「ごめんなさい。柚木くん。私、ちょっとこれから会議があるから席を外すのよ。
 あなたなら1人でここにいても大丈夫よね?」

 保健室の先生は、頭痛薬をもらいにきた俺の様子を確認するかのように、鼻先にずれていたメガネを持ち上げた。

「ええ。ご心配をおかけしました。僕は大丈夫です」
「そう?」

 星奏学院は全室冷暖房完備だが、ここ保健室は、さらにその上に保湿器が常備されているのだろう。
 低いファンの音が鳴り続けている。
 先生は心配そうに眉をひそめるとため息をついた。

「これから寒くなってくるし、受験勉強でみんな寝不足になるし。
 11月から2月までが、いわゆる私の『かき入れ時』なのよねえ」  
*...*...* Solvajg *...*...*
 俺はこめかみの奥に走る痛みをやり過ごすと、白い錠剤を2錠飲み干して、近くの回転椅子に座った。
 ……さて。どうするか。
 このまま理由を付けて真っ直ぐ自宅に帰るか。それとも、もう少しだけ様子を見るか。

 声はしないものの、どうも奥のベッドには人の気配がある。

 体調が悪いときは、そんなことも言ってもいられないのだろうが、
 俺はどうも、不特定多数の人間が横たわるベッドに身体を横たえるのも抵抗がある。

 まったく。こんな酷い頭痛も久しぶり、か。

 元来あまり丈夫ではない身体だった。
 幼い頃は1人だけ熱を出し、兄弟の皆にも伝染ると大変だから、と独り離れに寝かされたこともあった。

 保健の先生は、俺の頭痛の原因を受験勉強による寝不足、と片付けようとしていたけれど。
 俺の睡眠時間は今までとそれほど変わらない。

(やっぱり、アレ、が原因、ともいえなくもないか)

 俺は額に手を当てながら、昨日ひっきりなしに掛かってきた電話のことを考えた。

 今まで、俺の携帯の番号やアドレスを知りたがる輩は何人かいたが、
 余計なことを生む可能性のあるものはあらかじめ除外しておく方がいいだろう、と
 俺は、ほんの少しの人間にしか、それらの情報を知らせていなかった。

 それが、今回は凶と出たのだろう。
 学院で公開している自宅の電話に、後夜祭に日野と踊ったことに対する問い合わせが、10本以上もかかってきた。

 家の中央の廊下に置かれている受話器は、遠くにいても気づけるようにと最大の音に設定してある。
 夕食を中座しては応対に追われた俺に、祖母は苦々しい顔を向けた。

『まったく……。食事中に何事ですか。品のない! 梓馬さん、たいがいになさい』
『はい。ご迷惑をおかけしています』
『それにしても用件はなんなのですか?』
『たいしたことではありません。先日の学院の催し物について少し』
『日野さん、という人の名前が何度も挙がっていましたが』
『ええ』

 先日の後夜祭、日野と一緒に踊ったこと。
 これが、俺の親衛隊を名乗る女たちには辛抱ならないことだったらしい。
 ぎこちない挨拶のあと、彼女たちはおそるおそる日野の名を挙げる。
 挙げるやいなや、とたんに饒舌に語り出す。
 どんな仲なのか。付き合っているのか。付き合っているなら、それはいつからなのか。
 付き合っていないなら、なぜ彼女を相手に選んだのか。
 質問は途切れることなく続く。
 やれやれ。一体俺のどこに彼女たちへの報告義務があるっていうんだ。

 祖母は苦々しく唇をゆがめて、席を立つ。

『梓馬さん。受験生、という立場でありながら、学校の催し物にウツツを抜かしている場合ではありませんよ。
 あなたの受験する大学は経済学部か法学部と聞いております。なんでも学校で習っていない教科も出題される、とか』
『ご心配には及びませんよ、お祖母さま』

 自分で認めていることではあっても。
 自分以外の人間から告げられて、改めて考え込むこともある。

 俺が『経済学部』か。

 柚木家のレールに乗って、柚木の家の言うとおりに、人生を歩む。
 そのことに、疑問を持ったこともあったけれど。
 足掻くだけ無駄だと、俺はいつしか、今の状態に特に疑問も持つことを止めてしまった。

 だが……。

 秋になって。
 あいつとこうして3回、アンサンブルを組んだ今では、妙にあいつのことが気にかかる。
 ──── あいつは、音楽の世界に進むのだろうか?

「……っ!」

 キン、とキリで突くような痛みに、俺は顔をしかめた。

 家のこと。自分のこと。日野のこと。学院のこと。
 今まで秩序だった書庫のように、あるべきものがあるべき場所におさまっていたそれらは、
 最近は、急に自我を持ち出して、勝手に俺の頭の中を走り回る。
 そして走り終わったあとには、こうして必ず俺に頭痛を連れてくる。

「……まったく、参るね」



 人には告げたことはないが、3年の付き合いになる火原は、俺の様子になにかを感じ取っているらしい。
 この前のコンサートが終わったあとの昼休み、ともに食事を取っていた際、ひどく真面目そうな顔で俺に話しかけてきた。

『おれ、柚木はこのままじゃダメだと思うんだよね』
『ふふ。火原、どうしたんだい? いきなり』
『なんていうかさー』

 俺と同じメニューを頼んだ火原は、とうに すべての料理を平らげると、食べ足りない、とばかりに、今度はスイーツを手にしている。

『この前の文化祭のとき、柚木、生徒会の仕事、頼まれて、全部引き受けちゃってたでしょ?
 クラスのヤツら、みんなに平等に優しいしさ。……それじゃ柚木一人が大変になっちゃうよ?』
『そんなことはないよ。僕は大丈夫だから気にしないで』
『で、でも!』

 自分が管理できる情報のキャパシティ。心の持ちよう。
 俺自身に限界があるなんてそもそも考えたこともなかったし、認めたくもなかった。

 俺は表情を和らげて火原を見つめる。
 ……なんのためらいもなく心が許せる友人、というのはいいものだ。

『……ありがとう、火原』

 簡単に礼だけ言うと、それでもまだ不安なのか、火原は口を尖らせて俺を見上げた。
 口の端には生クリームの白い色が残っていて、余計に親友の顔を幼く見せている。

『柚木がそういうなら分かったけど……。
 だけど、柚木、何か悩みがあったら相談してね!おれ、ちゃんと聞くし、少しは頼りになると思うから!」

 親友は胸をピンと張ると、俺に笑顔を見せた。
 だが、強敵だと認めている相手に、わざわざ俺の弱いところを見せるのも趣味じゃないから、とても言えない。


 ──── いったい俺は、これから先、どうしたいんだろう。



「失礼しまーす。……あれ? 柚木先輩!?」

 カラカラと軽いドアの音に続いて、聞き慣れた声がする、と思ったら、そこには日野が1人、驚いた顔で俺のことを見ていた。
 先日の後夜祭で踊った時も思ったが、今、制服を着ているこいつは、またいっそう色が白くなったような気がする。
 それは見方を変えれば、青白くさえ見えて、俺は思わず声を荒げた。

「日野、どうしたんだ? 具合でも悪いのか、それとも、ケガ?」
「は、はい? いえ、あの……。私の友だちの乃亜ちゃんが今、そこで寝てるんです。
 その、昼休みからずっと休んでて、心配だったから」

 俺の剣幕に、日野はブンブンと顔の前で手を振った。

「えっと、柚木先輩こそ、具合が悪いんですか? 保健室で会うなんて……」
「いや。お前が悪いっていうんじゃないなら、いい」

 俺らしくなく大きな声を上げたことを少しでも遠くに押しやりたくて、俺は日野の質問にぶっきらぼうな返事を返す。
 日野はベッドに近寄り、まだ眠っている友人を確かめた後、俺の近くまでやってくると、恥ずかしそうに口を開いた。

「えへへ。嬉しいな。柚木先輩に心配してもらっちゃった」
「……もちろん心配するよ。ねえ、俺がお前の心配をしてはいけないの?」
「え……?」

 俺は日野の髪をつまみ上げると、口の端で笑う。

「お前が初めから弱っていたら、イジメ甲斐がなくてつまらないだろ?」
「な、なんだか、喜んでいいのか、悲しんだ方がいいのかわからない、です」
「ははっ」

 薬が効いてきたのか、あるいは、日野ののんきな顔を見ていたら気が落ち着いたのか。
 俺は、薄皮を剥ぐように、少しずつ、頭の中を引っ掻くような痛みが小さくなってきたのを感じていた。

「そう言えば、お前、第4コンの練習を始めているみたいだな」
「はい……。そうですね」
「俺は、俺の楽しみがまた始まった、ってところだぜ」
「はい? 楽しみ?」
「ああ。楽譜だ、メンバーだ、ってあたふたするお前を見ていられるからね」
「うう。またそうやって意地悪、言う……」

 日野は、本当にからかいやすい。
 こいつといると、自然に俺自身が伸びやかになっていく。
 祖母や、学院のみんな。火原とも、また少し違う。
 本当の自分をさらけ出せる心地よさがある。
 俺はふと昨日聴いた旋律を思い出した。

「それで。昨日はソルヴェイグを弾いていたみたいだけど?」
「はい! あのね、この前、その、テレビでN響が演奏してるのを見て。なんだか印象的な曲だなあ、って思ったんです」
「そう」
「激しくて、なんだか、切ない……。だけど、強さ、っていうのかな。私、第二楽章が好きです」
「曲の背景は知ってる?」

 香穂子は、時間を忘れたかのように、真っ直ぐな目で俺を見上げてくる。
 なに一つとして聞き漏らさないぞ、とても言いたげな真一文字の唇を見ていると、俺の方まで身が引き締まる気がする。

「この曲は故郷で恋人が帰るのを待ち続ける女の歌だ。
 何年も音沙汰のない恋人がいつか帰ってくる。そう、信じる歌なんだ」
「はい……」
「……無駄に前向きなんて、まるでどこかの誰かのようだな」
「も、もう……、柚木先輩が言おう、としていることはわかります」

 日野は軽く俺を睨んでくるが、笑みをこらえた唇は、そんな俺の言葉も俺特有の冗談だと知っているのだろう。

「初めはなんて前向きな歌だと思った。
 馬鹿馬鹿しい、と。なんの当てのないものを待つのに、人生を費やす女が愚かに思えた。だが……」

 今はその根拠のない自信がうらやましくさえ思える。


 考えてみれば、俺は手を伸ばす前に自分の中に柵を設けて、触れることさえ諦めていたのかもしれない。
 ピアノを止めた。それはお祖母さまの、柚木の家の方針だった。
 それでもなお、音楽科に進んだのは。

『高校は音楽科を専攻しても、大学は必ず柚木の家に従います』

 そう言ったのは自分だった。
 ──── 15歳の俺は、まだフルートを、音楽を手放したくなかったから。

「柚木先輩?」

 じゃあ、あの春から3年を経て18歳になった俺が、15の春と同じ岐路に立ったなら、何を求める?
 家の言うことに従って、素直に柚木のレールに乗るのか。
 自分の心の声に、再び耳を傾けてみるのか。

「そういえば、むやみに前向きなのはお前の専売特許だったな」
「むやみ、ですか?」

 俺の言葉を皮肉と捉えたのか、日野は一瞬考え込む表情を浮かべたあと、真っ直ぐに俺の目を見て笑った。

「そう、ですね……。で、でもね、春のコンクールの時は、不安もいっぱいあったんですよ?」
「ふうん。……今は?」
「……今は、柚木先輩も、火原先輩も。土浦くんも月森くんも。……みんな、近くにいてくれるから」

 だから、頑張れますよ?
 
 
 昨日日野が奏でていたソルヴェイグの旋律がよみがえる。
 そんな風にきっぱりと自分の気持ちを伝えられる日野を、俺はただ、眩しいと思った。
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