*...*...* 養花雨 2 *...*...*
 何度かともに大きな高みに上り詰めたあと、香穂子は私の顔を不安げに見上げてきた。

「だ、大丈夫でしょうか……?」
「私は、君の身体のことは君よりもよく知っていると思うがね」

 わけがわからないという表情を浮かべている香穂子に、私は順を追って説明を始めた。

「幾度か抱けばだいたいのことはわかる」
「ん……」
「君はあの前は、身体が熱くなる。胸も一回り大きくなる。普段よりも敏感になるようだ」

 ここも……、と私は自分が溢れさせたものを受け止めた場所に指を這わした。

「ねっとりと私を受け入れる。締まり方もいつもより強い」
「んっ。ま、まだ、ダメ……。お願い。触らないで」
「つれないことを言う。さっきまであれほど欲しがっていたものを」

 香穂子は、自分の身体の変化をつぶさに語られたことがいたたまれないのだろう。
 ぎゅっと下唇をかみしめ、だけど、聞かなくてはいけない、というような いたいけな風情で耳を傾けている。

 まったく。香穂子の1番の美徳は、この素直さ、かもしれない。
 いじらしい、というのか、可愛らしい、というのか。

 と同時に、ギリギリと締め付けられるような不安感が私の中に満ちてくる。
 いや。私だけではない。
 香穂子はどの男に対しても、こんな風に素直に身を任せて、その男の腕の中で壊れるのだろうか?

 彼女が不誠実な女だというわけではない。
 むしろ、誰に対しても、ある程度の節度を持って接していることはわかっている。

「吉羅さん……」

 愛らしい仕草で身を任せてくる様子に胸が熱くなる。
 たっぷり彼女の中に自分自身を注ぎ込んだというのに、またしても下半身が反り立ってきたのを感じた。

「君のためにならないようなことはしない。なにしろ君は星奏学院の商品だからね」

 私の胸の中に小鳥のように納まっていた香穂子の背が、突然固くなる。
 香穂子は、少しクセのある髪を撫でていた私の手を押さえると、ゆっくりと起き上がった。
 今まで感じたことのない違和感。だが、過去の女たちに何度か感じたことのある感情は、私を我に返らせた。

「香穂子?」
「私は吉羅さんにとって商品、なんですよね……」
「なにをわかっていることを聞く?」
「ううん? ごめんなさい。……えっと、シャワー浴びてきます」

 行為の最中、消してと懇願されて薄闇になった部屋では香穂子の表情が読み取れない。
 不審に思い、私も半身を起こす。
 そのとき、私は自分の胸元を這っていく雫に気づいた。
 汗、ではない。だとすると……?

「香穂子、待ちなさい」
「大丈夫です。すぐ戻ってきます」

 安心させるかのような元気な声が耳元に降ってくる。
 と思ったら、こめかみに彼女の花びらのような口づけを感じた。
 穏やかながらも、どこか立ち入ることを許してくれない空気の前に、私はベッドに貼り付けられたまま、彼女の背中を見送る。

 彼女の態度が変わった分岐点。
 ……そうか、私の『商品』という言葉から、だろうか。

 商品という私の言葉に偽りはない。彼女は星奏学院の大切な広告塔だ。
 普通科の人間であっても、星奏学院は、生徒1人1人の個性に見合った教育を与える。
 香穂子の容姿と素直さ。アルジェントも認めている音楽の才能。
 これらがさらなる発展を遂げ、融合したとき、星奏学院も、そして香穂子もより高い舞台に自身を引っ張り上げることができるはずだ。

 そして実際、理事たちの反応はといえば。
 理事長就任式の時の反骨がウソのように、今は両手を挙げて香穂子を迎え入れているという現状がある。

 実際、香穂子と都築さんのオケを聴いて、この学院を目指してきた新入生も少なからず居るという。
 頭の堅い人間には、具体的な数値を挙げて説明をするのが何よりも効果的だ。
 そういった点に置いては、今年の星奏学院志願者数は、彼らの満足行く結果だった、ということだろう。

「……遅い」

 私は部屋の灯りをつけ、シーツの波に紛れていた腕時計を取り上げる。
 香穂子がバスルームに入った時間を正確に把握しているわけではないが、かれこれ30分近くが経過している。

「まったく。しょうがないな」

 微量とはいえ、寿司屋で香穂子が舐めたアルコールも気になる。
 着替えの最中なら、いきなりドアを開けるのも悪いかと思いながらも、
 こんな深みに入り込んだというのになにを今更、という気持ちも交差する。

「……うん?」

 だが一応彼女のプライバシーも考え、ドアをノックしようとして、私はバスルームから聞こえてくる声に気づいた。
*...*...*
「日野香穂子! まったくお前は情けないヤツなのだ〜。1人でメソメソ泣くくらいなら、どうして自分の気持ちを素直に伝えないのだ。
 あいつがお前の気持ちに気づくのを待っていたら、100年かかってしまうのだ。人間は100年も生きられないのだ!」
「う、ううん? いいの。さっきは悲しかったけど、ちょっと考えたら落ち着いたから」
「吉羅暁彦。あいつは頭がいいが、恋愛に関してはろくでもないカタブツなのだ!
 お前への気持ちを『商品』という言葉でごまかしているのだ。
 そ、その、なんだ? 『好き』という気持ちをお前に告げるのが恥ずかしいと思っているに決まってるのだ!」

 反論のしようがないのか、香穂子は返事の代わりに深い息をついた。

「そっか……。吉羅さん、大人だもの。『好き』なんて感情、子どもっぽいよね」
「違うのだーー。あいつは高校生の時から あまのじゃくだったのだ!
 うう、お前が入学式準備を頑張っているのを見て、栄養ドリンクの製造に精を出していたが、
 ここは『赤い布』の製造を頑張るべきだったのだ……」
「『赤い布』?」
「うむ。1人練習または2人練習で、聴衆または練習相手の親密度が3倍にアップする」

 話が脱線しているような気もしなくはないが。
 聞き耳を立てている今の自分の大人の品格があるとは思えない行動に、私は口を挟むこともできず、たた2人のやりとりに耳を傾けた。

「『赤い布』……。『赤いリボン』のお姉さん版かな?」
「それだけではない。
 親密度3倍アップに加えて、聴衆または練習相手が日野香穂子に愛の応援メッセージをささやく、という
 スペシャル機能を持ったヤツだったのだ。
 あっけらかんとしている火原和樹や加地葵はともかく、むっつり系の月森連や吉羅暁彦に使ったらどうなるのか、と
 ファータ会議では大人気だったのだ」
「あはは。そうなんだ」

 香穂子は私や月森くんがそのアイテムを使ったときのことを想像したのだろう。くすくすと笑い声を立てた。

「それがな。ネーミングセンスが悪いとひどく叩かれて、作成候補から落ちてしまったのだ」
「ネーミングセンス? うーん……。『赤い布』、そんなにヘンじゃないと思うけど」
「いや。ポリムからは酷評された。『聴衆や練習相手は興奮した牛なのですか?』などとな。
 いーや、そんなことより、吉羅暁彦、あいつの口を我が輩は ひねり上げたい気分なのだ」

 ……やれやれ。こんなところにまでアルジェントが来るとは。
 しかも私に聞こえないと思って、言いたい放題を香穂子に吹き込んでいる気もする。

「ありがと、リリ。私、吉羅さんが待ってるだろうから、もう行くね? また明日、学校でお話、しよう?」
「はっ。そ、それもそうだな。お前があまりに沈んでいるから、我が輩、ついこんなところまで来てしまったのだ」
「ありがとうね。すごく嬉しかった」

 ため息と、『よし』という小さな自分へのエール。そして衣擦れの音がする。
 ドアが開く気配を察して、私は早足でソファに戻る。
 そして素知らぬふりをして、バスルームから出てくる香穂子の様子を目で迎えた。

「ごめんなさい。遅くなっちゃいました」
「……君は強がりだな」
「はい?」
「こちらに来るといい」

 香穂子は首をかしげながら、少しずつ私に近づいてくる。
 まぶたが腫れたように赤らんでいるのは、さっきの私との行為のせいか。
 それともバスルームに長くいたからか? それとも、シャワーに紛れて泣いていたからか。

 私は自問する。

 確かに私が香穂子を『学院の商品』と思っていることは否めない。
 それは私の中に確固とした信念として存在する。

 だが、その信念の周りに存在するもの。もしかしたら、核の部分よりも大きいもの。
 私は今までその感情に目を背けていたのではないだろうか。

 香穂子の同級生の存在。それに、なにかと香穂子のことを知りたがる桐也の存在。
 私の気持ちを察してか、遠くから香穂子を見守っている金澤さんの存在。
 隠していてもわかる。金澤さんは私の気持ちを察して、香穂子を私に任せてくれたのだということを。
 だけど、私と香穂子の仲が切れたら、そのとき先輩なら堂々と香穂子を奪っていくに違いない。

 それらをさりげなく排除し、香穂子の目には私だけが映るようにと仕向けている私の心の動きを、
 私は、一体何と名付けることができるのだろう。

 ただ、香穂子の音楽の力をつけるため、といえば、むしろほかの人間の薫陶を受けることは、微笑ましいともいえるのに。
 どうしても、私と香穂子が越えたある一線だけは、越えて欲しくないと願っている私の気持ちは。


 経営理論のようにはっきりとした答えが導き出せないことに居心地の悪さを感じながらも、
 私は隣りに座ろうとする香穂子の手を引っ張って、脚の上に乗せた。
 彼女の身体は柔らかく、瑞々しい。桃色に染まった丸い膝が愛らしくこちらを見ている気がする。

「……君は、私が君のどこを1番気に入っているか知っているのだろうか?」
「ん……、どこでしょう? あ、ヴァイオリンを弾くところ、ですか?」

 香穂子は息がかかるほど間近な状況に、恥ずかしそうに俯きながら答える。

「素直なところだよ。音楽のことも最初はわからないことばかりだっただろうに。
 君は周囲の人間の助言を素直に受け入れながら、自分の色に反映させているだろう?」
「あ、あの。それはみんなが良くしてくれるから、だと思います」
「そして、私との付き合いも……」

 私はそう言って、白いガウンの合わせ目に手を入れた。
 小ぶりながら形のいい乳房は、まるで誂えたかのように私の手のひらに納まる。

「いろいろ不安に思いながらも、素直に私に身を委ねているところが、可愛いと言えなくもない」

 今日は後ろから責め立てたからだろう。
 普段だったら私の甘噛みの痕があちこちと残っている香穂子の胸は白く、頂きの1点が桜の花びらのように色づいている。

「だから私も、君の前では素直になることに決めた」

 腫れ上がったまぶたに唇を這わせながら、私は心が解き放たれていくのを感じた。

 養花雨。春の初めに降る、冷たい雨のことをいう。
 今までの私は、香穂子の養分になればと、養花雨のような態度を見せ続けていたのかもしれない。

 だけど今は。
 咲きほころぶ春の花の上に降る雨のように、柔らかく、優しい慈雨になる。
 年端もいかない香穂子を、これ以上泣かす気はもう私にはない。

「香穂子。私は君に惹かれている」
「吉羅さん……?」
「── 君が笑っていたらいい。元気で学院に通ってくれたらいい。
 友人たちと楽しい時間を過ごしてくれたらいい。
 君が私の歳になったころ、この高校時代を笑って思い出してくれたらいい。そう願っている」

 私は溢れてくる思いを隠すことなく伝え続けた。

「女としての君にも惹かれている。何度果てても、すぐ君が欲しくなる」

 香穂子は目を潤ませながら、私の首に腕を回す。
 香穂子の壊れていく姿態を正面から見たくて、私は香穂子をソファに横たわらせた。




「だから、アルジェントに言っておきたまえ。もう私に、『赤い布』は必要ないとね」

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