── わからない。どうしてあいつらは、こんな俺を見ても平気なんだ?
*...*...* Need 2 *...*...*
「……お疲れさまでした。僕、今日はすごく気持ちよく演奏できたように思います」最後のフレーズが講堂の天井高く消え去ったあと、志水くんは音に酔ったかのような高揚した頬を俺たちに向けた。
火原と俺、という取り合わせだったからだろう。
日野は、この日の放課後の残りの時間を、すべて『ドナウ』の練習に当てた。
俺たちとそして冬海さんが作る管の音は、ドナウの流れそのもののような穏やかな旋律を作った。
その間を縫うように、志水くんと日野の音が響いていく。
最初この曲を奏でるとき、俺と火原にしては珍しく意見が対立したことを思い出す。
オーストリアの国歌としての位置づけであるこの曲を、俺は『優雅に格調高く』演奏したいと解釈した。
一方火原は、どうしても『明るく元気良く』吹きたいと言って譲らなかった。
お互い、歩み寄る術を模索しているとき、日野の無心に弓を引く姿を見て思った。
火原には火原の美徳がある。それを損なうような演奏は、俺にはできない。そう考えたことを。
「今日は、先輩方の管が揃っていました。冬海さんも良かったし……」
志水くんは、目上の人間への言葉、などという遠慮もなしに はっきりした口調で告げた。
日頃、ことに音楽に関しては、はっきりとした物言いをする人間だったが、今日の演奏は彼の琴線に触れるものがあったのだろう。
ちらりと下校時間を過ぎた時計を見つめながら、今もまだ満足げにため息をついている。
(火原……)
俺は微笑みながら軽く火原と目配せをした。
確かに今日の演奏は、いささか俺らしくない、悪く言えば、『浮ついた』、よく言えば、『華やかな』演奏スタイルだったようにも思う。
自分がそんな感情という低俗なモノに、突き動かされるなんて状況を、今まで考えたことがなかったのにね。
火原は俺の考えを察したのか、全然オッケーだったよ、と言わんばかりに大きく頷いた。
本当に我ながらおかしい。知らず、笑いがこみ上げてくる。
「す、すみません。香穂先輩。今日のお茶のお誘いなんですけど……。
私たちのクラスは文化祭の準備で、これからまだ仕事が残ってしまってて」
「あ、そうなんだー。文化祭まであと少し、だもんね」
それぞれ自分の楽器を片付けて講堂を出たとき、冬海さんは申し訳なさそうに日野に頭を下げていた。
なんでも1年の音楽科でやる甘味処の準備が整っていないこと。
今日これからポップ作りやチラシの準備などを始めるらしいことを、冬海さんは切々と日野に訴えている。
「ううん? そんな気にしないで! お茶なんてまたいつでもできるし。そうだ、あの、文化祭終わったら、また誘ってもいい?」
「はい! 喜んで! あ、あの……。私からもお誘いしてもいいですか?」
「うん。待ってる」
日野は冬海さんが気に病まないように、とでも言いたげに明るい笑顔を見せている。
冬海さんは心底ほっとしたように、日野の顔を見て笑った。
ふうん……。
女性のアンサンブルメンバー、というのは、仲が良くなるのも早いが、疎遠になるときも早い。
まあ、冬海さんのような穏やかな性格のコと、日野のようなどこか抜けたようなのんびりした性格のヤツじゃあ、
ケンカになりそうにもなりようが、ないかも、ね。
俺は今日この場に来ていないアンサンブルメンバーを思い出す。
土浦に、月森。それに、加地、か。
女性陣が穏やかな分だけ、男性陣が個性的、ってことか。── 俺も含めて。
「じゃあ、先輩たち、私たち、ここで、失礼します。あ、あの。志水くんも、今日は一緒に準備、しよう?」
「え? 僕も……」
「うん……。志水くんも1度は、準備に顔、出しておいた方がいいと思う……」
冬海さんは、なおもうっとりとした足取りで帰ろうとしていた志水くんの上着をそっと引っ張って、柊館へと向かった。
*...*...*
後輩2人が慌てて廊下を走り抜けて行ったあと、俺と火原と日野は、正門前へと歩き出した。西明かりが正門の石畳を朱く染め上げている。
火原は、さっき弾いた『ドナウ』を鼻歌交じりに歌っている。
日野は、曲想を反芻するかのように一歩一歩朱い煉瓦を踏みしめるように歩いている。
そして、俺の視線に気づくと にこりと白い歯を見せた。
火原と日野。
この2人でいるときの、穏やかな気持ちはなんなのだろう。
一緒に、飽きるほど、同じ時間を過ごしたから?
同じ時間を共有した、というだけの関係なら、それこそ頑是無い小学生時代のクラスメイトの方が長い時を共にした。
それとも、何度も自分たちの音楽を共有したから?
この答えもどうやら、否としかいえない。この命題が真ならば、音楽科の同級生とはもっと深い付き合いができたはずだ。
── 本当の俺自身を知っているから?
日野に俺を見せたのは、音楽のことを何も知らない普通科の日野をただ牽制したかっただけ。
火原に俺を見せたのは、突然音楽を辞めることになって、自分に余裕がなかったから。
自分の至らなさからだ、としか思っていなかったのに。
2つの事象を見比べて、そこに『音楽』という共通項があることに我に返る。
おかしなものだ。
いや、日野と出会った春から、俺にはおかしなことばかり起きる。
当たり前だと思っていたことが覆される。
そして、世界中に通用すると信じていた俺の定石は、俺と俺の家だけに通用するマイナーなルールだったことに気づく。
家の地位も大きさも、俺にとっては決して揺るぐはずのない、大きな世界そのものだったのに。
「んーーー。気持ちいいねーー! いっぱい練習したあと、って最高だね。
なんてたって、今日はおれたちが『ドナウ』を引っ張っていった、って気がする。ね? 柚木」
「文化祭まであと少しだからねえ。今日俺たちは最高学年として模範となる姿を見せることができたかな」
「うん! そうそう」
日野は口を挟むことなく、ただ俺たちの話を聞いている。
こいつの笑った顔は、この季節の、この時間。物の輪郭があいまいになる頃に灯る、街灯みたいだとそのとき思った。
目にすると温かい気持ちになる。
── そして、明日。また同じ情景を見たくなるんだ。
視線の向こうに、迎えの車が停まっているのだろう。ボンネットの先が少しだけ見えた。
校門を通り抜けたら、そこで、俺たちは別々の道を行く。
俺は車へ。香穂子は歩いて自宅へ。途中までは火原も一緒かもしれないけど。
そのあと、火原は駅前へ向かう。フォークの先みたいに俺たちは別れて帰路につく。
寂しさなのか。それとも終わっていくこの時間への、執着なのか。
ふと気づくと、俺は脚を止めていた。
両端にいた2人は、不思議そうに俺を振り返る。
「ん? 柚木どうしたの?」
「柚木先輩?」
「どうして、お前たちは、俺に付き合ってくれるの?」
「んー?」
「はい?」
「ねえ。どうして?」
突然の質問に、2人はお互い顔を見合わせている。
俺自身も、子どものような頼りない質問に、自分自身呆れる。
火原はしょうがないな、といった風に微笑むと、手にしている楽器をもう1度背負い直す。
俺は、俺の親友がこんな大人っぽい笑い方をするのを初めて見た気がした。
「……柚木が好きだから。それだけじゃダメかな? ね、香穂ちゃん」
「はい……。私も、柚木先輩、好きですよ?」
火原の笑顔に釣られるようにして、日野も頷いている。
放課後、真剣な眼差しで俺を見上げていた生徒会のメンバーを思い出す。
家での俺の位置も。
みんな、なにか目的があって俺に話しかけてくる。
それは、俺を利用することで、利があると考えるヤツらか、対面を美しく彩るための装飾品。
誰も、みな、俺を利用するために声を掛けてくる。そう思い込んでいたのに。
目の前の2人には、『邪気』という言葉がまるで似つかわしくない透き通った目で見つめ返してくる。
「……そんな理由で?」
なおもそうやって食い下がると、火原は俺の屈託に気づくことなく、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ヘンなの。それ以上の理由がどこにあるっていうの? ねえ、香穂ちゃん」
「えっと……。はい。そうですね」
日野は俺を気遣うように目配せをすると、何度も火原の言葉に頷いている。
もし今の俺に、かけがえのないものがあるとすれば、それはこの学院での生活だ。
けれどそれももうすぐ終わる。どんなに名残惜しくてもここに留まることはできない。
失うとわかっているものをいくら思ったところでどうにもならないことはわかっている。
だけど。
── 今のこの瞬間を、少しでも引き延ばすことができたら。
「まったくお前たちは……。これだからかなわない。いいよ。今日はとことん付き合ってあげる」
「やったね! 香穂ちゃん。今日は全部柚木のオゴリだって!」
「は?」
「本当ですか? 柚木先輩。じゃあ、あ、あの、駅前にできた喫茶店、行ってみませんか?
小さなケーキが3種類、選べるんです。目の前でパティシエさんが切ってくれるんですって」
「へえ、香穂ちゃん、詳しいね」
「はい! 今日の休み時間に聞いたんです。それで、放課後一緒に行こうか、って冬海ちゃんと話してて……」
「お前たち、ちょっと調子に乗りすぎ」
俺の憎まれ口に、2人は声を挙げて笑った。
思いの強さと、言葉の発露。両者は必ずしも比例するものではない。
だからといって、俺が音楽とこの2人を、求めていないと言ったら嘘になる。
俺は運転席にいる田中に先に帰るよう伝えるため、フロントガラスをノックした。