受験勉強のためにノートを広げる瞬間だとか。
フルートを組み立てている時。
眠りに落ちるほんのつかの間の数秒。
ふと、俺は考え込む。俺は日野に何を求めているのだろう、と。
言葉を交わすのが楽しくて。あいつの反応が面白くて、続きを願う。
今日を終えても、また明日を求める。飽きることがない。
そこまで考えて目に浮かぶのは、まだ成長しきっていない小さな手と、ピアノの鍵盤。
華奢な関節の造りと爪の形が、手の持ち主は、幼い頃の俺だということを知らせてくる。
── つまり。
幼かった頃、飽きることなく弾き続けたピアノのように。
俺の内側は、もっと日野自身ののことを理解したいと考えているのだろう。
理解して。わかり合って。
そして、自分が愛おしんだ分の暖かみを返してほしい、と願っているのだろう。
*...*...* Train *...*...*
「駅? 駅って、楽器街に行くのに電車に乗るつもりなの? お前は」知らず、自分の口から、呆れたような気の抜けた声が出る。
まったく。目の前のこのヴァイオリン弾きは、いったいなにを考えているのだろう。
日野が言う店は、車ならわずか20分程度の距離。
そこに行くためにわざわざ2回の乗り換えをし、さらに倍の時間をかけて電車で行くということに、いったいなんの価値があるのか。
今の俺には全然見当が付かない。
秋の日の晴れた昼下がり。
俺の屈託に構うことなく日野は透きとおった空色を背景に、嬉しそうに何度も頷き返している。
「はい! 天気も良いですし。たまには電車もいいかなあ、って。きっと気持ちいいですよ?」
俺は改めて日野のいでたちを眺める。
左手にはヴァイオリン。それに重そうな楽譜集。大きめのカバン。
さらに、寒くなることを配慮してだろう。もう一方の腕には薄手のコートが引っかかっている。
日野の面輪は秋の太陽を反射して、優しげなピンク色に輝いている。
この色は……、と思いを巡らせたとき、俺の脳裏には昨日生けたコスモスの花弁が浮かんできた。
父は玄関に置かれた花の立ち姿をしげしげと眺め、『春のような暖かみがあるな』と顔をほころばせていた。
もっとも祖母は、さらりと一瞥し、『気持ちがふわふわと浮き立ってますね』と俺だけに聞こえるような声で容赦なく切り捨てて行った。
花を生ける人間は俺以外にも何人もいるというのに。
誰が生けたか瞬時に把握し、さらに生け手の心情まで看破する祖母は、やはり父以上に統率力のある人間といっていいだろう。
「車を使った方が早く目的地に着くだろうに。……お前も物好きな子だね」
ため息半分にそう言葉を繋ぐと、日野はなぜか嬉しそうに笑う。
俺が、2人練習を承諾したとき。
満足いく演奏を終えた瞬間。
いや。もっとありきたりの日常……。たとえば、朝会ったとき。帰り際。
日野はこんな風に柔らかく微笑む。
優等生の仮面をかぶり続ける俺に、学院中の誰もが笑顔で接してくる。
女の中には黄色い声を挙げて、駆け出してくるヤツもいる。
だけど、日野の笑顔はまっすぐに俺の中に落ちてくる。
「えっと……。ダメ、ですか?」
遠回りだ、という事実を十分認識しているのだろう。
日野は残念そうに眉をひそめると、しょんぼりと声を落とした。
「ま、お前がそうしたいなら、それでいいさ。……じゃ、行こう?」
*...*...*
「……たまにはこういうのも悪くない、か」日曜日の昼下がり、ということも関係しているのか、俺たちが乗った電車は静まり返っていて、
ともすれば、お互いの呼吸の音だけが響き渡るような静けさだった。
車のフロントガラスよりも大きなガラスの向こうには、波の上、模型のようなヨットが漂っているのが見えてくる。
以前俺があまり電車に乗らない、と言っていたことを気にしているのか、
日野は、左右に流れていく景色を指さしながら、ぽつりぽつりと口を開く。
目の前の移り変わっていく海の色や、風の強さ。夜の観覧車のイルミネーションは七色に輝くこと。
ちょうど今年は開港150周年で、いろいろなイベントが催されていること。
この街が大好きだということ。
「お前、なかなか詳しいね。よく遊びに行ったりするの?」
「いえ……。全部天羽ちゃんの受け売りなんです。
アンサンブルがすんだら行きたいなとは思ってるんですけど、今はなかなか」
日野は後ろに流れていく風景を残念そうに見送った。
── やれやれ。
こいつは自分の価値や存在が、どれほど周囲の人間を動かすか、ってことにまるで無頓着だ。
もし火原だったら? いや。加地とかいう転校生も、土浦も。
日野が観覧車に乗りたいといえば、誰だってこいつのために時間を割こうと思うだろうに。
「そうだ。それにしても、どうして柚木先輩は電車に乗らないんですか? こんなに楽しいのに」
「楽しい?」
「はい。すごく。このゆっくり揺れてる感じとか。どんどん景色が変わるところとか。
まだ、ヴァイオリンを始める前ね、1人で目に付いた電車に乗って、半日使って行けるところまで行ってみたこともあるんです」
「そう」
「一緒に乗ってたおじいさんが、乗客の方をすごい勢いでスケッチしてて……。私にも1枚描いてくれたんですよ?」
── 1人で、半日、ね。
今までの自分を思いやる。
18年も生きてきて、俺は1日としてそんな無駄な時間の過ごし方をしたことがない。
それはともすれば模範的な生き方であるはずなのに、そして、今まで俺はその生き方になんの迷いも持っていなかったのに。
ふと、そんな1人の時間を楽しんでいる日野が羨ましく思えてくる。
「俺が電車に乗らないわけ? さあ、なんだろうね。知りたい?」
「はい!」
「……残念だね。教えないよ。まあ、そんなに難しい理由じゃないから、自分で考えてみるんだね」
「ううっ。なんだか最初から教えてくれる気持ちはなかったのかな、って……?」
「あたり」
電車のアナウンスは、目的地へ到着したことを告げる。
日野はあれこれと思いを巡らせているようだったが、俺に背を押され慌ててドアをすりぬけた。
「話していたらあっという間でしたね。すごく早かったです」
「せっかく遠出をしたんだ。とりあえず用事を片づけよう。楽器店に寄って……。それから何をしたいの?」
「いいんですか? じゃあ、あの……」
日野は目を輝かせて、見慣れない街並みを眺めている。
どんな たいそうなお願いを口にするのかと思っていたが、返ってきた答えは こっちが拍子抜けするほどささやかなものだった。
「えーっと……。柚木先輩と、喫茶店、行きたいです!」
「なんだ。そんなところでいいの?」
「やっぱり、その……。学院の近くの街は緊張する、っていうか」
「は?」
「あ、あのね。新見さんとかね。あの、柚木先輩のファンに会っちゃったら、って思うと」
日野は早口で言い募ると、申し訳なさそうにふっと白い息を吐いた。
……日野に会ってから、というもの。
いや、俺の中で少しずつ日野の存在が大きくなるにつれ、と言った方が正しいのか。
ときどき、俺を騒ぎ立てる女たちの存在は、いったいなんなのだろう、と考えることがある。
自分の立ち位置が誤っているとは思わない。── だけど。
受験生。アンサンブル。宗家の雑事。それに、たまに面倒なことを言ってくる生徒会も。
アンサンブル以外のこと。つまり日野が絡んでいないことの対応に、笑顔で居るのも最近疲れる。
── まあ、自分に余裕がない、と言ったところなのだろうか。
「ま、悪くないんじゃないか、決まったスケジュールのない1日というのも」
「はい。付き合ってくださってどうもありがとうございます」
あてのない日、か。
記憶の糸をゆっくりほどいても、俺にそんな日があったことが思い出せない。
休日の大半が、宗家の行事に追われ、雑用で占められ。
長兄がいなければ、次兄が。そして、次兄が不在なら俺が、代役として頻繁に呼び出されていた。
俺の過去にあるつまらない日々たちを、今日という時間で上塗りできたらいいのに。
楽器店に行き。喫茶店でお茶を飲み、電車に乗る。
言葉にしてしまえば取り立てて変わったことのない日曜日を過ごしたあと、
俺たちはまた、行きと同じように、歩き、電車に乗り、そして日野の家まで辿り着いた。
「何をぼんやりしているの? 早く歩かないとすぐに暗くなるよ」
「はい! 柚木先輩、歩くの速いですね……」
つるべ落としの夕日は、あっという間に、自身の身体を街並みに沈めて、今は残照だけが残っている。
考えてみれば、日野の自宅までこうして歩いてきたのは初めてのような気がする。
日野の自宅はハナミズキが葉を落とし、静かな冬が始まっている。
薄暗がりが広がる中、俺はゆっくりと日野の髪に手を伸ばした。
クセのある朱い髪が、俺の指の間で、さらりと乾いた音を立てた。
日野は一瞬身構えたように身体を堅くすると、これだけは尋ねようと思っていたのだろう。
真剣なまなざしで俺の顔を覗き込んだ。
「あ、あの! 柚木先輩、電車、楽しんでくれましたか?」
「まあ、たまにはこんな休日もいいだろう」
「そっか……。良かった、です」
「だけど、本番まであと少しなんだ。今日は夜更かしするなよ」
「はい」
冷え切っていた髪が、俺の手の中、ぬくもりを返してくる。
それに満足して指を離すと、日野はくすぐったそうに笑った。
「そうだ」
「はい?」
「これは俺からの命令。── 今度また電車に乗りたくなったら、必ず俺を呼ぶんだよ?」