*...*...* Festival *...*...*

「よし、っと。準備オッケー」

 窓から差し込む日差しが、女の子が作るほこりをキラキラと浮かび上がらせる、女子更衣室。
 私は手早く体操服に着替えると、少し下がり気味になっていた靴下をきゅっと膝まで引っ張り上げた。

 今日は、体育祭。

 気持ちのいい秋晴れだけど、昼間はやっぱり暑い。
 運動したらかなり汗をかくんじゃないか、と思って、今日は1番お気に入りのキャミソールを着た。
 つるつるとした素材だけど、汗もしっかりキャッチしてくれるし、胸元についているピンクの花のモチーフも可愛い。
 必需品だよね、と、今日は大きめのタオルも持ってきた。
 準備体操の代わりに、軽く足首をクルクルと回せば、もう用意は完璧だ。

「香穂子〜。あんた張り切ってるね」
「あ、乃亜ちゃん!」
「徒競走、頑張ってよ。あんたも大事な得点源の1つ、なんだから」
「あはは。ありがとう……」

 クラスの体育祭実行委員の子たちも、徒競走なら、ニブい私でもなんとかなるだろう、って、思ってくれたのかな。
 あんまり運動が得意じゃない、っていう私に、彼らが用意したのは、走らなくてもなんとかなる種目、だった。

 星奏は、1学年に5組の普通科と、2組の音楽科がいる。
 体育祭では、全学年縦割りになって、順位を競う。

 音楽科の人の中には、指を痛めるのが怖いから、という理由で参加しない人もちらほらいるけれど、
 普通科は、どれか1つは競技に参加することが義務づけられている。
 運動が苦手だから、という理由で参加しないワケにはいかない。

 徒競走は7人1組で行われる。
 つまり、1位を取れば、7点が、7位を取れば、1点が、5組に入る、という計算で。
 人1人が動かせる点としては1番低い。

 サッカーやバスケみたいな団体競技はもっともっとたくさんの点が入る。
 昨日、火原先輩と土浦くん、お互いに負けない! って言い張ってたっけ……。頑張ってるかなあ。

「あ、あれ?」

 なにかひらひらするものが遠くにある、と思ったら、それは、男子更衣室の前にいる加地くんだった。
 元々背が高いのに、さらに腕を伸ばして。その先に白いラケットを持っている。
 加地くんは私が気付いたのに気付くと、さらに大きくラケットを振った。

『おうえん、してる、からね!』

 大声を出しても届かない、って思ったんだろう。口パクで、なにか話してる。
 その途端、私の方に周囲の女の子たちの鋭い視線も流れてきた。

『あ、ありがとう……』

 私はおろおろと手を振り返すと、ぺこりと頭を下げて、小走りに観戦スペースへと向かう。
 こ、こわい。女の子たちの目、

『アンタ、ナニサマ!?』

 って思ってる。ううん。言ってる。
 だから、『目は口ほどにものを言う』って昔の人もことわざ作ったくらいだもん。

 ん……。もしかして、もしかしなくても、もしかすると。
 柚木先輩の親衛隊さんの数と同じくらい、加地くんの周りには女の子が、いる、のかもしれない。

 乃亜ちゃんは挙動不審な私を見て、心底おかしそうに笑っている。

「香穂子教信者が今日も健在、ってところ? お疲れさま」
「うう、乃亜ちゃん……。もしかして、楽しんでる?」
「いーじゃない。加地くんって、いい男だし。どうして香穂子がそんなにワタワタするのか不思議だよ」
「だって! 私、褒められ慣れてないもん。庶民だもん」
「まあねえ。それ言っちゃ、私も庶民だけど」

 乃亜ちゃんは軽く笑い飛ばすと、いつものように私の腕を取って一緒の歩幅で歩き始めた。

「えっと、乃亜ちゃんは競技、なにに出るんだっけ?」
「二人三脚。谷くんと。みんな、ムリヤリ、あたしたちに押しつけたの」
「そっか」

 そう言いながらも、親友の表情は甘く、柔らかい。

『で? 本当のところはどうなの? 谷くん、何か言ってきた?』

 なんて、須弥ちゃんはことあるごとに、乃亜ちゃんにツッコミを入れているけれど、
 乃亜ちゃんと谷くん。2人は、まだ付き合ってる、という関係ではないみたい。
 だけど、休み時間や放課後に、2人が楽しそうにじゃれ合っているのを見ると、いつもいいなー、って思っちゃう。

 私は握られた手に軽く力を込めた。

「えへへ。乃亜ちゃんてば、だから、か」
「え? なに、香穂子」
「だって今日の乃亜ちゃんって、いい匂いがするんだもん。谷くん、喜びそう」
「は? ちょ、ちょっと、香穂子。なに、イヤらしいこと考えてるのよ!」
「あとで、私、谷くんに感想、聞いてきてあげる」
「香ー穂ー子?」

 乃亜ちゃんは、怒ったように頬を赤らめると、今度はぎゅっと私の首に腕を回した。

 また私の周りは、乃亜ちゃんの優しい匂いでいっぱいになる。
 ── いいな。こういう感じ。
 体育はあんまり好きじゃないけど、体育や家庭科って、普通の授業の時以上にいろんな乃亜ちゃんを見ることができるんだもの。

 私たちは、いつもよりリズミカルに観戦スペースの階段を昇り切った。
 大きく開けた視界の向こうには、なにか懐かしい映像のように、小さな人影たちがそれぞれの競技に熱中している。
 その光景と私たちとを、ときおり沸き上がる歓声が、近づけたり遠ざけたりする。

「香穂子、見える? わ、もう、サッカーもバスケも始まってるね」
「本当だ……。あ、土浦くん、審判してる」
「ははっ。サッカーのユニフォームって、土浦くんにぴったりだね。ハマりすぎ」
「うん。似合ってるよね」
「あたし、今年、5組はいいところまで行くと思うんだよね。
 なんてったって、加地くんが転入してきたことが大きいよ」

 乃亜ちゃんは、観戦スペースから目を離さないまま話し続ける。

「加地くんが?」
「そう。だってあたしウワサで聞いたよ〜。加地くんて都内のテニスの大会で優勝したことがある、って」
「そうなんだ」

 隣りの席になって、かれこれ1ヶ月。
 だけど、加地くんの口からそんな自慢めいた話は今まで一度も聞いたことがなかった気がする。

 聞くのは……。文学論、でしょ? それに、私の音楽への、褒め言葉。
 たえず、私を気遣うような言葉。それと、古典への造詣。
 ── なんだか、加地くんて、スペシャルな人なんだ。
 柚木先輩が卒業したら、あっさり、今の先輩の場所を取って代わる人なのかも……。

『── お前なんかに、なにがわかるっていうの』

 この前、私にそう言い捨てて、遠ざかっていった柚木先輩を思い出す。
 慌てて振り返ったけれど、柚木先輩の背中はただ遠くなるばかりで、最後まで私の方を振り返ってくれることはなかった。
 あれ以来、柚木先輩とは顔を合わせていない。
 どうなったんだろう……。私、次に会ったとき、ちゃんとあいさつできるかな。

「っと。あたし、プログラム順、早かったんだ。先行ってるね。香穂子はまだいいの?」
「うん。私は、終わりの方なの」

 乃亜ちゃんの手元にあるプログラムを広げて、自分の出番を確認する。
 徒競走、ってそれほど盛り上がる競技、って思ったことはないけど。
 見ると、それは一人前の字面で、クラス対抗リレーの直前に載っている。最後から2番目の競技だ。

「乃亜ちゃん、頑張って! それで、谷くんにも『いろいろ、ガンバレ』って伝えておいて?」
「香穂子〜? あんたの『いろいろ』ってちょっとヒワイ」
「そ、そんなことない! 乃亜ちゃん、深読みしすぎ!」
「あはは! いいよ。深読みしてくれて。行ってくるね」
「うん」

 乃亜ちゃんは勢いよく椅子から立ち上がると、来たときよりも軽い足取りで客席を後にする。
 見慣れているはずの肩の線に、柔らかい日差しが止まっている。



「よぉ、日野じゃないか。こんなところで」
「あ。金澤先生!」

 乃亜ちゃんの背中をずっと目で追っていたら、突然、肩をたたかれた。
 あわてて振り返ると、そこには、いつもの白衣をはためかした金澤先生ときちんと制服を着こなした柚木先輩が立っている。
 にっこりと微笑む柚木先輩からは、なんの感情も読み取れない。
 私は、ここに金澤先生がいてくれたことにほっとして、微笑み返した。
 金澤先生はまぶしそうに目を細めながら、椅子に腰を下ろすと、グラウンドを眺めている。

「柚木は出場希望出さなかったのか」
「今日は僕は応援です。ああ、日野さん、こんにちは」
「まあ、実際プレイするとなると大変だが、…まあ、遠目で見てる分にはのどかでいいな。
 スポーツはやるためモノじゃない。見るためのモノだ。なーんてな」

 金澤先生は気持ちよさそうに笑うと、グラウンドの中の生徒を目で追っている。

「香穂先輩。みなさん、こんにちは」
「あ、冬海ちゃん!」

 そこへ手には藤のバスケットを持った冬海ちゃんがやってきた。
 お菓子かな? ふんわりと甘い香りが漂う。

「今日は香穂先輩を応援しにきました。あとこれ、レモンパイなんですけど、もしよかったらみなさんで」
「わ、ありがとう〜。冬海ちゃん」

 そうだった。私。
 昨日、冬海ちゃんと合奏を終えたとき、体育祭がちょっとユウウツだって言ったんだ。
 そうしたら、冬海ちゃん、なにか差し入れしてくれる、って。
 昨日は、かなりたくさんの練習をして。
 私からしたら、完璧な旋律を作っていた冬海ちゃんだったけど、自分ではまだ足りないところがあるから、練習してくる、って言ってて。
 ……もしかして、あれから家に帰って、しっかり練習して。
 それで、差し入れも、用意してくれた、の……?

 冬海ちゃんは照れくさそうに目の端に指を当てながら笑っている。
 心なしか、白目が赤い。

「今朝、早起きして焼いてきたんです。まだちょっと温かいかも」

 冬海ちゃんはそういうと、バスケットを開けた。中には赤のチェックの紙ナフキンが見え隠れしている。

「スポーツ観戦に食いもんがついて……。こりゃ本気で行楽気分だな」
「あ、金澤先生もどうぞ」
「ありがとさん。冬海〜。お前さん、いい嫁さんになれるぞ〜?」

 金澤先生は近くの椅子に腰掛けると、レモンパイを一口ほおばった。
 あたり一面、ふわりとレモンの香りが広がる。
 さくさくとしたパイ生地が、白衣の上に散ったのだろう。
 冬海ちゃんは、あわててバスケットを椅子に置くと、紙ナフキンを取り出した。

 私と柚木先輩の間にいた2人が、視界から消えて。
 ふいに2人きりの空間ができる。

(柚木、先輩……?)

 私はおそるおそる先輩の顔を見上げる。
 そこには、この前感じたような怒りの感情はなく、ただ、穏やかに私を見つめている瞳があった。

 怒って、ないのかな?
 許してくれて、いるのかな?
 それで……。それで。
 先のことはわからない。だけど。
 ── 星奏にいてくれる間は、音楽を続けてくれる。そう思ってていいのかな?

 早くも3コ目をほおばっている金澤先生は、不思議そうに私を見上げた。
 唇の端にまだ、小さなパイのカケラが残っている。

「そういえば日野、お前さんも悠長に応援してていいのか? 普通科の義務で競技、1つくらいは出るんだろ?」
「はい……。今から徒競走に出ます」
「そう。ねえ、日野さん? 勝負事は勝ちに拘りすぎるのもよくないし、順位に全く関心がないのもおもしろくないから。
 君は君なりに頑張って欲しいな」

 柚木先輩はにこやかにそう言うと、冬海ちゃんに勧められるままにパイをつまみ上げた。

 ── 今、なら。
 今なら、拒絶、されない、かな?
 金澤先生や、冬海ちゃん。人がいるところなら、いつものようにお話してくれるかも、と、私は勇気を出して声をあげた。

「あ、あの! 応援して、くれますか?」
「ああ。僕たちはここで君の活躍を見守ってるよ」

 柚木先輩は、滑らかな口調で返事をした。
 なんの邪気もなさそうな優しそうな笑みは、いつもの、親衛隊さんに囲まれている柚木先輩。
 私の知っている柚木先輩じゃないようで、気持ちがしゅん、とする。
 手にはめたままの腕時計を見る。そろそろ行かないと、競技に遅刻しちゃう。

「じゃあ、私、そろそろ行ってきますね。冬海ちゃん、差し入れありがとうね?」
「いえ。香穂先輩、頑張ってくださいね」
「おう〜。日野、頑張ってこいよ。ところで、このレモンパイ、まだ俺が食べても大丈夫か?」
「え? あ、は、はい! ぜひ」

 よほど冬海ちゃんのパイが気に入ったのだろう。
 金澤先生は、次から次へとお菓子を口に運ぶ。そんな金澤先生を冬海ちゃんは嬉しそうに見ている。

 柚木先輩は私の背を押すように笑いかけてきた。

「ほら。早く行かないと遅刻してしまうよ?」
「はい!」
「ああ。僕もちょっと生徒会の用事を足してこようかな。ほら、日野さん、行くよ?」

 優雅な足取りで私の横を歩いている柚木先輩を、横目で見る。

 人少なになってからも、先輩の様子は変わることなく、私をがっかりさせた。

 やっぱり、怒ってるのかなあ……。
 だって、柚木先輩のプライベートなこと。もしかしたら、彼が1番触れて欲しくないところに、私、顔をツッコんだんだもの。

 とぼとぼと下を向いて歩く私を、柚木先輩は物珍しそうに見つめている。

「何をしょんぼりとしているの? 僕はちゃんと君のことを応援してる、って言ってるのに」
「それはそう、なんですけど……」
「ヘンな子だね。意地悪を言われないと信用できない、だなんて」
「いえ。あの、そういうわけじゃないんです!」
「どうだか」
「あ、あの! 怒ってない、んですか?」

 おそるおそる聞いてみる。
 すると、柚木先輩はあきれたような笑みを浮かべて、私の顔を覗き込んだ。

「お前のたわごとに付き合ってたら、こっちの身が保たないからね」
「た、たわごと、ってなんですかーー」

 話しているうちに、どんどん自分の心の中に作っていた壁が崩れていく。

 不思議。
 言葉をかけてもらうことがこんなに嬉しいなんて。
 柚木先輩の事情を知らない私があんなことを言って。
 ── 私、もう2度とお話してもらえないかも、って思っていたから……。

 グラウンドに出るころ、私はさっきまでのことがウソのように気持ちが軽くなっているのを感じた。
 そんな私を見て、柚木先輩はやれやれといった風に笑っている。

「お前って、本当にわかりやすい人間だな」
「そ、そうですか?」



「安心して行ってこいよ。── ちゃんと見ててやるから」
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