*...*...* Letter 3 *...*...*
 その場所から逃げ出したくて。
 その一心で、おれは後ろも振り返らないで走り続けた。
 冬になっても毎朝ジョギングを続けているおれにとって、走る、ってことは呼吸をすることくらい簡単で慣れたこと、って思ってたけど。
 100メートル走を10本。
 手を抜かずに走り込むような勢いで走り続けたら、さすがに肺も心臓も『限界だよ』ってレッドカードを掲げ出した。

 おれの身体から生まれるシグナル。
 だけどこれは、もしかしたらさっき目の前にいた女の子の心の痛みよりもずっと小さいんじゃないか、って思えてくる。

 今、世界がおれ1人のものだったら。
 立ち止まって、大声で今知ったことを吐き出してしまいたい、って思っただろう。

 こういうことだったんだ、って。

(人を好きになる、って)

 さっきの女の子の縋るような目を思い出す。

 自分じゃ、なんともならない感情。
 苦しい。だけど、諦めることなんてできない。
 気付いて。話すようになって。初めはそれで満足してたハズなのに。
 もっともっと、って一緒にいる時間や、笑った顔を独り占めしたくなる。
 重たいような、暗い、独占欲。

 手に取るようにわかるよ。
 だって、それは今、おれが直面してる感情、そのものだったから。

 もっとさ、なんていうんだろう。
 女の子を好きになる、ってもっと明るくて、甘くて。幸せなことばかりだ、って考えてた。
 兄貴とおれ。女っ気のない環境で育ったせいもあるのかな。
 おれにとって女の子っていうのはイチゴムースみたいに、ピンクで、甘くて。ちょっとつついたら壊れそうな存在で。
 だからきっとおれが女の子に向ける感情っていうのも、同じくらい、キレイで優しいものだとばっかり思ってたんだ。

 好きになった人には当然、好かれて。そして、思っている分思われて。
 恋、ってただひたすらに、甘くて優しくて、幸せなモノだ、って。

 だけど、さっきの女の子の涙を見て、思い知らされたことがある。
 自分の思いは、必ずしも100パーセント相手に届くってワケじゃないこと。
 そして、自分の好きな相手はもしかしたら、おれ以外の誰かをおれと同じ想いで見つめているかもしれない、ってこと。

「香穂ちゃん……」

 これ以上走ったら、心臓が破れるんじゃないか、っていうところでおれはようやく立ち止まると、膝に手をついてゼエゼエと息を吐き出した。

 女の子っていってまず最初に思い出すのは香穂ちゃんの顔。

 学年も違う。学科も、楽器も違う。だけど、目を閉じて最初に思い出すのは彼女がヴァイオリンを構えている姿だ。
 どこがそんなに好きか、って言われても、いっぱいありすぎてわからないけど。
 明るいところ。素直なところ。そしてなによりリリのためだから、って一生懸命頑張ってるところ、がすごくまぶしいって思ってた。
 そう。夏休み前から。

 だから、コンクールが無事終わったことも、正直がっかりしたし。
 逆に、コンサートを、っていう相談を受けたときは、純粋に嬉しかった。
 また、あの子と話をするチャンスが増えるかも、って。

 だけど、もう1つ、気づいてたこともあったんだ。
 香穂ちゃんを目で追いかけるたびに、もう1人の男の目も、彼女の周りを飛び交ってたこと。

 そして。
 できれば認めたくない、って思ってたけど、昨日わかったことがある。

(柚木は香穂ちゃんを泣かすだけの力があるんだ)

 誰とでも仲の良い香穂ちゃんだけど、柚木といるときは特別楽しそうだ、って。

 それはつまり。
 おれの気持ちは香穂ちゃんに向かってて。
 柚木の気持ちも香穂ちゃんに向かってる。
 そして、香穂ちゃんの気持ちも、多分柚木に向かってる。ということで。

 おれは1人、輪の中から飛び出てる、ってことだ。

 ははっ。どうして、人の気持ちって、いや、自分の気持ちだって、そうだ。
 『好き』って気持ちは、どうして自分の思いどおりにいかないんだろう。

 だって、もし、さっきの手紙をくれた女の子が香穂ちゃんだったら、おれ、今みたいに悩んでないよね。
 泣き顔を見る前に、すかさず彼女の手を取って。
 おれも同じ気持ちだよ、ってお互い笑顔で話を続けてた。そんな気がする。

「火原先輩! やっと追いついた」
「あ、あれ? 香穂ちゃん?」
「はい! 火原先輩、走るの早いです……っ」
「日野ちゃん、どうしてここに? そっか。柚木が……」

 学院近くの小さな公園。
 香穂ちゃんの身長の3倍くらいの影が伸びて、俺の足元を覆う。
 そんなことさえも特別なことに思えて、おれは香穂ちゃんのそばに走り寄った。

 香穂ちゃんは肩で息をしながら、まっすぐに俺を見上げてくる。

 こんなところが香穂ちゃんの優しさなんだ、って思う。
 そう……。香穂ちゃんはおれのことが、男として好きなんじゃない。多分仲間として好きなんだ、って。
 それでも、仲間のおれを心配して追いかけてきてくれるところが。

 そして、この香穂ちゃんの行動の裏にある、柚木の態度も、なんとなくわかる自分がいる。
 ── 今日は、慣れないことでドキドキしているおれに、特別に香穂ちゃんを譲ってくれたんじゃないか……、ってね。

「大丈夫、ですか?」
「ありがと。うーん、平気か、って言われたら、平気じゃないかも、だけど。それより、きっと手紙をくれた彼女の方が……」

 おれはフェンスに寄りかかると、ため息をついた。
 手紙をくれた彼女。確か『羽田綾子』って書いてあった。
 何度もまじまじと見たからかな。
 今のおれは、彼女の顔よりも、一生懸命書いてくれたんだろうって思わせる、彼女の丁寧な字の雰囲気を思い出す。

 彼女は、今、森の広場で何をしてるんだろう。
 今のおれよりも数十倍、痛い、って気持ち味わってるんじゃないか、と思うと、おれはいたたまれない気持ちになる。

「さっき伝えたんだ。気持ちはすごく嬉しいけどおれは応えられないって。
 気持ちにウソついたんじゃ、もっと傷つけちゃうだけだから」
「はい……」

 おれは香穂ちゃんの視線を避けるようにして話し始めた。

「おれさ、手紙をくれた子の気持ちってよくわかるんだよ。すっごくわかるんだ。
 音楽聴いて、勇気をもらって、もっと仲よくなりたいな、好きだな、って気持ち」

(だってさ、おれも同じだから)

 言いたい言葉を舌の上に乗せたまま、おれは口をつぐんで、香穂ちゃんの目を覗き込んだ。

 どこを取ってもごく普通の女の子の香穂ちゃん。
 だけど、この子のヴァイオリンは、どこか、おれの大切に保管しておいた、自分自身でも知らない場所を刺激する。
 元気をくれて。頑張ろうって、力をくれる。
 ずっと繰り返したくなる音色なんだ。

「── 人を好きになるのって切ないね。思ってたよりもずっと」

 香穂ちゃんは、はっとしたように顔を上げて。だけどどう返事をしていいのかわからないのだろう。
 ふたたび視線を下に落とすと、口元を引き締めている。

 あー。おれ、かなりイヤなヤツになってるよなー。
 さっきのおれのセリフって、取りようによっては香穂ちゃんへのイヤミ全開、だよね。

「ごめん。今言ったこと忘れて?
 おれさ、今は、音楽を頑張るよ。コンサートに向かってトランペット目いっぱい、吹くね」
「火原先輩?」
「いい演奏がしたい。自分が納得できるような演奏が。手紙にあったみたいにさ。
 だってさ、おれが今、あの子にできるのってそれくらいしかないじゃない?」

 ひんやりとした風が、おれの額を撫でていく。汗ばんでいた身体が急に冷え出しているのを感じる。
 身体ってシンプルだ。寒ければ動けば、暑ければ風に吹かれればいい。
 ── 気持ちの熱も、こんな風に簡単に調節できたらいいのに。

「おれを探してくれて本当にありがとう。嬉しかった」

 香穂ちゃんは必死にかぶりを振る。

「いえ。私が勝手にきたんだもの。ごめんなさい」
「── 柚木はなにも言ってなかったの?」
「え? 柚木先輩、ですか? いえ、なにも……」

 『柚木』ってキーワードが出るたびに、焦ったように早口になる香穂ちゃんが可愛い。
 あんまり独占してて柚木が心配してもね、ということで、おれは靴先を学院の方へ向けた。


 ── 今は、このままでいい。


 好きだ、っていう自分の気持ちも大切だけど。
 それ以上に、このトライアングルな関係を大切にしたい、って思う。
 そうすることが、香穂ちゃんにとっても、柚木にとっても良いような気がするから。

「ははっ。昨日の貸し、ってことで、柚木のヤツ、香穂ちゃんを譲ってくれたのかもしれないね」
「はい?」
「柚木、内心すごく心配してるよ。このままおれたちが戻ってこなかったらどうしよう、とかね?」

 香穂ちゃんは、夕暮れが迫った太陽を見つめるかのように大きく空を仰いだ。

「火原先輩が言ってたこと、とてもよくわかる気がするんです」
「え?」
「……『人を好きになるのって切ない』って」



 オレンジ色の飛沫を浴びた香穂ちゃんの横顔は、神々しいほど綺麗で儚げに見えた。
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