「あ、おれね、おれね。違う賞なら取ったことある! なんだと思う?」
「なんだろう……。火原先輩が取ったことがある賞?」
「えへへ。なんと、皆勤賞! おれ元気が取り柄だからさ」
「あはは!」

 火原の声に釣られるようにして、日野は弾けるような笑顔を見せている。
 俺はにこやかな笑みを浮かべながら、心の内で重苦しい息をつく。
 広すぎる部屋の中。自分の咳が積もり積もって、自身の身体をも押しつぶされそうだと思っていた、幼い自分を思い出す。
 ── 俺の親友は、また1つ、俺が持っていないモノを手にしている。
*...*...* Pavane *...*...*
 昼休み、俺は火原から何度も勧められたカツサンドをなんとか胃に収めると、飲み物を頼むことなく早々にカフェテリアを立った。
 確かに値段のわりにボリュームもある。
 たまに食するなら悪くはないが、なんとなく油の匂いに胸がつかえる。
 あの代物を毎日、しかも2、3個は軽くイケル、という火原はやはり強者かもしれない。

 午後からの授業を思い浮かべる。音楽史、と、確か、ソルフェージュ、だったか。
 実技がないのは幸いだ。

「……おや?」

 カフェテリアを抜けて、すぐのところにあるエントランス。
 その一角で、音楽科の制服と普通科の制服が、掲示板を見て笑い合っているのが見える。
 掲示板の桜館側は普通科関連の、柊館側は音楽科関連の記事が掲載されている。
 毎週張り出される情報は、学院側でも捌き切れないほどあるからだろう。
 どの記事も長くて1週間で次々と姿を消す。

 2人とも、後ろ姿であっても見間違えることはない。
 1人は俺の親友。そしてもう1人は、最近なぜか目に付くヤツ。── 日野、だ。

「あ、そうだ、火原先輩。火原先輩はコンクール、参加されたことありますか?」
「え? おれ? うん、ないよ〜。おれ、学外のコンクールって出たことないんだ」
「そうなんですか? 意外、です」
「やっぱり?」
「はい……。だって、月森くんも、土浦くんも出たことがある、って……。
 柚木先輩も、以前、ピアノで参加された、って聞いたことがあります」

 火原と目を合わせるたび、朱い髪が楽しそうに揺れている。

「そうだねー。春のコンクール参加者って、学外で賞取ったことある人ばっかりだよね」

 なんの邪気もない明るい声は、一瞬周囲の耳目を集めるものの、その湿っぽさのなさから、
 やがてこの2人の仲の健全さを知るのだろう。行き交う人間はあっさりとその場を後にする。

「どうしたの? 2人とも」
「あ、柚木!」

 俺は火原と日野の間に立つと、2人が目で追っていた記事を見上げた。
 ふぅん。来年冬に行われるヴァイオリンコンクール。入賞者にはスカラシップとして、1年間の海外留学を付与、か。
 まずまず名の通ったコンクールだ。月森なら、そこそこのレベルまで食い込めそうな気もするが。

 火原はコンクールの日付を確認するようにその箇所を指で弾くと、俺たちの方を向いて笑った。

「おれはコンクールに参加したことがないんだ、って香穂ちゃんに話してたとこ。
 だって賞を取るより、楽しく吹く方が大事じゃない? おれはそう思うな」
「はい。その方が火原先輩らしい気がします」
「でしょ? 香穂ちゃん」

 笑っている2人の横、俺も微笑を浮かべながら、話を聞く。
 音楽を、楽しく。
 これは俺の親友の真理らしい。この3年、ことあるごとに聞き、俺は否定も肯定もせず、ただ笑って頷いてきた。

 だけど、俺の根底の考えは違う。
 音楽は俺にとって、俺自身をさらに美しく彩る道具。
 しかしながら、本当の価値は分かる人間にしか分からない。
 箔が付いていれば、それだけで評価する人間もいる。
 だから俺は、兄たちとの差を明示的にするためにも、ピアノでは何度かコンクールに参加したことがあった。

 火原は、『賞』というキーワードで自分の過去を思いめぐらしていたのだろう。
 突然、ぱっと明るい顔になると、俺たち2人に問題を出す。

「あ、おれね、おれね。違う賞なら取ったことある! なんだと思う?」
「なんだろう……。火原先輩が取ったことがある賞?」
「さあ? 君のことだから陸上かな?」

 即答できない俺たちを、火原は得意げに見渡した。

「えへへ。なんと、皆勤賞! おれ元気が取り柄だからさ」
「あはは! ううん。素敵だと思います」
「うん。とても火原らしい、よね?」

 午後始業開始5分前のベルが、行き交う人間の背を押す。
 さっきまで感じていた人影は、急に床に吸い込まれたかのように少なくなった。
 火原は、級友を見つけたのか、じゃあまたね、と日野に笑いかけると、勢いよく駆けていく。

「あ、長柄! ねえ、次の授業、予習してある?」
「だーー。お前、聞く相手が悪いよ。なんでよりによってオレに聞くんだよ? 柚木はどうした?」
「だって、この前、柚木の解答丸写しして、バレちゃったからさ。今度は長柄のを、って思ってさ」
「……お前って、もしかして全然懲りないヤツ?」

 仔犬のようにじゃれ合っている火原の背中を、日野は目を細めて見つめている。
 その表情は、俺と一緒にいるときにはけっして見ることのできない、姉のような優しい微笑だった。
 ── なんか、面白くない。

 俺は、周囲に聞こえないほどの低い声で日野を呼び止めた。

「……日野」
「は、はい? なんでしょう?」
「今日6時。正門前で待ってろ」
*...*...*
「あ、あの……。今日は、なんでしょう? えっと、補習?」
「は?」
「はい。だって、明日でしょう? 創立祭のコンサート」
「なにお前。この期に及んでまだ、自信がないとか言う気なの?」
「う、ううん。そんなことない……ハズ、です。多分」
「なんだ? 煮え切らない返事だな」

 ファータの像が作る影が濃く伸びている。
 もう30分もすれば、やがて、人工の光りの方が勢力を増して、あたりは一層閑散となる。

 思えば、この3週間弱の間、日野は、毎日飽きることなくヴァイオリンを肩に乗せていた。
 週末も。海の見える公園で1人、練習をしてたんです、と楽しそうに言っていた。
 今回、俺の出番は1曲。
 だけど、日野は、演奏する2曲。すべての曲に参加するから、単純に比較しても、俺の2倍は練習しているワケで。

 音楽科でもない人間のこいつなのに。
 春のコンサートもそうだった。そして、今のアンサンブルも。

 ── こいつはどうしてこれほどまでに、はかない音楽に身を投じるのだろう。

「あ、あれ? 柚木先輩、車は?」
「今日は胃の調子がすっきりしなくてね。身体のためにも歩きたくなったんだよ」

 なんとなく胃が重いのは、昼食の選択に間違いがあったのだと見当がつくが。
 火原に負けるのも癪で、今の俺は認めたくなかった。

「胃の調子が? 大丈夫ですか?」
「ああ。昼に食べたカツサンドのせいだとは思うけどね」

 日野は、俺とカツサンドの取り合わせが面白かったのだろう。
 ちょっと安心したかのように、くすくすと笑い続けている。

「なに? 俺にカツサンドは似合わないとでもいいたいの?」
「お、思ってても、言いません!」
「へぇ。お前もなかなか言うようになったね」

 ふわりと日野の髪の毛が風に浮かぶ。
 艶やかな額と、それに続く面輪は、春に比べて少しだけ大人びたようにも見えてくる。
 俺はふとその部分に触れたくなった。

「余計なお世話だよ」
「った! な、なにするんですかーー」

 軽く中指で弾くと、日野はベソをかいたように眉尻を下げて俺を見上げた。

 ── おかしなものだ。
 こいつの困っている顔。笑った顔。
 くるくると変わる表情を見ているのがこれほど楽しいだなんて。

 俺は日野の家の近くの公園まで脚を伸ばすと、薄暗闇の中のナナカマドを見上げた。

「野バラ、マユミ、ナナカマド。……この季節の花材は独特の雰囲気があって好きだな。
 春の可憐さや夏の力強さはないけど、生命の力強さを感じるでしょう?」

 日野は俺の問いには答えず、ただ黙って、俺の指さした枝ぶりに見とれている。

 秋の花の対極にあるのが、春の花。
 人はわかりやすく、また表現しやすい春の花を好むことが多い。
 だけど俺好みの漆器には、孤高のイメージを併せ持つ、秋から冬の花色の方がよりお互いを引き立てる気がする。
 秋の花々は、色が濃い、と表現することもできるかもしれない。
 滋味溢れていて、力強く。それでいてしたたかで、孤高でもある。

「……いよいよ明日、ですね」
「は?」
「創立祭、です」
「ああ」
「あ、あの! 私、頑張りますので、よろしくお願いします!」

 日野はかしこまった表情で俺を見上げると、深々と頭を下げた。
 真剣な、なんの迷いもない日野の目を見て思う。

 ── 来年の今頃のこの季節。俺はどんな進路を選んでいるのだろう。

 どこからか生まれ出た旋律が、俺の脳裏をよぎっていく。

『亡き王女のためのパヴァーヌ』

 ずっと木管構成が美しい曲だと思っていたけれど。
 この前、日野が軽く鳴らしているのに合わせるかのように加地が音を辿っていたのを思い出す。
 初めての手合わせだろうに、見事なまでにリズムを合わせてくるあいつは、やっぱり油断のならないヤツだ。
 日野が気に入っているからか、かなり聴覚が優れているからか。多分、両者を併せ持つのだろう。

「柚木先輩?」
「お前は……」

(これからも音楽を続けていくの?)

 言えない言葉を胸に、俺は日野の背を押す。

 こいつがこれから先、音楽を続けようが続けまいが、俺には関係のない話で。
 初めから決まっていた道を選ぶことに、今の俺はなんの迷いもないはず、なのだから。

「はい?」
「いや。暗くなってきたから急ごうか?」

 もの悲しい旋律は、止むことなく続いている。
 俺は日野から目をそらすと、重たそうに頭を垂れているナナカマドを見上げた。
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