてくれますか?」
「せっかくの申し出だけど、僕は今、フルートを持ち合わせていなくてね」
「……そうですか」

 志水くんは考え込むように視線を下に落とすと、やがて意志を持った目で俺を見た。

「じゃあ、そこにあるピアノで、僕に合わせてください」
「は?」
「今の、この気持ちを忘れたくないんです。お願いします」

 こういうときの彼には何を言っても無駄ということだろう。
 志水くんの楽譜台にはモルダウが置かれたままになっている。多分、この曲を奏でようというのだろう。
 俺は何かに押されるようにして椅子に座った。

「ねえ、志水くん。ピアノとチェロでは、主旋律がいないよ。君はどうしたいの?」
「フルートのパートは主旋律ですよね。柚木先輩が主旋律をお願いします」
「了解。……いいよ。いつでも。始めて」

 グランドピアノの黒い壁に、志水くんの髪色が映る。
 天使のような柔らかな艶を持った髪はふわりと彼を覆うと、リズムに合わせて踊り出した。

 俺は、鍵盤におかれて動き始める指を、自分の肉体ではないような気持ちで見つめ続ける。
 日頃、自分の目に届かないところにしまい込んであるピアノ譜を思い出す。

 時間を忘れてのめり込んだ練習。
 自分の思いのままに動く指が愛しいと思った。
 自分で作る旋律が、心地よかった。
 思うことをすべて書き込んで、音に反映することが幸せだったあのころ。

 ── ずっと、この世界が続くと思っていたのに。

 初めはぎこちなかったデュオも、以前に何度もアンサンブルで手合わせをしてきたからだろう。
 第2フレーズからは、滑らかな旋律が続いていく。

 そういえば、月森くんといい志水くんといい、そして、王崎先輩も。俺の周りの弦の人間は音を合わせやすい。
 技術が安定していて、正確なピッチを刻むからだろうか。
 弦のメンバーの中では、案外日野も合わせやすい。
 あいつの場合、ピッチだ、技術だ、という前に、素直な屈託のない音だから合わせやすいのかもしれない。

 弦といえば、この前初めて音合わせをした、加地、というヤツは、どこか軽々しい音が混じっていた。
 あいつだけは、もう少し、牽制しておいてもいいのかもな。

 最後、ベタついた印象を残さないように、と譜面通りのラルゴのリズムで終わらせる。
 志水くんは、音が完全に消え去るのを待ってから、ようやく顔を上げた。

「不思議です。今の曲、初めて聞く曲みたいに感じたんです。何度も弾いたことあるはずなのに」
「志水くん?」
「先輩と一緒に演奏したからでしょうか?
 僕はこの曲のことを知らなかったんじゃないかって思うほど、いろんな部分が見えてきたんです」
「そう?」

 志水くんは頬を赤らめて、なおも熱心に話し続ける。

「音楽にはまだ、僕の知らない先があるということがわかりました」
「そう。君のお手伝いができて光栄だな」

 目の前の後輩は、自分の音を追いかけるのに精一杯で、俺の気持ちには、何一つ気付いていないのだろう。
 でも。
 ── 今の俺は素直に、志水くんの無関心さが嬉しかった。

 癒すように流れていく音楽も。
 音楽を創り出すことができる自分も。
 そして、音楽を美しいと思える俺自身がいることも。

 俺は立ち上がると、丁寧にお礼を告げた。

 さっきまで感じていた不安が、さっぱりと取り払われているのを感じる。
 日野の唇を掠っていった指も、感じた冷たさがウソのように今は温かく熱を持っている。
 俺は手を握りしめた。
 ── まだ、俺の自由になる時間はある。


「僕こそ、君にお礼を言わなくてはね。僕に、楽しい時間をありがとう」
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