祈る。
 この言葉で思い浮かぶのは、ことあるごとに行われる宗家の法事の席だったりする。
 漆黒色の喪服。
 染め抜いた白紋だけが、蝶が舞うようにひらひらしている。
 あの人は花菱。あの伯母さまは、流れ笹葉なのか。
 改めて見つめると、それぞれ微妙に意匠が異なる。
 だが、念珠を手にし、頭を垂れる姿はみな同じだ。

 人はなんのために祈るのだろう。
 幼い頃から、疑問だった。

 祈る。
 たとえ祈ってみたところで、自分の世界は変わらない。
 死んだ人間が生き返ることはなく、俺自身を取り巻く環境も、生き方も。何一つ変わらない。
 なのに、どうして。
 ── 人は人のために祈るのだろう。
 
*...*...* LiLy *...*...*
「お前、最近、また生意気になってきたんじゃないか?」
「は、はい? そうですか?」
「俺が気付いてない……、なんて思ってないよね?」
「えへへ。ありがとうございます」

 秋が深くなってから、軽い俺の意地悪に対して日野は柔らかい受け答えをするようになった。
 屈託のない笑顔に、ますます俺の口も滑らかになる。
 そして、日を追うごとに、こいつと過ごす時間を愛おしく思っている自分に気付いたりもしている。

 文化祭まであと1週間、という週末。
 俺は日野に誘われるままに練習に付き合っていた。

 朝、楽器を持って出かける俺を、渋い表情で見送っていた祖母には気づいていたが。
 まあ、経過より結果、成果を重んじる祖母のことだ。
 この前の模試の成績を見せれば、これ以上のお小言はないだろう、と俺は予想していた。

「さて、と。練習も一息ついたな。これからはお前の息抜きに付き合ってやるよ」
「本当ですか?」

 日野は俺の提案にぱっと明るい表情を見せると、小走りで俺の近くに寄ってくる。
 合奏をしているときでさえ、十分近くにいるでしょう? と以前火原はからかってきたことがあったが。
 やはり、弓を引く分、フルートを構える分だけの場所、パーソナルスペースというのかは、確実に確保しなくてはいけないから。
 こうして、お互い楽器を構えていないときは、なんの躊躇もなく、お互いのエリアに入り込むことができる、とは思ったりする。

「嬉しいです! あ、そうだ。柚木先輩、どこか行きたいところはありますか?」
「いや。特に」
「じゃあ……。展示展はこの前行ったから、今度は港さん橋に行きませんか? 天気もいいし。
 あ、そうだ。英国船籍の船が今日寄港する、ってニュース、見たんです」
「まあ、ここは国際港として世界に開かれているからね。世界中から多くの客船がやってくることもあるそうだよ」

 練習をしていた臨海公園から、港さん橋までは歩いてすぐの距離にある。
 日野と話ながら進む道はいつもよりも短く思えた。

 緑の小山を右手に大きく曲がると、そこは大きな港が広がって見える。
 ちょうど到着した船は存在を誇示するかのように、大きな汽笛を2回鳴らした。

「あ、あの船かな? 英国船籍の船って……」
「ああ。あの船は違うよ。あれは湾内をクルーズするレストラン船だ」
「レストラン船、ですか」
「まあ、あれくらいならお前も緊張せずにすむかもな」

 見ると、甲板から色とりどりのドレスに包まれて純白のドレスの女が降り立った。
 女の後を、今度は黒い式服に囲まれて白いタキシードが歩いてくる。
 ── ああ、結婚式、ね。

「船上結婚式だね」
「そうですね……。天気が良くてよかったですよね」

 見ると新郎新婦は、正装している若い男女の間を踊るように歩いては、籐のかごに入っている花を渡していた。

「いいですね。ブーケトスよりも、みんなに幸せが行き渡るみたい」
「ブーケトス?」

 日野は楽しそうに頷くと、小さな声で説明を始めた。
 式が終わった後、花嫁さんは使ってたブーケを、参列者さんに投げることをブーケトスって言うんです。
 それを受け取った人は、次に結婚できる、とか幸せになれる、っていう言い伝えがあるんですよ?
 だけど、その方法だと1人の人しか受け取れないでしょう?
 だから、この結婚式みたいに、全員にお花が行き渡る、っていいなあ、って思って。
 みんなが幸せになれるってことだもの。

 花が幸せの象徴。
 だとしたら、花に囲まれて暮らしている俺は、いつだって幸せの頂点に居てもおかしくないはずなのに。

 ── どうも面白くない。

 花をもらえばそれだけで幸せになれるなんて、あいまいなものを信じている日野も。
 新郎新婦の様子を嬉しそうに目で追っている日野の笑顔に、素直に同化できない俺も。

 配る花が余ったのか。それとも、日野の様子になにか思うところがあったのか。
 白いドレスの新婦は、微笑みながら少し離れた俺たちの方へと近づいてきた。

「どうぞ。受け取ってちょうだい? 私、今日の幸せを、できるだけ多くの人と分かち合いたいの」
「柚木先輩……」

 出された白百合を見て、日野は戸惑うような表情で俺を見上げた。
 俺の不機嫌そうな様子から、素直に手を出すことをためらっている、というところ、か。
 俺は内心ため息をつきながら新婦の方へ一歩脚を進めた。

「よろしいのでしょうか?」
「はい。ぜひ。あなたたちの未来にもどうか神の祝福がありますように、って祈らせて?」

 花嫁はこれ以上なく幸せそうな笑顔を浮かべて、俺と日野を交互に見つめた。
 日野は、と言えば浮かれたような朱い頬をして、うっとりと花嫁の様子に見とれてる。
 そんな日野が初々しく映ったのだろう。
 花婿はふっと小さな子を見るような優しい目をして日野のことを見守っていた。

「そうですか。……じゃあいただきます。それと、ご結婚おめでとうございます」

 ここで頑なに固辞するのも格好がつかない、か。
 俺は定石どおり、にこやかに微笑むと、花嫁の差し出した白百合の花を手にした。
 ふわりと風に乗って白百合の香りが4人の間に広がった。
 もし、幸せに香りがついているなら、こんな甘い芳香なのかもしれない。

「受け取ってくれてありがとう」

 花嫁はそう言うと、花婿の手にそっと手を添えて、ふたたび友人の輪に戻っていった。
 日野は目を輝かせて、花嫁の後ろ姿に見とれている。

「綺麗な花嫁さんでしたね。ティアラがすごく可愛かったです!」
「そう?」
「ダンナさんになる人も素敵でしたね。優しそうな人だったなあ……」

 2人はぴんとした背中を向けると、参列してくれた友人に ねぎらいの言葉をかけている。
 俺は手の上の白百合の首をくるりと動かしながら呟いた。

「……神の祝福、ね。
 俺は自分の未来を、そんな不確かなものに委ねられるほど のん気な人生を送ってきたつもりはないんだがな」
「柚木先輩?」
「そうだろう? 神や仏に祈ってみたところで、自分の立場は変わらない。やるべきことも、周囲の環境も、なにも、ね?」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「だろう? 風が強くなってきたみたいだね。そろそろ行こう?」
「待ってください!」

 日野の大声に振り返ると、日野は港の風に吹かれて乱れている髪を一生懸命手で覆いながら俺のことをにらみつけている。

「たとえ……。私が祈ったって柚木先輩の未来は変わらないかもしれないけど、私は祈ってますよ?
 柚木先輩の未来が、幸せでありますように、って!」
「日野。いったいどうしたっていうの? そんな大きな声を出して」
「だ、ダメって言ったって、祈るんだから。ムダって笑われても、祈るもん」

 今まで俺が見たこともないような剣幕で言い返すこいつを、興味深く見つめていると、
 日野は言い過ぎた、と思ったのだろう。口を尖らせたまま下を向いた。

「……やれやれ。お前はどうしてそんなあいまいなモノが好きなんだろうね?」
「はい?」
「噴水のコインもそうだったよな」

 あれは10月に入ってすぐのことだった。
 何かの弾みで、日野と、月森、志水、そして冬海さんと一緒に駅まで帰ったことがあった。
 噴水にコインを投げると願い事が叶う、と冬海さんから聞いた日野は、真剣な面持ちでコインを投げると、
 しばらく目を閉じてじっと手を合わせていた。

 と、ここまでは微笑ましいモノだったけど。
 ……そのあとがいけなかった。

 俺にどういう願い事をしたのかと聞いて。
 適当なことを言う俺に、それでは神さまに伝わらない、とかひどく生真面目に文句を言っていたことを思い出す。

 俺は港の空気を思い切り吸い込んだ。
 白百合の芳香。日野の熱。あいまいなもの。そして祈り。
 ── 自分の中に満ちてくる、この くすぐったい感覚はなんだろう?

 俺は固まったように動かない日野のそばへと一歩近づいた。

「お前は、俺の未来より自分の未来を心配した方がいいんじゃないか?
 文化祭まであと1週間だろう? さっきの曲もまだ解釈が足りないところがあるし」
「そ、それは……っ」

 自分でもまだ練習不足だと思っているのだろう。
 日野はバツが悪そうに目を逸らしている。

「だけど。お前に言われっぱなしっていうのもシャクだから。そこまで言われたら礼の1つもしないとね」
「礼、って? な、なにを……?」
「おや? 俺がこわいの?」
「こ、こういうときの柚木先輩はこわいです! ごめんなさいーーっ」
「……日野。いい子だから動かないの」

 俺は日野の腕を掴んで動かないように固定すると、手にしていた白百合の花をそっと髪に差し込んだ。
 日野の白い頬に白い花はよく映える。俺にはさっき見た花嫁よりも綺麗に見えた。

「この花みたいに、俺が手に入れた祝福は、みんなお前にあげるよ」
「え? どうして? 待ってください。あの、柚木先輩は?」

 跳ね上がった髪を指で梳く。
 日野の髪は俺よりも柔らかく、素直に指に巻かれていっては、くるりと形を変えた。

「お前は俺のものだから。……お前が持っているものは俺が持っているのと同じことでしょう?」
「ありがとう、ございます。あ、あれ? でも!」

 納得がいかない、という顔で、日野は俺の目を覗き込む。
 透き通った瞳の奥に、どこか満ち足りた表情の俺がいる。


 祈る、こと。
 そうか。自分の願いなんて何一つ持たなかった俺が、日野のために祈る。
 そう。今腕の中にいる、こいつの幸せを祈る。
 どうか、こいつが、いつも笑っていられるように、とかね。

 祈るという行為がなんのためにあるのか、俺は初めて知り得たといえるのかもしれない。
 愛しいと思える相手が、いつも幸せであるように。
 そんな願いから、人は偶像を作り、魂を入れ、崇め、心の拠り所にし始めたのだ。

「そろそろ行こうか」

 抱き寄せたいと思う腕をそっと引きはがして、一歩先を歩き始めた俺の背に、日野の小さな声がした。



「やっぱり、柚木先輩にも祝福がありますように、って思います。
 柚木先輩が幸せなら、その……。私も幸せだな、って思えるから」
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