*...*...* Score *...*...*
 解けない問題を必死に解いている時みたい。頭の中がカッと熱くなる。
 このスケジュールじゃ、どうしたってムリ。時間的にムリ? 場所の問題?

(うわーーん。1曲分、どうしても間に合わないよ)

 私は数学Bの先生がカツカツと黒板にチョークを走らせる音を聞きながら、小さな付箋紙に書いた内容に思い切りバツをつけた。

 漢字って、読めないより読めた方がいい。
 英語だって、知らないより知ってた方が生きやすい。
 だけど、数学って?
 別に微積が解けなくても、コサインがわからなくても、自分の世界は変わらない、気がする。
 だから、というワケではないけれど、今日の私は数学の授業を捨てて自分のメモにかかりきりになっていた。

「ふふっ。どうしたの? 香穂さん」
「え? 加地くん?」
「百面相の君を見ているのは僕のこの上ない幸せだけれど。君がよければ、そのメモ書きを僕にも見せてくれる?」
「あ! あの、これ、失敗作なの……っ」
「いいからいいから」

 角を揃えて折ることが意味もなくクヤしくて、わざと斜めに折った紙を、加地くんは大きな手でふわりと持ち上げる。
 大きな、手。指も私より一関節分くらい長い。
 彼の柔らかな音色は、この長さ分の余裕なのかも。

「ふふ、香穂さん、第4コンサートはこういう戦略なの?」
「うん……。それが!」
「しーー。静かに。せっかくの密談だからね。先生の目は上手くごまかさなきゃ」

 加地くんも今日の数学私と同じく、放り出すことにしたのかな?
 ゴトゴトと机を近くに寄せると、私が折り曲げたメモを丁寧に開いた。

「あのね、だってね、コンサートが12月24日でしょ。それで、今日は12月1日、です、と」
「それで?」
「でね、選曲は冬海ちゃんとも相談して、『牧神』、『スケーターズワルツ』、それに『交響曲40番』にしたの」
「クリスマスらしい、いい選曲だね。なにが問題なの?」
「練習時間、が、足りない、の」

 授業中で大きな声が出せないことがもどかしくて、私は思い切り口を大きく開いて、だけど声は大きくしないで加地くんに訴える。

「欲が出ちゃって……。どうしても5人で演奏する『交響曲40番』を入れたくなったの。
 そうするとほら、自分の練習はともかく、2人練習やアンサンブル練習の時間が足りなくて」

 私は別のノートにメモってあったアンサンブルメンバーのスケジュール表を加地くんに広げた。
 縦が日付、横がメンバーになっている1ヶ月間のスケジュール。

 みんな、あたふたしている私に気を遣ってくれるのかな。
 5日学校に来るウチの、4日間は空けてくれているみたい。
 だけど、月森くん、土浦くん、志水くんに、火原先輩。それに柚木先輩、冬海ちゃん。加地くん。
 全員の都合が揃う日となると、3日に1度、が、せいぜいで。

 ううっ。改めて身体がぎゅっと締まる気がする。

 昨日夜の2時過ぎまで見ていた楽譜。
 あれを、全部。きちんと、ミスなく。
 大体1週間で弾きこなすこと、できるかな。
 アンサンブル練習ができないなら、絶対、絶対、ソロでミスのないレベルまでにしておかなくちゃいけないのに。

「ふふ、香穂さん落ち着いて」

 隣りの男の子は私の様子が面白くてたまらない、といった様子で身を乗り出してくる。

「今、スポーツ工学っていう学問も進歩しているけれど。
 それと同じように音楽も、工学の1つとして取り上げられ始めてるんだ。知ってた?」
「工、学?」
「そう。つまりね、いかに効率良く練習をするか、という学問。
 一途に練習に明け暮れる香穂さんも好きだけれど。
 こうやって複数のメンバーが集うアンサンブルなら、効率の良さを考慮した練習というのはとても大切だと思うよ」
「うん……」

 加地くんは、アンサンブルメンバーのスケジュール表に目をこらす。
 そして、日付とメンバーが交差したところに、大きく丸と三角、そして、四角のマークを付けた。

「12月中旬までは、練習になにも全員が揃うことはないんだよ。
 主旋律のヴァイオリンがいれば、あとはチェロでもヴィオラでもいい。管でもいい。
 各自でパート練習をやってもらう、と」

 マークの数は練習の数。
 私は目を見開く。
 こんなにたくさんの練習時間が取れるなら、なんとか、なる、のかな?

「うん、それで?」
「その部分練習を完全にしておいてもらって、12月後半からフルメンバーの練習に入る、と。これでどうかな?」
「わぁ……。すごいよ、加地くん!」

 どよんと目の前を覆っていた黒い幕が一気に取り払われたような気持ちになる。
 そっか。アンサンブルってアンサンブルメンバーが全員揃ってないと練習できない、って思ってたけど。
 こういうやり方なら、本当に何とかなりそうな気がしてくる。


「はっはっは〜。そうかそうか。では、なんでも私の知らない『すごい』解き方を知っている加地くんと、日野さん。
 この2人に例題を解いてもらおうか? うん?」

 知らないうちに声が大きくなっていたんだろう。
 気がついたら、数学の武藤先生とクラスメイト全員の視線は私と加地くんに集まっていた。
*...*...*
「クリスマス、か……。私、そのとき、なにしてるんだろう」

 第4回目のコンサートの開催日は、12月24日。クリスマスイブ。
 私はすっかり秋の色が濃くなった正門前までやってくると、大きく1つ伸びをした。

 その頃は、今感じているような先の見えない不安はどうなっているんだろう。

 そう……。一緒にアンサンブルを組んでくれるみんなだけ、じゃない。
 いつも優しい助言をくれる、金澤先生も王崎先輩も。
 そして、『学院を分割する』なんてことをいう吉羅理事長にも。
 私、すべての人に、堂々と胸を張って威張れるほどの演奏ができてるのかな?

 今、この瞬間の泣き出しそうな思いも、笑い話として思い出せているのかな。

 冬海ちゃんがライブアイアンを買って出てくれた楽譜を強く握りしめる。
 そうだ。昨日の夜、私、もう、くよくよしない、って決めたんだ。
 できることを、ちゃんと誠実に。1つ1つやっていく、って。

「『牧神』と、『40番』、それに『スケーターズ』か……」

 冬らしい曲。それに、いろいろな曲想の曲。なるべくたくさんのメンバーで演奏できる曲。
 そんな私のワガママを押し込んだ結果、気がつけば、すべての曲に柚木先輩が入っている。
 昨日の放課後、選曲の話をしたときは特に意見のようなモノはもらわなかったけど。
 考えてみれば柚木先輩は受験生だもの。
 3曲も乗るなんて本当は大変なのかもしれない。

「った。な、なに?」

 つんと後ろの髪を引っ張られ、かくんと首が後ろにのけぞる。誰だろ、こんなこと、するの……。
 ちょっと意地悪、だけど、優しい手つきは、もしかしたら、天羽ちゃんかな?

「もう、天羽ちゃんでしょ? ビックリしたよ〜」
「残念。俺だよ」
「は? はい? わ! 柚木先輩!!」

 ちょうど思い描いていたその人を目の前で捉えて、私はもっと強く楽譜を握りしめる。

 これは、その……。
 やっぱり3曲も演奏するのはムリだよ、って話なのかな。
 少しだけ身構えて柚木先輩を見上げる。
 だけど、意外にも先輩は私の後ろにいるファータの像に目をあてている。
 と思ったら、穏やかな視線はするすると私の顔に降ってきた。

「えっと、なんでしょう?」
「ねえ、お前は将来、音楽を専門的に学ぶつもりはあるの?」
「へ? えっと、将来、って……、大学で、ってことですか?」
「まあね」

 突拍子もない話に、指から力が抜ける。
 えっと、その、4週間先のコンサートじゃなくて、それから先。
 大学って言ったら、1年以上も先の話。
 1ヶ月先の未来の予定も立っていない私が、1年以上も先の話なんて、正直言って全然想像つかない。

 9ヶ月前、ファータと出会ったのが今でも信じられないように。
 1年後の私はファータと反対の存在、たとえばデビルのような子に出会ってるかもしれないもん。
 リリと出会って。
 こうして毎日のように音楽の妖精と会話をしている私は、今ならどんな不思議なことも信じられる気がする。

「どうなの?」
「今は……。なんだろ、クリスマスのコンサートのことで頭がいっぱいで、その」
「その?」
「ごめんなさい。全然考えていませんでした。あ、考えていないっていうのは、大学で音楽を学びたくないっていう話ではなくて」
「大体わかった。お前はもう少し自分の意見を端的にまとめる努力をした方がいいかもね」
「ううう……」

 本当にそうだ。
 今日の加地くんの計画もそう。今の私の受け答えもそう。
 もし加地くんや柚木先輩が今の私なら、コンクールの課題くらい、スルスルとこなしそうだよね。
 柚木先輩は楽しそうな笑みを浮かべると、私の返事に1人頷いている。

「そうか。じゃあ、準備しないといけないね。
 ……知ってる? 音大へ進学するためにはピアノができなければならないって。
 もし、音大で学ぶ気があるなら、今から少しずつ練習を始めた方がいい」
「はい……。分かってはいますけど、今は、全然余裕がない感じです」
「なにも今すぐ練習を始めるとは言ってないでしょう?
 コンクールが終わったら、俺が昔、使っていたピアノの楽譜をお前にやるよ。それで練習するといい」
「はい……」
「言っておくが、土浦とか? 他のヤツに教わりにいく必要はないから」

 あれ? 今、もしかして、すごく大切なことを聞いた気が、する。
 『俺が昔使っていたピアノの楽譜』?
 それって、すごくすごく重要なことなんじゃないかな。
 私ってば、結構楽譜に書き込みをしたりするし、端っことか折っちゃうことも多いし……。
 それを、どうして? わたしに『やる』? ってことは、私に『くれる』ってことだよね?

 柚木先輩は懐かしそうな顔をして話し続ける。

「ピアノのことは好きだったんだよ。子どもの頃に使っていた楽譜を今でも大切にとってあるくらいにはね」
「はい」
「俺がピアノを習っていたことがお前の役に立つのだったら、巡り合わせとしては悪くないだろう?」
「で、でも、待って……。あの」
「は?」
「やっぱり遠慮します!」
「それはまた、どうして?」
「だって、柚木先輩の大切な楽譜でしょう? そんな大切なものを私がもらうのは」
「まあ、楽譜としてはごくありふれたものだよ。俺にとっては感傷的な価値のあるものだけれど」

『端的にまとめる』
 さっきの柚木先輩の言葉が浮かんでくる。
 端的……。端的。えーっと。

「お返しが、できません!」
「は?」

 うう、今度はどうやら端的すぎたらしい。
 目の前の先輩は鳶色の目を丸くした。

「その、柚木先輩の大切な楽譜、っていうのもあるし、その、教えてもらったときのお礼、っていうのかな、
 ヴァイオリンを始めてから本当に時間があっという間で、バイトもしてなくて。
 お小遣いも、その、柚木先輩みたいに潤沢になくて!!」
「ははっ。お前ね、なにも人を引き合いに出さなくてもいいだろう?」

 柚木先輩は、私が握りしめている楽譜をそっと手に取った。




「──── 俺はね、毎日こんなに頑張っている日野さんになら、俺の楽譜を譲ってもいいって思ったの」
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