*...*...* Cheer *...*...*
 気持ちよく晴れた昼休み。
 乃亜ちゃんは、今週発売された雑誌を食い入るように見つめている。
 そんな親友の様子を須弥ちゃんはにこにこと眺めている。

 今月の特集は『彼と過ごすクリスマス』それに『2割増し、大きく見せるアイメイク』
 いいなあ、目が大きい須弥ちゃんが羨ましい。
 大きくって。それでいて、俯いているときは黒目が見えないくらい、睫毛も長い。
 長所、って、人に褒められて、認められて。
 自分もその事実を自覚したとき、初めて長所になるんじゃないかな、って思う。
 そうか、『自信を持つ』って今の須弥ちゃんのような状態なのかもしれない。

 ちょっとだけ目が細いのを気にしている乃亜ちゃんは、読みたい特集に全部目を通したのだろう。
 満足げに須弥ちゃんにお礼を言うと、私の方に顔を向ける。

「そうそう。そう言えば、香穂子、この前の模試、どうだった?」
「うん……。『沈んで、潜って』って感じ。特に数学がマズかったかなあ」
「あははっ。香穂子、それじゃ『浮上』してないよ?」

 須弥ちゃんは聞き役専門、って感じで、くすくすと片頬に笑みを浮かべて笑ってる。
 いいなあ、須弥ちゃん。英語、すごくできるんだもの。
 これだけは、どんなときも必ず良い点数が取れる、って教科があるのは強みだよね。

 この前の試験勉強でも思ったけれど。

 土浦くんだったら数学。加地くんだったら国語。月森くんだったら英語。
 そんな風に誰でも『この科目は得意だ』って胸を張って言える教科があるみたいだ。
 私のように、どの教科も取り立ててよいモノも悪いモノもない、っていうのはある意味、怖い。
 全教科、低空飛行だったら、結果を見るのにすごく勇気が必要な順位になっちゃうんだもの。

「そろそろまた進路調査票も出さなきゃいけないし。ユウウツだよね」

 乃亜ちゃんはイヤそうに眉をひそめた後、ツンツンと私と須弥ちゃんの袖を引っ張る。
 な、なになに?

「アタシさー、この前の模試、志望校、Cランクだったんだ」
「って、まだ高2だし、乃亜もこれからだよ。これから」

 須弥ちゃんは、慰め顔で相づちを打つ。
 私も深く頷く。
 わ、私だって、数学のヒドさが最後まで足を引っ張り続けて、大きな声では言えないけど、志望校はCランクだもんね。

「んーー。それがさ、自分のことも心配だけど、谷くんの結果が、Eランクで」
「E、って、Eって……。あれ、評価って、AからFまでだったっけ?」
「須弥ったら、ちがーう! 評価はEランクまでだよ。だから、オール0点でもEランク、ってこと。
 だから最近デートって言ったら、図書館ばっかり。ま、学生らしい、っていえば学生らしいんだけど」

 乃亜ちゃんは、はぁ、と盛大なため息をつく。
 釣られるように、私も、ため息。
 そうだ、私、ずっとヴァイオリンのことばっかり考えて、勉強のこと、まるで放置してるから……。
 『実力は2ヶ月後に結果が出てきますよ。
  今、成績が上がってないからと言って悩まないで。逆に今、成績が下がってないから、って調子に乗らないのよ?』
 って、HRで先生も言ってたっけ。

 今、私はほとんど勉強、してない。それは事実。
 結果は2ヶ月後。
 だとすると、年が明けた頃には私、谷くんと同じEランクになっているかもしれない、ってこと??

「日野、それに上条。ちょっと悪い。今、東雲、借りてもいいか? 古文で聞きたいことがあってさ」

 私たちの様子を少し離れたところで見ていた谷くんは、申し訳なさそうに私たちに目配せをすると、乃亜ちゃんの肩をツン、とつついた。

「谷くん、どうしたの? あ、そっか、聞きたいことあるって言われたの忘れてた。ごめんね、ちょっと話、聞いてくる!」
「いいよ〜。乃亜ちゃん、ゆっくりね」

 乃亜ちゃんは私の肩を一瞬ハグすると、ちょこちょこと谷くんの背中を追う。
 その足取りに、乃亜ちゃんがどれだけ谷くんを大事に思っているかを感じて、胸がきゅっと温かくなる。
 ──── いいなあ、乃亜ちゃん。
 お互いがお互いを大事、って思える人がいて。
 2人寄り添って問題集を見ている様子は、見ていてなんだか嬉しくなる。
 ふにゃりと笑ったまま、須弥ちゃんの方を振り返る。
 するとそこには、すごく真面目な表情を浮かべた須弥ちゃんがいた。
 伏せ目がちの目が黒々と冴え渡ってる。
 須弥ちゃん、また少し、キレイになった?

「ちょうどよかった。私、香穂子に話があるんだ」
「なあに? 須弥ちゃん、突然」
「音楽科と普通科って、本当に分かれちゃうの? 分割しちゃうの?」

 星奏学院が、音楽科と普通科で分割される。
 秋が始まったばかりの頃、吉羅さんが話していたこと。
 分割なんてしない。させない。
 そうならないように、って私たちは今、クリスマスのコンサートに向けて頑張っている。

 だけど、結果は分からない。

 願えば叶う。
 そう信じていても、練習中のちょっとしたミスで、くじけそうになるときがある。

 なんて言ったらいいかわからなくて押し黙っていると、須弥ちゃんはいたずらっ子のような可愛い笑顔になった。

「ふふ、言っちゃおう。わたしね、内田くんが好きなんだ」
「内田くんって……、あの月森くんと仲がいい、あの?」
「そう」

 須弥ちゃんは自分の中のもやもやを吐き出すように話し続ける。
 内田くんと一緒に踊った後夜祭のこと。
 真っ赤なバラのコサージュが綺麗だったこと。
 星奏学院分割の話。
 そうならないために、今、月森くんが頑張っていること。

「話してて思ったの。わたしや内田くんは、応援することしかできないけど……」
「ううん? そんな、それだけで嬉しいよ? ありがとう」
「──── 信じてるよ。わたしもね、内田くんも。
 香穂子が率いるアンサンブルが、あの石頭の理事長を言い負かしてくれるって」
*...*...*
 その日の放課後、私はヴァイオリンを手にぐるぐると校内のいろんなところに行っては、ぼんやりと人の流れを見ていた。

 本当はこんなことしてる時間がないのはわかってる。
 模試の結果も気になるし、それ以上に今度のコンサートの練習もある。譜読みもある。アンサンブル練習もある。
 今日の私はどこかおかしい。
 談笑する、普通科と音楽科の生徒たち。
 校舎の間を縫うようにして聞こえてくる楽器の音。
 いつもの見慣れた景色が、まるで初めて見る世界のように飛び込んでくる。

 昨日までは気づいてなかった。
 私が、今ここにいる光景は、もうあと、1年と3ヶ月しかないんだ。
 火原先輩や柚木先輩、3年生の先輩たちには、あと、3ヶ月しかない景色なんだ。

 ときおり吹く突風に頭が痛くなって、エントランスに向かう。
 今、ここで私が涙を落としたら、そのまま跳ね返ってきそうなほど、アールデコ調の床は鏡のようにぴかぴかに光っている。

「やあ、日野ちゃん、どうしたの」
「あ、火原先輩、それに柚木先輩!」

 私は目端に滲んだ温かいモノを指で強引に拭う。
 火原先輩はともかく、柚木先輩に見られたら、きっと、必ず、絶対、イヤミを言われるに決まってるもん。
 普段だったら、笑い飛ばせるけど、今日はちょっと、困るかも。

 でも、私の芝居は簡単にわかってしまったらしい。
 柚木先輩の優しそうな目元に一瞬鋭い影が走る。

「日野さん、どうかしたの? 譜面で、わからないところでもあったのかな?」
「いえ、柚木先輩、ありがとうございます。大丈夫です。ごめんなさい。ちょっと感情的になってたかも、です」

 火原先輩は、うんうんと何度も頷くと私と柚木先輩を等分に見つめている。

「あー。この時期いろいろ考えちゃうよね。だんだん寒くなるし、センチになるっていうか」
「はい。……その、別れるの、イヤだなあ、って思っちゃったんです。
 音楽科と普通科が2つに分かれるのもイヤだし、先輩の2人と離れるのもイヤだなあ、って」

 私は考え続ける。
 考えたって、時間が止まらないことも、人の気持ちが自分の思い通りにならないことも知ってる。
 乃亜ちゃんと須弥ちゃんが、幸せになれますように。
 祈ることはできるけれど、結果は彼女たちと、それに、谷くん、内田くんの手に握られてるんだもの。

 火原先輩と柚木先輩だって。
 私が今流れていく時間を止める力でもない限り、先輩たちはあと数ヶ月でこの学院から卒業していく。
 私の悩みは、悩んだからといって答えが見つかるモノじゃない。
 わかっているけど。
 ──── だけど、願いたくなることだってある。

『……本当に、馬鹿だな。お前は』
「は、はい!?」

 ふいに耳元で声がする。
 聞き間違いかと思って顔を上げると、そこには数秒前と同じ表情の柚木先輩がいた。

(私の、聞き間違い……?)

 火原先輩は困ったように頭の後ろに手を当てて、考え込んでいる。

「そっか。そりゃ、そうだよね。うーん、どうしたらいいんだろう。香穂ちゃんを元気づける方法、か」
「ごめんなさい! 2年生の私より、3年生の火原先輩や柚木先輩の方がずっと卒業までの時間が短いんだもの。
 本当は私が先輩たちを励まさなきゃいけないのに」

 火原先輩は、口を尖らせて何か考え込んでいる。
 そして、突然パチンと指を鳴らすと、柚木先輩に目で合図を送った。

「そうだ。おれにできること思いついた。ね、柚木、やってみようよ?」
「え? もしかして、午後の授業の続きかい?」
「そ。さっすが柚木、カンがいいね」
「ふふ。君とは長い付き合いだから」

 2人の先輩は、手際よく相棒の楽器を取り出す。
 心持ち、足を広げる姿勢。
 手を伸ばしたらヤケドしそうなほどの空気に周囲の人間も足を止める。

「音楽科3年火原和樹、と、えーと、柚木梓馬。きみにエールを送ります」
「僕も、日野さんに早く元気になってもらいたいからね。乗らせてもらうよ」
「火原先輩、柚木、先輩……」

 見ているだけで伝わってくる気迫が2人の先輩の中にある。
 私は胸の前で両手を握ると、じっと先輩たちの音を待った。

 以前火原先輩から聞いたことがある、火原先輩と柚木先輩が初めて合奏した曲。
 アルビノーニのアダージョの旋律が緩やかに始まる。

 本当ならどっしりとした、重厚感のある旋律が持ち味のこの曲が、ときどき入る柚木先輩のフルートで軽やかな印象に変わっている。
 その音を受けて、火原先輩の音もどんどん弾んで明るくなる。
 息の合った様子は、見ていて心が痛くなる。
 そしてその痛みはだんだん温かく、優しくなって教えてくれる。

 あと、3ヶ月、じゃないんだ。
 2年と9ヶ月、ともに過ごしたから、今があるんだ、って。

 いつのまにかできていた、何重もの人の輪。
 穏やかな旋律が止んだあと、割れるような拍手が広がった。

「おれも、もちろん、柚木も。精一杯きみを応援するよ。きみが笑顔になれるように」
「ありがとう、ございます……。胸がいっぱいで、私……」

 唇がもどかしいまでに動いてくれない。
 こういうときに、ありがとうって伝えなくて、いつ伝えるの! って自分を宥めすかしても、
 私の口元は泣くのをこらえるのに精一杯らしい。
 その代わりになるように、と願いながら一生懸命手を叩く。
 赤くなっても、痛くなっても、思いが伝わるなら、いいんだもん。

 私たちの周囲にいた観客は、熱に浮かされたような潤んだ目をして、それぞれの場所に戻っていく。
 唇の震えはようやく落ち着いてきたみたい。
 改めてお礼を言おうと2人の先輩の一歩前に進むと、そこには4つの優しげな目があった。





「ね、頑張ろう? 日野ちゃん。おれも頑張るからさ。
 おれのトランペットで良ければ、元気出せー、落ち込むなーっていつでも思い込めて、吹くから」
「そうだよ。いつでも、僕たちが君のそばにいることを忘れないで」
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