*...*...* Magic 3 *...*...*
 夕方の練習室。
 明日からは中間試験が始まるからかな。
 放課後のグラウンドからは いつもの運動部の声は聞こえず、あたりは静寂が押し寄せてくる。
 夕陽の中にふわふわ浮かんでいる塵は、金色の粉をまき散らしたように輝いて見えた。

「よしっ。も、もう、大丈夫かな……?」

 私は手首に巻き付いていたギブスを、ラッピングを解くときのようにそっと開いた。
 使わなくなった身体、ってどんどん機能が衰えていくのよ。本当よ?
 何度もそう言っていた病院の看護婦さん。
 だけど、たった、1週間とちょっと、だもの。きっと大丈夫に決まってる。

「これ……、私の手なの?」

 そう言い聞かせて取ったギブスの中には、一瞬じゃ自分の手首とは気づかないような、枯れ枝みたいな細い棒が乗っかっていた。

 ── そう、あの日から10日経ったんだ。

 うっかり階段を踏み外して転げ落ちた私は、そのあと吉羅さんに乗せてもらって病院に行った。
 診察結果は、右手首の手関節捻挫。
 ほかの筋に特に損傷はなくて、ま2週間程度安静にしていれば大丈夫でしょう、という話だった。
 診断結果は、自分の感じていた痛みよりずっと軽くて ほっとした。
 そのこと自体はすごく良かった、って思う。
 だけど。そのあと、が、良くなかった。

『安静に』っていうのはお医者さんの常套句で、お店に行ったときの、『いらっしゃいませ』と同じ挨拶みたいなものだ、って、
 勝手なことを思っていたけど。
 自分のことについてはなにもかも自信たっぷりな衛藤くんなのに、すごく心配性な一面があるんだ、ってこのとき知った。
 この1週間、私のことの、ありとあらゆることを思いつく。

 その……。ヴァイオリンに関すること、だとか、その、授業のノートはどうする、だとか。
 学校に関することなら、まだいい。私のこと、考えてくれてるんだ、って嬉しくなるもの。
 だ、だけど、そ、その……。

『って香穂子、あんた、その手で着替えってどうやってやってるんだ?』
『は、はい? え、っと……』
『手伝いが必要なら言ってくれてもいいけど』

 これ以上ないくらい赤い顔をしていう衛藤くんに、私は自分の着替えてるところを見られたような恥ずかしさを感じたっけ……。

 けど、もう、きっと、平気だよね。
 そっとグーを作ってパーを作ってみる。
 指は動く、みたい。
 手首をぐるぐると回す。── うん。痛くない。
 これれなら弓を持つくらい、ワケない。弓なんてそんなに重くもないし。
 私はそっと練習室を見渡す。
 大丈夫。誰もいない。

『あと、2日、ムリするなよ。練習なんかするな』

 心配して声をかけてくれる衛藤くんの気持ちは嬉しかったけど……。
 それに、練習したら、怒るだろうな、ってこともわかっていたんだけど。
 正直私には焦りもあった、ん、だと思う。
 だって、去年の今、リリと出会ってから。
 こんな10日間もヴァイオリンに触れなかったことなんて1度もないんだもの。

 そっと弓を持つ。あれ? この子ってこんなに重かったっけ……?
 ヴァイオリンを肩に乗せ、弓を引く。
 急に捻ったからだろう。手首からは鈍い痛みが広がる。

(大丈夫……。久しぶりだから、だもん)

 手首って、考えてみれば、こんな風に曲がるんだ。直角以上に曲がる。
 そうだ。月森くんが演奏を始めるとき、両手を組んでいたわるようにゆっくりと回していたのを思い出す。

 どうして、こんなに痛むんだろう。 ちゃんとウォーミングアップはしたのに。
 
 まだ、完全に治ってないから? 2日ってそんなに大事なの?

「……っ!」

 強引に手首を翻す。
 そのとき、練習室のドアに人影が差し込んだ。
*...*...*
「あんた、なにしてんだよ! まだドクターストップなんだろ?」
「衛藤くん……? どうして?」
「バレバレ。あんたケータイの電源切ってただろ?」

 私は首をかしげる。
 えっと、ケータイの電源切ってたから、ってどうして、私がここにいる、ってことにつながるんだろ? わからない。
 衛藤くんはあきれたように、ふーっと深く息を吐いた。

「なーに、不思議がってるの? 簡単だろ?
 電源を切るってことは、俺に居場所を知られたくない、ってこと。
 知られたくない、ってことは、なにか悪さをしてるってこと。
 悪さは何か、って考えたら、練習室くらいしか思いつかないだろ?」
「……だって、弾けないんだよ? 全然、弾けなくなってるの」

 さっき手首に感じた痛みが、さわさわと全身に広がっていく。
 私の声はかすれて、泣き声になった。

「ヴァイオリン、全然触ってなくて。他の人の、耳につく音全部が素敵に思えてきて。
 自分は全然前に進んでない、って。ううん。進むどころか、ずっとずっと後退してる、って」
「香穂子、落ち着けって!」

 ああ。もう、自分でなに言ってるかわからない。
 まだ新入生の衛藤くんに、私、なに甘えたようなことばかり言ってるんだろう。
 衛藤くんは私のヴァイオリンを取り上げると、じっと正面を見据えた。

「あと1週間もしないうちにドクターストップも解けるだろ? それまで待てって」
「え、衛藤くんにはわからないんだよ。こんな不安な気持ち」

 半分投げやりな気持ちで、衛藤くんの胸を叩こうとして、その手は彼の手の中に納まる。

「や、離して」
「やだね。……あんたが、もう少しだけヴァイオリン弾くの辛抱する、って言うまで、離さない」

 悔しくなって、もう片方の手で押しのよけようとしたら、今度はその手も握られる。
 握られた両手。
 私の手首を軽く一周してもなお余る指の関節。
 衛藤くんってこんな大きな手をしてるんだ。

 ケガをした右手を持つ指は優しい。
 2つも下の衛藤くんに、こんな配慮ができるのに。私ってなんなんだろう。
 ちょっと練習できなかったから、って自棄みたいに、衛藤くんに当たって。

 怒りたいのか泣きたいのか、わからない。
 怒りたい相手は衛藤くん? それとも私?
 泣きたいのは、痛みのせい? それとも、練習が自分の思い通りにならないから? それとも、衛藤くんが優しすぎるから?
 ワケがわからないまま衛藤くんをにらんでいると、不意に温かい唇が落ちてきた。
*...*...*
「……悪い。怒ってるあんたがなんかすごく綺麗でさ。
 それにこれ以上駄々こねられると、俺も、アンタの右手首、もっと強く持たなきゃいけなくなるだろ? それは避けたかったし」

 手首をつかんでいた手は、今は、私の背中を包んでいる。
 ぽんぽん、とリズムよくさする手に、気持ちが少しずつ落ち着いていく。
 衛藤くんは耳元に注ぎ込むように一言一言ゆっくりと話し始めた。

「あんたの実力は、たかが1週間や2週間練習しなかったからって言って衰えるモノじゃないこと、自分でもよくわかってるだろ?」
「そんなこと、ない……」
「無理、する必要ない。俺がちゃんとフォローしてやる。あんたが練習できなかった分」
「だって! だって、不安だもの」
「なに? まだあれこれ言うつもり? ふぅん……。言い訳する口は ふさぐことに決めた」

 飛び出してくる言葉はすごくぶっきらぼうなのに、落ちてくる唇はとても甘くて、怖くなる。
 どうしよう。衛藤くんのキスは、身体の力が抜けてくる魔法みたいだ。
 ── 私、このまま、立ってること、できるかな……。

「わかった? 明日一緒に病院に行ってやる。ドクターストップが解けた後、思い切り弾こうぜ? 約束」

 衛藤くんは、最後にそっと私の唇を舐めると顔を離して笑った。

「……私、初めてだったのに」

 もっとキスって、ワクワクしてソワソワして、そのあと、甘い気持ちになる特別な行為だって思ってたのに。
 そ、それに、乃亜ちゃんも言ってたもの。
 キスを待つまでがすごく楽しかった、って。こうやって女の子はキレイになっていくんだ、って。
 実際、内田くんと一緒に過ごしている乃亜ちゃんは、毎日会っている私でさえ見とれるほど美しくなった。
 だけど、私、全然そんな準備、できなかったよ……。

 衛藤くんの顔を見上げる。
 まるでエール交換のような、そっけなさに、却って不安になる。
 ど、どうしよう。今さら顔赤くして、どうするの、私ーーー。

「へぇ。香穂子ってオクテだな。キス、初めてだったんだ」

 衛藤くんは何度もうなずくと、今頃になって頬を朱くしている。
 こ、この顔は、絶対絶対、冷やかしてる顔に決まってる。
 春の初めのコンミス。あのときの緊張した顔を今になっても笑い話にする、イジワルな人だもの。
 私は 口をとがらせて目の前の人をにらみつけた。

「うう、からかってるでしょう?」
「いや、別に。むしろ良かったって思ってるけど?」
「そ、そうなの?」




「俺は、ずっとあんたの1番になりたいって思ってたよ」
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