「んーー。よく寝た。おはよ、母さん」
「あら、葵さん、おはよう。今日も早いのね」
「……まあね、なんとなく」  
*...*...* Bridge *...*...*
 夏の影が少しずつ薄くなる季節。
 母さんが立っているキッチンには、一面に柔らかな光が溢れている。
 今日は父さんの事務所の顔を出さなくてもいい日なのだろう。

「葵さん、早く朝ご飯食べちゃいなさい」

 母さんはいつもより優しい顔をして、僕の前にいそいそと料理を運んできた。

「……って、母さん、これ」
「ふふ、麦とろご飯。あとは漬け物各種と、だし巻き卵。焼き魚。
 今日は気合いを入れて、料亭っぽくしてみたのよ? どう?」
「ふぅん……。昨日、また父さん、飲み過ぎたの?」
「あら? 葵さんはなんでもお見通しなのね。あとでパパにも報告しなきゃ」

 茶碗の中には、麦を混ぜたご飯の上に、ふわりと乗った、乳白色の『とろろ』。
 その上にはちんまりと うずら卵の黄身がうずくまっている。

 以前、2日酔いで食欲がない、と言っていた父さんにこのメニューを出したところ、すごく調子が良かったから。
 ということで、最近は父さんが飲み過ぎた翌日はこのメニューは加地家の定番になっている。

 だけど、本当のことを言えば、僕はこのメニューがあまり好きじゃない。
 食べたあと、どんなに口をすすいでも、中がスッキリしない気がする。
 もっともそんなこと、せっかく作ってくれた母さんが可哀相だから、伝える気はないけど。

 ダイニングのTVは、臨時国会の予算編成について与野党が揉めている、なんてのんきなニュースを流している。

「いただきます。……ふぅん。今期は野党も頑張ってるみたいだね」
「そうねえ。人の気持ちなんて振り子みたいなものよ。ほとんどの人はね」
「は?」
「減税する、って言えばこっちの政党。手当が出る、って言えばこっちの政党。ふふ、みんな、日和見よね〜。私もだけど」
「ははっ。父さんには悪いけど、同感」

 ときどき、母さんは父さんが聞いたら目を剥きそうなことをさらりと言う。
 僕も母さんの考えが民意を示してることもある、って感じることも多い。
 みんな、誰でも自分が可愛い。
 政治家や国会などの存在を感じることなく過ごせる日々。
 そんなのを『平穏な毎日』って言うんじゃないかな。

 母さんは、遅く起きてくる父さんと一緒に朝食を摂るつもりなのだろう。
 2人分のお茶を淹れると、僕の正面の椅子に腰を下ろした。

「ふふ。それにしても良かった」
「え? なにが?」
「葵さんが、新しい学校に馴染んでくれたみたいで」
「いきなり、なに言ってるの?」
「葵さん、よく顔を見せて?」
「は? な、なに!?」

 母さんはぐっと僕に顔を近づけてくる。
 幼い頃はともかく、中学に入ってから、こんなに母さんと顔を近づけることだって稀で。
 僕は母さんが近づいてきた分だけ、背中を反らせる。
 その格好がおかしい、と、母さんはひとしきり笑うと、ふっと目鼻の位置を元に戻してお茶をすすった。

「器用な葵さんのことだから大丈夫だとは思ってたけど、一応私は葵さんの親だから。
 これでもちゃんと心配してるの。学校、楽しんでいるかしら、とか、友だち、できたかしら、とか」
「そうなんだ」
「ふふ、お母さん、エラいでしょ? 褒めてくれる?」
「……ありがと。母さん。大丈夫だよ、僕」

 『一応』、なんて謙遜する母さんがなんだかおかしい。
 母さんが、僕をずいぶん若い頃に産んだこと。
 その上、性格的にもずいぶん頼りないこと。
 諸々のことが起因して、最近は僕が母さんの心配をすることも多かったけど。

 こういう話を聞くと、ふっと心が柔らかくなる。
 他の家庭を知らないから、比べようがないけれど。
 加地家の1番素敵なところを述べよと言われたら僕は、個人の意見を尊重してくれるところ、って答えるだろうな。

「あーー。葵さん、こんな時間! ほら、早く支度していらっしゃい!」
「了解。ごちそうさま」
「ちゃんとチョコレート味の歯磨き粉で歯、磨くのよ〜」

 背中に声が降ってくる。
 ってどうして母さん、昨日僕が買ったばかりの歯磨き粉のことを知っているんだろう。
*...*...*
 星奏学院の正門前に着くと、僕は敬虔な儀式のように、右手に張り付いた時計の長針に目をやる。
 7時10分。
 夏の喧噪が落ち着いたこの季節の朝は、昨日やっと手が届くようになった空をさらに高く遠くする。

(日野さん……)

 君に会いたくて。君の音が聴きたくて転校してきて1ヶ月。
 才能ある人の周りには自然と同等以上の人間が集まるのだろう。
 日野さんは、ソロを頑張っていた春から、今度は数人と演奏をするアンサンブルに取り組み始めたらしい。
 先週、教会で聴いた、『パッヘルベルのカノン』は、彼女の雰囲気にとても似合っていたと思う。
 初めて彼女の演奏を公園で聴いたときには、これ以上の清純な音はない、と思った。
 むしろ、アンサンブル、というのは彼女の音の良さを殺してしまうことになりかねない、とさえ思っていた。

 なのに……。

 教会の荘厳な空気とともに流れてきた日野さんの音は、僕の想像を超えて美しかったと思う。
 彼女を彩るように、また助けるように流れる志水くん、という1年の後輩も。
 彼女をリードするように歌う月森のヴァイオリンも。

 僕はこの夏、彼女の何を見て、何を聴いて、知ったつもりになってたんだろう。

 僕の足は忠実に、今日も僕を森の広場へ連れて行く。
 晴れた日の朝、日野さんが森の広場で練習してる、という話を聞いたのは、
 教会でのコンサートのあと、火原さんが彼女に賛辞を送っているときだった。

『香穂ちゃん。毎朝頑張ったかいがあったね。すごく良かったよ』

 彼女がどこで練習しているのか。どんな時間帯に練習しているのか。
 直接尋ねることも、火原さんに聞くこともシャクに触った。

 その日から僕は母さんが驚くほど早く起きると、学院中を探して。
 やっと見つけて、今日で3日目。
 森の広場の一番奥。ひょうたん池と言われている小さな池のさらに奥。
 木々の陰で、彼女はヴァイオリンを愛おしむような優しげな表情を浮かべて音を奏でていた。

(──── いた!)

 中世に描かれた1枚の絵のような光景に、僕が入り込むのは無粋な行為だ。
 僕は彼女の背後にある木の根元に腰掛けると、ゆっくりと腰を下ろして目を閉じた。

 母さんのこと。父さんのこと。友だち。昔の学校のこと。
 初めてヴァイオリンの旋律を美しいと思った幼い頃。
 理想の音に追いつけない自分。葛藤。
 こんな思いをするだけの音楽なら、自分から手放してしまえ。そう思った春。揶揄された日々。

『ヴィオラ? あんなの、ヴァイオリンを弾きこなせない落伍者がやる楽器だろ?』

 音楽と向き合っているときの僕は、けっして幸せな思い出が多い、とは言えないはずなのに。
 どうしてだろう。
 日野さんの音を聴いていると、僕の中の汚い感情はすべて消え去り、暖かい気持ちだけが大きく、鮮明になっていく。

 ──── もう少しだけ、僕を、僕自身を、音楽の世界に存在することを許して欲しい。

 なんて我が儘を、美しい音を奏でるこの人だけは許してくれるんじゃないか、って。

「……ん?」

 ふいに音が止む。
 思考が中断されたことに無意識に声を上げると、そこにはヴァイオリンを手にした日野さんが僕の方に近づいてきていた。

「加地くん? おはよう! 早いんだね」
「お、おはよう。ごめん、僕……」

 こんなストーカーっぽいことされたって彼女が知ったら、なんて思うだろう。
 友だちになって、って告げる前に嫌われるなんて、やりきれない。
 だけど、逆の立場に立ってみれば、僕のしていることってストーカー以外の何者でもない。

 自分自身、もっと器用な人間だと思ってたけど。
 こと音楽に関すること、日野さんに関することは不器用であることを認めなくてはいけない。

「ごめんね。新しい曲の練習を始めたばかりなの。ミスってばかりで耳障りだったでしょ?」

 日野さんは僕の謝罪も耳に入らないのか、これ以上なく顔を赤らめて謝ってくる。

「え? そんなことないよ。全然!
 そうだ、この前の教会のコンサート、すごく素敵だったよ。圧倒されて、なかなか感想を伝えられなくてごめん」
「う、ううん! そんな。月森くんと志水くんのフォローがあったからこそ、だよ」
「ふふ、火原さんから聞いたよ。3週間後の創立祭に、またコンサートをやるんだってね。楽しみだな」
「ん……。それがね」

 僕の言葉に、満面の笑みを浮かべていた日野さんは、しゅんと顔を曇らせた。
 さらさらと額を覆う前髪が、風に透ける。
 落ち込んでいるのは可哀相だけど、日野さんはそんな表情さえも可愛らしい。

「創立祭のコンサート、まだ全然メンバーが集まってなくて。
 2曲演奏するんだけどね、今度は、華やかな曲想を求められてて。ヴィオラを弾く人が足りなくて」
「そう、なの?」
「放課後、月森くんに相談してみようと思って。
 音楽科の弦の繋がりっていうのかな。誰か1人でも紹介してもらえたら、って思ってるの」
「日野さん。……僕、弾けるよ、ヴィオラ」

 愚かな口は、愚かな頭脳以上に俊敏な行動に出たらしい。
 僕は自分の掠れた声を信じられない思いで聞く。
 音楽とはもう、触れ合わない。音楽以外にこの世界にはたくさんの楽しいことが待っている。
 そう思っていた僕が、日野さんに告げている? 弾ける、って? ヴィオラを?

「え? 加地くん、本当? 一緒に、弾いてくれるの?」

 日野さんは、弾むように身体いっぱいに喜びを顕している。
 そんな彼女を見て、ジワジワと沸き上がる後悔以上に浮かぶのは、期待と、歓喜に満ちた感情。

 僕は今、彼女へと繋がる橋を手に入れたと言えるのかもしれない。
 それが腐った木橋になるのか、強固な石橋になるのかは、わからない。

 だけど……。

(君が、笑って、くれるなら)

 橋を渡ったその先を信じてみたくなる。
 1度は手放した、音楽という世界を、もう1度抱き寄せてみたくなる。

 ──── もう1度だけ、僕は僕を信じてもいいのかな。




「加地、くん?」
「え? ああ、ごめんね。これからよろしくね、日野さん」

 僕は軽い足取りでベンチに近づくと、日野さんのカバンを手に取って笑った。
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