「……素晴らしいです。香穂先輩、変わりました」

 満場の拍手を浴びている香穂さんに目をあてたまま、隣の席の志水くんは呻くような声を上げた。
 その向こうにいる、王崎先輩は少しだけ口の端をかみしめている。
 『浜井美砂 デビュー30周年記念リサイタル』
 チケットの入手が難しいこのイベントに、僕たち3人は月森からの招待で上席に座っていた。

「僕はただただ、圧倒された。彼女の音楽は、僕にとっての陶酔境だ」

 2年ぶりに聞く彼女の音はもはや僕の知っている音ではなかった。
 ふっくらとした思春期を経て、大人の女性に近づいていくような、甘さを削ぎ落としたような冷たい調べ。
 もっと続きを聞きたくなるような、涼しやかな響きが耳に焼き付いて離れない。

 王崎先輩は厳しい目をしたまま、深い溜息をついた。

「確かに今の日野さんの音は、志水くん好みかもしれないね。正確で、穏やかで。
 だけど、どうだろう。おれは、まだ荒削りだった頃の彼女の方が好きかな」
「そうでしょうか? 正確さというのは音楽家に最も求められる資質だと思います」

 志水くんは咎めるような目の色で王崎先輩を見ていたけれど、僕は王崎先輩の気持ちもわかるような気がした。
 そう……。今の彼女には隙がない。
 人を和ませ、和らげ、受け入れてくれるような優しさが、なりをひそめている。そんな感じだ。

「ウィーンに来たばかりの頃から、彼女の音はこうなってたんだ。
 日本で演奏すれば、以前の彼女の音に戻るかなと期待していた部分もあったんだけど。
 彼女、留学前になにかあったのかな? 君たちは知ってる?」
「いえ、特になにも。……あ、カーテンコールだ。みなさん立ちましょう?」

 志水くんは無機質な返事をしていたけれど、『留学前』と聞いて僕の胸からは血が溢れ出す。
 その血は止め方を忘れたように、今も流れ続け、血溜まりを作っている。
 ──── どうして?
 どうして香穂さんは、あれほど鮮やかに僕の前から消えていってしまったんだろう、って。  
*...*...* Sin 9 (Kaji Side) *...*...*
 2年前の冬のあの1週間にあった出来事を、僕はまるで今週あった出来事のように詳細に思い出すことができる。
 これほど強い印象を残した日々を僕は、これからも経験することがないだろう。

 香穂さんの大切な人に、僕たちの秘め事が知れたのはすぐわかった。
 そして、僕が電話していたときに、彼女がどんな目にあっていたかも。
 大人の男に身体の自由を奪われ、その男の一部を埋め込んでいる香穂さんを想像することは、僕にとって耐え難い苦痛だったけれど。
 想像の中の彼女は、僕に抱かれているとき以上に、恍惚とした表情で美しく乱れていた。

 ……僕自身の痛みは、まだ、いい。
 元々、僕が闖入者だったんだ。だからこの痛みは僕が引き受ける。
 だけど、彼女は?
 彼に執拗に責められながら抱かれていた彼女は、どれほど辛い思いをしただろう。
 彼女は僕になにも言わない。だからこそ余計、心がざわついて止められない。

『香穂さん、僕は君と話がしたい。どこかで時間、取れない? ほんの5分でもいいから』
『ううん? ……もう、いいの』
『香穂さん!』
『加地くん……』
『なに? いいよ。なんでも言って。お願いだから』
『──── いろいろ、ありがとう』

 電話があった翌日、僕は隣りの席にいることをいいことに、何度か彼女に詰め寄った。
 休み時間。授業中。昼休みも。
 話をしなければなにも始まらない、と思ったし、彼女が辛い思いをしているのなら、分かち合いたいとも思った。
 だけど、彼女は透明な微笑で首を振るばかりで。
 午後の授業の間に手紙を書いて渡してもみたけれど、彼女は封を切ることなく、丁寧に鞄の中にしまい込んでしまった。

 もしかして、彼女の大事な人に、僕との接触を避けるように言われているのだろうか?
 北海道に行ったときの承諾の返事はなんだったの? 今も信じていいの?
 僕はあらゆるモノに疑心暗鬼になっていた。

 この日は、僕の誘いに乗ってこない香穂さんを、僕は香穂さんが疲れているからだ、と思い込もうとしていた。
 疲れていて、そして動揺しているからなんだ、と。
 だから、彼女は僕の誘いに乗ってこないんだ、と。
 もう少し、時間が過ぎれば、彼女は絶対僕を選んでくれる、って。
 このときの僕は、いろいろなことに世故長けていない、ただの幼い子どもに過ぎなかった。
 ──── これから先の時間、僕は彼女とたくさんの時間を共有できると、何の疑いもなく信じていたんだ。

 翌日。
 彼女の机の脇に見慣れない鞄が掛かっていると思ったら、僕を見つけたクラスメイトが話しかけてきた。

『加地くん〜。おはよう! これからよろしくね!』
『おはよ。東雲さん。どうかしたの?』
『あのさー。こんなことしたら、アタシが加地くんに恨まれるんじゃない? って言ったんだけどさ、
 香穂子、譜読みばっかりしてたら急に視力が落ちた、っていうから、席、替わったんだ』
『え? そうなの?』

 僕は動揺を押し隠して相づちを打ったけれど、やはり下手過ぎる芝居はバレてしまったらしい。
 東雲さんは顔を曇らせて、香穂さんの居る方向へ目をやった。

『あーー。その顔! やっぱり、加地くん落ち込んでるじゃん。アタシ、席替わるのやっぱ止めようかな?』
『ごめんごめん。東雲さん、気にしないで? 2人で合意の上だったら、僕はノープロブレムだよ』

 いそいで笑顔を作ってそう言うと、東雲さんは明るすぎる笑顔で恋人の席に向かった。
 参考書に顔を埋めながら、ウンウン唸っていた谷は、東雲さんの姿を見てぱっと顔を輝かせている。
 そしてお互いの模試の結果や、今日の放課後の過ごし方を、肩を寄せて話し合っている。

 ……高校生らしい恋、ってこういうことを言うんじゃないかな。
 今の僕には眩しすぎる。

 僕は手持ちぶさたに、ケータイのメール画面をのぞき込んだ。
 以前は、時間と場所を記したメールを送れば、香穂さんはそこに来てくれた。
 だけど、もう、香穂さんの大切な人に事実が知れた今、彼女の足枷は外れてしまった。
 今、彼女に同じメールを送っても、彼女は約束の場所には来ないだろう。

 最前列の席に替わった彼女の背中が、すごく小さく感じる。
 この距離感は、彼女の心の距離感のような気さえしてくる。

 その日は選択授業や体育の関係で、なかなか香穂さんと話す機会がなかった。
 今日は、なんとしても話したい。昼休み、無理にでも誘ってみようか。
 そう考えていたとき、僕はクラスメイトの黄色い声に気がついた。

『ちょ、香穂子! あんた、なに急なこと言ってるの? ってもう、今週の話じゃん。水くさいよ!!』
『ごめんね……。急に決まっちゃったんだ』
『ちょっと待って、アタシ、クラスのみんなに声かけてみる。香穂子の送別会やれる日いつがいいかな、って』
『い、いいの。乃愛ちゃん……。急なことだし、みんなの都合もあるし』
『なに? 東雲さん。なんの話?』

 じっとしていることができなくなって、僕はつかつかと香穂さんを囲んでいる輪に割り込んで尋ねた。
 今、ここで言っている留学は、土浦が言っていた留学のことだろうか?
 香穂さんは確か断るって言っていた。その留学のこと……?
 ダメだ。頭が上手く回らない。

『あ、加地くん! 驚いたよ。香穂子、ヴァイオリンで留学するんだって』
『そうそう! 今週、もうウィーンに行っちゃうんだって』
『う、ううん? その、留学先へ行くのはもう少し先、かな。登校するのは今週いっぱい、って話だよ?』

 香穂さんはおろおろと訂正したけれど、僕はその言葉を聞く余裕も無かった。

『本当なの? 香穂さん』
『うん……。突然、決まって』

 あの日以来、香穂さんは初めてしっかりと僕の顔を見つめてくれる。
 この瞬間、周囲を取り囲む人間も、僕と香穂さんを包む空気さえも真空になった気がした。

 穏やかな笑みを見て、僕は香穂さんがなにを選んだのかを知った。
 彼女は僕を選ばなかった。そして、香穂さん自身が大切の思っていた人も、選ばなかった。
 なにもかも捨てて、ヴァイオリンを選んだのだと。
 孤高なまでの選択に、僕は頬を殴られたような気がしたんだ。



 彼女が留学してからというもの、僕は何度となく、両親にパスポートのありかを尋ねた。
 大学は星奏の附属大学を選んだことで、早々に推薦をもらっていたから、特に受験勉強に煩わされるということもなかったし、
 なによりも香穂さんに会いたい。その一心がその頃の、そして今の僕を動かしていた。

『ねえ、父さん。僕ももうすぐ大学生だ。1人で海外に行くくらい何の問題もないでしょう』
『いや。海外が問題と言っているのではない。行き先が問題だと言っているのだ』

 どこから聞いたのか、父は僕と香穂さんのことを耳にしていたらしい。
 いや、親の勘、というものかもしれない。
 とにかく頑なに父は、僕が海外に行くのを拒絶した。
 親子だからか。父はこの手の勘は僕以上に働くときがある。

『人間関係の中には、『縁』と言えるべきものもある。縁があれば続くだろう。逆に縁がなければそれだけの話だ』
『父さん……』
『なあ、葵。わかるか? 彼女はお前を選ばなかった。ヴァイオリンを選んだんだ。
 今は、彼女が日本に戻ってくるまで大きな気持ちで待っていたらどうだろうか?』

 『縁があれば続く』
 父の言葉を100パーセント信じたわけではなかったけれど。
 僕にとって18歳からの2年間は、ひたすら香穂さんを待つ2年間だったと言っていい。

 もちろん、香穂さんが帰国するときわざわざ僕に連絡をくれるとは思えなかったから。
 僕は月森や王崎さんを始め、学院や音楽関係の人間とマメに連絡を取った。父からも時折情報を探った。
 香穂さんが、日本へ帰るのなら必ずそれは音楽関連のことだと思えたし、
 その仮定が正しければ、僕の情報網が正常に動作していれば、必ず香穂さんの帰国情報は入ってくる。
 そんな勝算もあった。

 そして、2年後のクリスマス。
 僕は香穂さんの舞台を目を凝らして見ている。
*...*...*
「王崎先輩、加地先輩。弦をやっている2人にぜひお尋ねしたいことがあります。
 今から少し、ロビーでお話しさせてもらってもいいですか?」

 志水くんはなにかに浮かされているような熱っぽい目で僕たちを見つめると、会場のロビーを指さした。
 王崎さんも話したいことがあるのだろう。志水くんにうなずき返すと僕の返事を待っている。

「ごめんね、志水くん。僕、ちょっとあとから参加ってことにさせて?」

 僕は舞台の隅から隅へと目を這わして、舞台のスタッフがいないことを確認すると、客席から一気に舞台へと上がった。
 緞帳を身体にまとわせて、舞台に立つと、まだ興奮が冷めやらないこの場所は、熱気がこもっている。
 照明を切り忘れたのか、月森の母親が弾いていたピアノは鍵盤の部位にスポットライトが当たっている。

 今すぐ、香穂さんに会いたい。
 今、捕まえなければ、もう、彼女に会うことはなくなってしまう。
 彼女が今いる楽屋はどっちだろう。右か、左か。
 僕は祈るように手を組む。
 そして自分の指し示す方向へと走り出した。

 舞台から楽屋へと続く道。
 舞台の興奮が香穂さんの身体にまとわりついているかのように、彼女の身体は金色の光沢に満ちていた。
 2年ぶりに見る彼女の姿。流れる音楽。
 同じ空気を吸っていることにさえ、めまいのような興奮を覚える。

「香穂さん!」
「加地くん!?」

 僕は、楽屋のドアを開けようと鍵を差し込んでいる香穂さんを見つけた。

「……無理だった。無理だったよ。僕には無理だった!」
「加地くん……」
「時が経てば。高校、大学を出て、自分を取り囲む人間が変わっていけば、僕も別の自分に変化していける。そう信じてた」

 香穂さんは静かに鍵穴から鍵を抜くと、2年前とは違う、凛々しい目で僕を見つめた。
 ウィーンの長い冬が今の香穂さんを形作ったのだろうか。
 高校生だった香穂さんは、ときおり春の精かと思わせるほどの暖かみがあったけれど、
 今の香穂さんは冬の女王のように冴え冴えと美しい。
 ほっそりとした白い首に続く薄い肩は、あのヴァイオリンさえ重く感じるのではないかと勘違いするほどだ。

「何度も、旅行の時に見た明け方の君を思い出した。マリアのピエタだと僕は思った。今でも思ってる。僕は君に囚われてしまったんだ」

 僕は、僕の中に渦巻く思いを話し続ける。
 口よりも先に感情が動く。溢れてくる言葉を吐き出さないことには、止まれない。
 どうか、君に、届いて。

「……今日の君のヴァイオリンを聴いて、僕は君から逃れられないのだと知ったよ。
 君のヴァイオリンは君の天分と努力の賜だ。そして君の心の響きなんだよ」

 もっと僕にヴィオラの才能があったなら。
 音楽の神様に愛されている月森や、志水くん。王崎さんなら。
 今の僕のような状態の時は、彼女のために音楽をかき鳴らすのだろうか。
 古人はこうやって音楽の才を育ててきたのかな。
 才能のない僕が才能のある香穂さんに恋することは苦しい。
 だけど、だからこそ、僕は香穂さんに恋い焦がれる。

「許してくれとは言わないよ。言えるわけがない。だけど僕は……。君だけには許しを乞いたい」

 すぐ近くに香穂さんの身体があるのに、今の香穂さんは、簡単に触れてはいけないような厳しさがある。
 触れたい。だけど、触れることは許されない。

 香穂さんは、震える声で話し始めた。

「……どこにいても。加地くんがどんなひどいことをしたとしても……」
「なに? 香穂さん」
「私、加地くんを忘れられなかったよ」
「だったら! なにも気にすることはないよ。もう1度、最初からやり直そう?」

 香穂さんがこの場にいることを確かめたくて、僕は香穂さんの肩に手を載せる。
 だけど、香穂さんは何度もかぶりを振ると、僕の手を離した。

「……私で、いいの?」
「香穂さん」
「私、ちっとも綺麗じゃない。いくら幼くて馬鹿だったって言っても……。
 私は自分が許せないの。2人の人と付き合って、2人の人に抱かれてたの」
「それは僕の罪であって、君の罪じゃない」
「自信がないの。過ちを犯した人間が再び過ちをしない、ってどうして言い切れるの?」

 香穂さんは鋭い目で僕を見つめた。
 きっとこの2年の間、何度も自分に問いかけてきた質問なのだろう。
 彼女の大きな目が大きくふくらんだ、と思ったら、それは雫になって彼女の頬を伝っていった。

「僕が守るよ。ちゃんと守る。誰にも取られないように、どんなときも僕が君を守るから」

 僕は彼女への1歩を踏み出すと、震えている彼女を抱きしめた。
 ほっそりとした彼女は2年前よりも儚げで、僕の胸の奥がカタカタと軋み始める
 僕は今、なにに対して許しを請えばいいんだろう。

 香穂さんは2年間の緊張が解けてしまったかのように、僕の胸の中で頭を寄せている。
 その様子は、親鳥のぬくもりに抱かれている雛のようにあどけなく見えた。

「加地くん、逃げ出してしまってごめん。1人にしてしまってごめんね」
「謝るのはむしろ僕の方だ。まだ高3の君に辛い選択をさせてしまった」

 僕が再び君に本物の笑顔を取り戻してみせる。
 そうすることで、香穂さんの音楽はますます円熟味が増し、完璧に近い円になる。
 ──── 僕の求めるもの。香穂さんと音楽。
 両方を手に入れることができるなら、僕は僕の持っているものすべてを惜しみなく神に返すことだってできる。

 僕は抱きかかえている柔らかい存在を何度も何度も抱きしめる。




 もう1度、新しい場所から始めよう。
 笑い話になるはずもない過去。
 そう思っている過去さえも、いつか笑って話せるように。
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