── わからない。
 今までだって、周囲に異性がいることに、慣れていなかったわけじゃない。
 むしろ、どんな女であったって、俺の思いのままに簡単にあしらえる自信があった。
 追いかけてくる賞賛の声も。相談という名の割り込み的な雑用も。
 だけど俺自身が、1人の異性を追ってさりげなく周囲の様子に目を配るなんてことは今まで1度だってなかった。

(……やっと見つけた)

 放課後。森の広場。
 俺は、うっそうとした葉を茂らせている常緑樹に手をかけると、少し先にいる日野に目をやる。
 あいつは俺の視線に気付くことなく、淡々と弓を引いている。
 
*...*...* Sympathy *...*...*
 懐中時計の分針は、放課後が始まってから1時間近く経過したことを告げている。
 授業が終わるやいなや一心不乱に練習をしていたのだろう。
 日野は、肩が痛いのかぎこちない仕草でヴァイオリンを降ろすと、ほっと息をついた。
 俺は ねぎらいの意味も込めて2、3回小さな拍手をしながら日野に近づく。

「お前、前よりは上達したんじゃないの?」
「あ、柚木先輩……。こんにちは!」

 日野は律儀にも頭を下げると、俺の顔を見て微笑んだ。
 先輩後輩としての分をわきまえた態度に、心地よいものを感じながらも。
 それが、一線を引いたようなよそよそしい態度にも思えて、俺は面白くない。
 ── つい、頭の中で比べてしまう自分がいたりする。
 例えば、今、ここにいるのが火原だったら、こいつはどうするのか、なんて。

「ありがとうございます。今日は、一体どうしたんですか?」
「どういう意味? 俺がお前を褒めてはいけないの?
 お世辞じゃないさ。お前にお世辞を言ったところで、なんの得にもなりはしないよ」
「それは、そうですけど……。ですけど、あれ? 私、柚木先輩に褒められたの、初めてかもって思って」

 想いは音のように直接伝わらない存在なのか、とふと自分を自虐的に思う。
 俺が自分から話しかけるヤツというのは、それほど多くない。
 たとえ取り巻きに囲まれているとしても、だ。

 俺はまっすぐに注がれている日野の視線を避けるように、ヴァイオリンに目をやった。

「ま、お前の音楽も人に聞かせる音楽になってきたんじゃないか」
「そうなんでしょうか。ほら、もうすぐ文化祭だから、って私、最近はアンサンブルばかりやってて……。
 自分の音を聴いてないな、って思って、練習してたんです。確かに今までの音とは違う気もします」
「芸術というのはひとりよがりじゃいけないからね。鑑賞する人誰にも美しいと思われ、受け入れられることが必要だ。
 その点、お前の音楽は美しくなったといっていいだろう」
「そうですか? ありがとうございます!」

 何度も言葉を重ねることで、日野はようやく俺が冗談で言ってるのではないと感じたのだろう。
 頬を赤らめると、それを恥じるかのように下を向いた。

 はらり、と、朱い髪が日野の頬を撫でていく。
 細い指で耳に挟む様子は、ただただ初々しくて、俺はその仕草に見入った。

「いや、音楽だけじゃない。最近のお前は……」

(綺麗になった)

「はい?」

 今の言葉は、俺の内側の声? それとも、こいつに向けて投げた声か?

「── 今、俺はなんて?」

 コンクールの頃。
 初心者がしゃしゃり出てくることが不快だった。排除したいくらいだった。
 だけど日野は俺の牽制にもめげることなく、ただ、黙々と練習を重ねて。
 どんなにキツい言葉を告げても、翌日には笑顔で。
 明るい態度は誰に対しても変わることはなかった。

 俺が日野を追いかける理由。自分から、声をかける理由。
 ── 納得できない。
*...*...*
 足早にその場を後にした俺の背中を、追いかける足音が聞こえる。

「待ってください! どうしたんですか? 柚木先輩」
「わからない。どうしてお前なんかのことが。……自分がどうかしたとしか思えない」
「え、えっと。『お前なんか』って言われるのは複雑ですけど」
「は?」
「いいえ。なんでもないです! 今日はおかしいですよ? 大丈夫ですか? 気分が悪い、とか」

 俺が倒れるとでも思ったのか、日野はヴァイオリン本体と弦をまとめて持つと、そっと背中に手を添えた。

「気分が悪い……、ね。確かに今の気分は、俺が今まで味わったことのない感情だよ」
「あ、あの、保健室、行きましょうか? 私、付き添います!」
「いや。それよりも、日野。もう一度音を合わせてみないか」

 心配そうに眉を曇らせていた日野は、俺の考えが変わらないのを察したのだろう。
 やがてふっと息を吐くと演奏のための姿勢になった。

「なにを?」
「じゃあ、柚木先輩の好きな、『牧神の』を」

 冷たさを増した風の中、日野の唇は、『行きますよ?』とつぶやく。
 それに合わせて俺も大きく息を吸い込んだ。

 厳かな旋律が流れ始める。
 ドビッシーの出世作と言われるこの曲で、フルートという楽器は初めて、脇役から主役に躍り出た。

 ── 脇役、か。

 不本意な理由でピアノから遠ざかってからというもの。
 柚木の家の中では絶えず目立たないように気を張っていたことを思い出す。
 なぜフルートを専攻したのか。
 その理由を考えるとき、脇役としての存在価値に惹かれたのも事実だった。
 主役になることはあまりないけれど。だけどなくてはならない存在。
 俺も、柚木家でそんな存在になるのだ、と。

 だが、今は……。

(思ったとおりだ)

 日野は、フルートの音を聞き分け、優しいメロディを奏で続ける。
 貼りついたようにぴったりと合うヴァイオリンとフルートの旋律の中。
 主役でもない。また脇役でもない。
 そんなとってつけたような価値は無用で、自分の立場は、自分の気持ちが決めるもの。

 俺は、日野との間に生まれる空気に、ゆったりと身を任せた。

「あの。柚木先輩。どうでしたか?」

 普段とは違う様子の俺に感じるモノがあったのだろう。
 日野は心配そうに眉をひそめると、一歩俺のそばに近づいた。

「音を合わせれば身も心も共鳴するから、それ以上の理由なんてないというわけだね」
「はい……」
「ま、理屈で動く部分なんて人の心のほんの一部ってことも一応、知ってはいたけど。
 俺みたいな人間でも、想いの方が先に立つことがあるとは予想もしていなかったよ」

 日野はどう相づちを打ったらいいのかわからないのだろう。
 困ったような表情で俺を見上げる。

「おやおや。なにを言ってるかわからない、って?」
「……ごめんなさい。本当によくわからないです」
「俺に、どういうことか教えて欲しいの?」
「はい。えっと、私のヴァイオリンに足りないところがある、ってことですよね?」

 真面目一辺倒の返事に、少しだけ力が抜ける。
 そして、これだけ言ってもわからない日野、という女の子にますます興味がわく。

 いや……。真逆に取れば、日野は、俺のことなど、なんの関心もないのだろうか。
 もっと有り体に言えば、日野は俺よりも、俺の親友の方を大切に思っているのだろうか。

 可愛らしい様子で考え込んでいる日野は、俺に少しだけ考える余裕を与える。
 俺はここになってようやく普段の状態を取り戻すと、日野に向かって笑いかけた。

「さて、どうしたものかな。お前はおねだりが下手だからね。今日のところは、まだ、おあずけかな」
「今日のところは、って、あ、あの。文化祭、明後日ですよ? おあずけしてたら……。おあずけしててもいいんでしょうか?」
「いいんだよ。俺の問題だから。……さ。もう一度、今の曲をやってみせて」

 春のコンクールのころには、こんな初心者がどこまでやれるのかと、軽んずるような見ていたが。
 やはりリリの人選はそれなりに、人を見る目があったらしい。

 人が好きで。ヴァイオリンを奏でることが好きで。
 そして、人の輪が広がっていく、合奏が好きな女の子。

 もともと。音楽は高校まで。
 フルートは自分を彩る道具としか考えてなかった俺は、
 火原のようにオケ部に入ろうという気もなかったし、放課後、授業以外の時間にフルートを奏でることなんて想像もしていなかった。

 だが……。
 日野と奏でる旋律は、心地よさだけを残しては消えていく。
 消える音を追いかけて、また新しい音を作る。
 ── 何度でも繰り返したくなる。

「あ……」

 優しい風が吹いて、日野の楽譜台の譜面が飛んでいく。
 思えば、俺がお祖母さまにピアノを辞めるように告げられた季節は、ちょうど今時分かもしれない。
 頬を撫でていく風が教えてくれるのは、以前感じた哀しみだけじゃない。

 ── あふれ出す旋律や、浮かんでは消える思いすべてを、こいつに、向かって投げていけたら。

「ごめんなさい。楽譜、取ってきますね」

 曲の合間にぺこりと頭を下げて、走り出す背中に思う。
 日野を他のヤツに渡したくない。
 昨日までは、親友の火原になら仕方ないと諦めていた思いの上に。
 なぜ諦める必要があるのか、という疑問にも似た思いが沸き上がる。

「柚木先輩。さっきのお話ですけど、私……。あの、私の勘違いじゃないなら……」

 俺は指を立てて、そっと目の前の口元に触れる。
 どこまでも柔らかい感触は、今思えば、始まりの予感だったのかもしれない。



「まだ、言ってはいけないよ。簡単に言える言葉なんて、そこに込めた気持ちが薄まってしまうでしょう?」
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