「なんだ、香穂。今日は打って変わってご機嫌だな。なにかいいことでもあったのか?」
「ふふ、香穂さんには笑顔が1番似合うよね。音も柔らかくなったみたいだし」
「あ、ありがとう……。そっか、ちょっとの間、心配かけちゃったよね?」
 
 演奏を終えた加地くん、土浦くんと笑顔を交わす。
 今日は3年生の先輩たちは進路説明会があるとかで、火原先輩を除いた3人で『グリーンスリーブス』を弾いた。
 物悲しい曲想は、今の2人の気分にぴったりと寄り添ったらしい。
 土浦くんのピアノは冴え冴えと美しく。
 追いかける加地くんは、ヴァイオリンを引き立てながらピアノを追いかける。
 後半は、たくさんの観客が集まってくれた。
 
 ──── 穏やかな、穏やかな気持ちが自分の中に満ちてくる。
 認めるのが恥ずかしいけれど、その理由はやっぱり、柚木先輩の噂話が、間違いだとわかったからだと思う。
 『間違い』だったことが、どうしてこんなに嬉しいのか、と考えて。
 その先の自分の想いに赤面する。
 
 好きとか、キライとか。今は、そんなこと考えてちゃ、ダメだよね。
 
 大きな会場を押さえてくれた、天羽ちゃん。それに、いつも優しいメールをくれる王崎先輩。
 毎日のように音合わせをしてくれる、仲間たち。
 学院を分割したくない、って応援してくれる、みんな。
 
(今できることを精一杯やったら、柚木先輩も褒めてくれるかな。頑張ったなって)
 
「っていうか、お前、いつまで百面相してるんだよ。見てるこっちが気恥ずかしいぜ?」
「ねえ、土浦。余計なことを言わないでくれる? 僕はどんな香穂さんだって目に焼き付けておきたいのに」
 
 その声にあわてて2人を見ると、さっきの演奏の余韻が残っているのか、気持ちのいい顔で笑っている。
 
 このまま、行けば。
 仲間の気持ちが1つになれば。
 吉羅さんのいう、音楽科、普通科の分割の話も、なかったことにできるかな。  
*...*...* Welcome (2/2) *...*...*
 1時間後に、もう1度、アンサンブル練習をしよう。
 それまでは各自1人練習を頑張ろうね、と言って、土浦くん、加地くんとはいったん別行動を取る。
 加地くんは自分の演奏に納得いかないのか、半ば強引に練習室に土浦くんを連れて行った。
 
(3年生の先輩たちの進路説明会、終わったかな……)
 
 昼休み、5時からの最後の練習には乗れるかも、って火原先輩が言っていたことを思い出す。
 だとしたら、……柚木先輩にも会えるかもしれない。
 そう思うだけで、気持ちがふっと優しくなる。
 
 柚木先輩から具体的な意思表示があったワケじゃないけれど。
 もっと言えば、私はただの手間のかかる後輩の1人なのだろうけど。
 まっすぐ、柚木先輩を見ていられることが、こんなに嬉しいなんて。
 
 さっきの『グリーンスリーブス』の旋律を口ずさみながら、屋上へと向かう。
 私が歌うと、オリジナルの根底にある切なさが転調して明るい曲になるから少し可笑しい。
 
「あれ……? 先客、かな?」
 
 重い鉄製のドアを開けようとして、私は細い隙間から流れる旋律に気づいた。
 このメロディは、『ハンガリー舞曲第5番』。3回目のコンサートで弾いた曲だ。
 民族音楽をアレンジしてこの曲を作ったブラームスは、この曲に自分のものであることを示す作品番号を付けなかった。
 だけど、曲の素晴らしさは損なわれることなく、200年近く経った異国の街でも、こうして弾き継がれてる。
 (ねえ、素晴らしいことだと思わない?)
 曲の背景を教えてくれた加地くんの声が、耳に焼き付いている。
 
 私は音を立てないようにそっとドアを閉めると、演奏者の邪魔をしないようにそのままドアの前に立った。
 曲に入り込んでいるのだろう。
 すっきりと姿勢の良い背中は、しなやかに曲がる。背中を覆う紫の髪も一緒に揺れる。
 
 ──── 私の、柚木先輩に対する想い。
 融資元。婚約者。特別な存在。
 あの噂にすごく動揺した私は、やっぱりこの人のことをとても大切に思っているという証拠なのだろう。
 だけど。
 こうして一緒の時を過ごせること。一緒の曲を弾いて、一緒に感想を言い合えること。
 それこそが、どんなことにも代え難い『絆』なんじゃないかな……。
 
 多くの人は最後の旋律を思い切り引き延ばすこの曲を、柚木先輩は余韻を残しながらもあっさりと弾き終えると、振り返ることなく口を開いた。
 
「日野、今日はずいぶんおとなしいな。どうしたの?」
「は、はい!? どうして……?」
「俺は、お前についてはなんとなくわかるんだよ。
 お前も物好きだな。この寒空の下、演奏が終わるまで待っているなんて」
「ううん? 聴きたかったからいいんです。ハンガリー舞曲、ほんの少し前のことなのに、3コンが懐かしいです」
「『天才は集まる』。……ブラームスの周りには、ベートーヴェン、シューマン、ヨハン・シュトラウス。
 ……知ってた? ハンガリー舞曲はエジソンの蓄音機で初めて録音された曲なんだぜ?」
「そうなんですか?」
「すべての知識は繋がっている。そうやって考えると学ぶことが楽しくなるだろう?」
 
 柚木先輩はカツカツと私の方に近づくと風上に立った。
 初冬の風が遮られ、身体が少しずつ温かくなる。
 
「……秋から冬と、この短い間に本当にいろいろなことがあったな。
 本気で考えなければならないことも出てきたしね。……そういう意味で今は少し気忙しい」
 
 今日の柚木先輩は、今まで溜めていた勘定を吐き出すかのように話し始めた。
 こんな饒舌な先輩を見るのは初めてかもしれない。
 私は、2人練習を終えたあとの注意を聞くような思いで神経を集中させた。
 
「受験生であっても、それでも時間の合間を縫って、俺はこうしてフルートを吹いているわけだけど。
 俺にとってはフルートを吹いているときが1番意味のある時間だ。
 正直、フルートなしではいられない。というよりフルートを吹かない自分を想像できない」
「はい……」
「……ねえ。お前は、アンデルセンの『赤い靴』っていう童話を知ってる?」
「『赤い靴』、ですか?」
「そう。いったん履いたら、死ぬまで踊り続けなけなければならないという、呪いのかかった赤い靴の話」
 
 突然話が飛んだような、それでいて、真剣な目の色に、私は記憶の中にある『赤い靴』の表紙を思い浮かべた。
*...*...*
 幼い頃、『文学少女だったのよ?』と恥ずかしそうにいっていた母は、毎晩3冊の本の『読み聞かせ』をしてくれた。
 小さい頃って、同じ言葉を同じ息づかいで聞かされると安心するのかな。
 どうしてあんなに何度も同じ本を読み続けたのか、今になっては不思議なくらい。
 
 お兄ちゃんが好きな本は『ピーマンマン』シリーズ。お姉ちゃんはウサギが主人公のワンピースのお話。
 そして私がいつも選んだのは、この『赤い靴』の本だった。
 
『あんた、よく気持ち悪くないわね。切り取った足と赤い靴だけがずっと踊り続けてるのよ?
 あの絵、ってすごくリアルで苦手だわ』
 
 10年以上経った今でも、お姉ちゃんは『赤い靴』の話をすると顔をしかめる。
 
 踊り続けた主人公、カーレン。
 切られてもなお、踊り続ける足。赤い靴。
 やがて罪を許されて天に召されていくカーレンの穏やかな死に顔。
 絵が素敵だったからかな。
 その顔は、幼い頃の私に死は怖いものじゃない、って教えてくれた。
 
「ふぅん。知ってるなら話は早い、か。……音楽も、『赤い靴』に似たところがある」
「『赤い靴』と『音楽』が、似ている……?」
「芸事っていうのは、いったん足を踏み入れたら、その魅力から逃れることは難しい。
 バーター(barter)、つまり、取り引きなんだ。過去の音楽家然り、今、活躍している音楽家もまた然り。
 音楽を極めるために、人は大切なものを差し出す。それが仲間だったり、恋人だったり。命だったりもする」
 
 そうだ。
 主人公のカーレンは、赤い靴の美しさに引き寄せられる代わりに、不幸を引き受けた。
 養母の葬式に参列できず。村中の非難を浴びて、それでも踊り続けるしかなくて。
 最後は自分の足まで差し出した。
 人は、カーレンのことを不幸な女と嗤うだろう。
 
 だけど、そこで私はわからなくなる。
 あの幸せそうな死に顔は、カーレン自身は自分のことを不幸だとは思ってなかったのかもしれない。
 もしかしたら、平凡に生きた誰よりも幸せだったんじゃないか、なんて。
 
 考え込む私に、目の前の人は真剣な眼差しで聞いてくる。
 
「お前ってさ、なんのために音楽をやってるの?」
「えっと……。そうですね。今は、学院が分離しなくてすむように、って思っています。
 どんなことも頑張れば、可能性があるって思うから」
「そんな目の前に掲げられた目標じゃなくて。俺は少し先の話を聞いてるんだよ」
「先の話、ですか」
「そう。……たとえば学院を卒業してからどうするか、とかね。お前の言葉が聞きたいの」
「……言葉、ですか。……私は……」
 
 思わずこくんと息を呑む。
 未来のことは本当にわからない。
 1年前の私はヴァイオリンに触れたこともない子だったんだもの。
 
 ──── だけど。
 音楽は、美しい。
 音楽は、素晴らしい。
 そうと知ってしまった今、音楽から離れることは、もう、できない。
 
「私は、続けます。これからも」
「……そう」
「あ、あの! 聞いてもいいですか? 柚木先輩は? 音楽は、どうするんでしょう?」
 
 ずっと聞きたかったこと。だけど聞けなかったこと。
 音楽の道へ進むことを誰よりも望んでいる人。
 だけど、本人以外の大人の意志が働く世界では、私たち未成年はとても無力だ、って思う。
 
 でも、もし、柚木先輩の願いが叶うなら。
 その決断は、きっと私だけじゃない。
 アンサンブルメンバー全員の喜びに変わる気がする。
 
「──── 突き抜けた先に、光溢れる場所がある。
 俺は、そう信じたいね。信じないことにはやっていけないだろう?」
 
 先輩は目を閉じて、夕焼けのキレイな空に顔を向けている。
 そうすることで、先輩のいう光を見つけたいと思ってるかのように。
 身体を堅くして見上げれば、そこには微かに震えている先輩の睫が見えた。
 
「お前もこれから音楽をやっていくわけか。
 だとしたら……。呪われた者たちの世界へようこそ。歓迎するよ」
 
 意地悪な笑みとともにそう言われて、一瞬息を飲む。
 
 まだまだ理解したとはとても言えない、音楽の世界。
 今は、苦しみよりも楽しみ、喜びのようなものを強く感じているこの世界は、
 実は1度履いたら2度と脱ぐことが叶わない、赤い靴を履くようなものなのかな?
 
「ふふ。なんて顔をしているの。心配することはないぜ。俺も一緒なんだから」
「本当ですか? ……よかった……」
 
 
 
 2人で赤い靴を履くってどんな感じなんだろう。
 後夜祭で2人で踊ったときのことを思い出す。
 柚木先輩の腕を背に感じながら踊るのは、暖かくて、気持ちよくて。
 最初聞こえてきた悪口も、やがて真空の世界のように何も聞こえなくなった。
 
 ──── そんな風に、2人でなら、乗り越えていける?
 
『心配することはないぜ。俺も一緒なんだから』
 
 不安はいっぱいある。
 あと少しに迫ったクリスマスコンサート。ヴァイオリンの実力。人と音を合わせる難しさ。
 でも、春からの私をずっと見てきてくれたこの人がいるなら、私はまだ頑張れる。
 
 柚木先輩は私の緩んだ頬を見逃さなかったらしい。
 私の頬の肉を摘みながら笑う。
 
 
 
 
「お前はそうやって、俺のそばで笑っていればいいんだよ」
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