すぐ近くの銀色のオーナメントに目をこらすと、屈折の関係だろう。中には奇妙に顔をしかめた私がいる。
香穂子が日本を離れてから、2年。
この時間の流れを長かったのか、短かったのか、と問われれば、今の私には答える術がない。
ただ2年の月日が変えたものに、『自己と他者との距離感』というものがあるように感じる。
30代前半のこの時期、私はあらゆる存在と、ある一定の距離を置いて付き合うようになっていた。
──── けっして相手を傷つけないように。そして、自分も傷つかないように。
*...*...* Sin 9 (Kira Side) *...*...*
歳を重ねるということ。それは、思い出すのに痛みを伴うような感情を少しずつ積み重ねていくことなのではないか、と思うことがある。
振りほどこうとすればするほど、それらは突然目の前に現れて私を嘲笑する。
お前は、一体何をしているのだ、と。
どうして、もっと手を尽くさなかったのだ、と。
姉との別れ。音楽との別れ。
──── そして、香穂子との別れ。
自分自身のことは、ある程度簡単に諦めたり、次案を立てたりすることができるというのに。
どうも私は、自分以外の人間に対しては大変不器用でもあるらしい。
この日は、星奏の元在校生である月森蓮の母親のリサイタルの日だった。
彼女の功績は、この30年の日本の音楽史の中でも特に輝かしい存在であったのだろう。
現在私が所属している文科省も、このイベントに一役買うということで、私の元にも約2ヶ月前に連絡があった。
いや、正確に言うならば、第1報は同僚の雑談から始まったように思う。
『浜井さん、なんでも、息子さんと一緒に演奏するんですって』
『ふぅん。えっと、なんて言ったっけ? 息子さんの名前。確か……』
『月森蓮よ。月森蓮。この前のヴァイオリン国際コンクールでも金賞を取った』
『ああ! あのイケメンか。やけに女性が騒いでいると思ったらそういうワケか』
私と同世代の同僚は、仕事の時間だというのに、暢気にコーヒーを淹れながら雑談に興じている。
『ふふ。この話を聞いたら、きっと男の人も色めき立つかな?
なんと! そのコンクールで銀賞を取った日野香穂子も一緒に演奏するって』
『ええええ? 日野香穂子? どうしてそれを先に言わないんだよ〜。
オレ、行く行く。香穂子ちゃんの大ファンだし。ねえ、文科省枠の優先チケットってあるの?』
そう言って彼らは、カタカタとキャビネットの扉を開くと書類を取り出している。
そして、その中にあった月森くんと香穂子のプロフィールを見たのだろう。
好奇に満ちた目で私の方を振り向いた。
『あれえ? この2人、星奏学院在学中にウィーンに留学、ってあるわ。もしかして吉羅さん、ご存じ?』
『ええ。まあ』
『教え子が育つって、誇らしい感じでしょうね。良かったですね』
私は曖昧に微笑むと、密かにリサイタルの詳細スケジュールをPCの部内共有フォルダから取り出した。
私の仏頂面に同僚はやや声を落として、イベントの話を続けている。
やや疎外感のある雰囲気にも、今はもう慣れた。
いや、むしろそんな空気は、今の私には好都合と言ってもいい。
滅多に話しかけられない環境というのは、簡単に今の自分を、2年前の香穂子とともに居た自分に戻すことができる。
2年間、1度も帰国したことのなかった香穂子が帰ってくる。
PCに映し出されたリサイタルの概要には、会場と日時、浜井さんの功績、それに彼らのプロフィールが載っていた。
きっとパスポートの写真なのだろう。
やや緊張したような幼い顔立ちの香穂子を見ていると、私の記憶は一気に2年前へと遡っていく。
*...*...*
四角い寒空が見える理事長室で、私はイライラと机を指で弾いたり、何度も窓の外を眺めたりしていた。香穂子の留学はもう明日に迫っていた。
泣いている香穂子を無理矢理抱いてから、3週間。
あれきり、香穂子とは1度も会ってはいなかった。
『君は、私のそばに戻ってくるんだ。……いいね?』
最後に会った日の夜、私は彼女を強引に抱いた。
確かあのとき、彼女は話があると幾度も私に告げていた。
それなのに、私は強引に彼女の口を自分のそれでふさいだ。
あのときの私にとって、香穂子から別離の言葉を聞くことは、耐え難いことだったからだ。
日々の流れ作業のように無意識に押す捺印。
その中で香穂子の留学の書類を見つけたときの動揺は、今思い出しても生々しい。
とにかく、会おう。会って話さなければ始まらない。君を責める気はない。
電話とメールで言葉を尽くして話をしてみたが、香穂子は頑ななまでに私には会おうとしなかった。
もう1人の香穂子を思う男の後ろ姿を思い出す。
想像の中の若者たちは容赦なく私に残酷な映像を見せる。
彼は香穂子の柔らかな肢体を貪り、蹂躙する。
香穂子は、若さという激しさに応えるかのように腰を揺らしている。
そして私の時以上に髪を乱して、か細い叫び声を上げた。
本来なら腹立たしい状況であるはずなのに、その想像は香穂子の美しさばかりを伝えてくるようで。
私は何度もその映像を再生しながら、自分の熱を処理していた。
もしかしたら、香穂子はそちらの若者の方に惹かれたのだろうか?
一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。
そんなはずはない。だが、しかし……。
いくら考えても、本人にしかわからない事実。
なのに、私はずっと同じことを考え続ける。
彼女の心変わり。
もしそれが真実だとしても、それを否定する自分が、泣き叫ぶように懇願している。
──── もう1度でいい。あの子に会いたい、と。
彼女の微笑んだ顔。
考え込むとき、左手を頬に当てるクセ。
雨上がりに香る彼女の髪。
すべてにもう1度、会いたい。
この日の私は、秘書からの内線電話のあと、香穂子と香穂子の担任の来訪を待っていた。
ドアを隔てた廊下から2種類の足音が聞こえてくる。
足音1つにも個性が出るのか、1人はひそやかな、そしてもう1人は力強いリズムを刻む。
「吉羅理事長。お仕事中に申し訳ありません。うちのクラスの日野香穂子が吉羅理事長に最後の挨拶を、と」
「ああ。お入りください」
ノック音のあと、ドアの隙間から香穂子のクラス担任が顔を覗かせた。
でっぷりとした中年女性の後ろ、香穂子は潤んだ目で私を見つめている。
「ほら、日野さん、挨拶を。
いえね。吉羅理事長もお忙しいんだし、こんな風にいちいちアポイントメントと取らなくても、
挨拶くらい1人で行けるでしょう、と申したんです。
だけど、日野さんったら、どうしても私と一緒に行きたい、って言うんですよ」
私は担任の言葉のウラに隠されている香穂子の思いを察知する。
香穂子は私と2人きりで会うのが怖かったのだろう。
言葉で責められる以上に、私に身体の自由を奪われるのが怖かったのだろう。
──── 私は、どれだけこの子に苦しい思いをさせていたのか。
香穂子は担任の前に半歩出ると、真っ赤な目で私を見上げた。
「はい……。その、吉羅さん、……いえ、吉羅理事長には、今まで大変お世話になりました。
一言、ちゃんとお会いしてお礼が言いたくて。……本当にありがとうございました」
香穂子は、そう言って丁寧に頭を下げた。
涙で湿った前髪が痛々しい。
今、ここでこの子を抱きかかえることができたらどんなにいいか。
私と香穂子を隔てている机が腹立たしい。
この巨大な家具がなかったら、あのときの私はたとえ、担任がいたとしても、香穂子を抱きしめていたかもしれない。
無言で頷く私に香穂子も頷き返す。
だが、私と香穂子の間では声にならないやりとりが続いていた。
(なぜだ? なぜ、日本から、いや、私から離れていく)
(ごめんなさい。吉羅さん……。私、こうするしかなかった)
約1年の香穂子との付き合いは、実は私の思い込みに過ぎなかったのだろうか。
私の熱が冷めたのなら、話はもっと単純だっただろう。
香穂子の熱が冷めたのなら、私は諦めることもできる。
だが、どちらも違うと、今なら分かる。
好きでもない男の身体を、君はあんな風に受け入れたりはしないはずだ。
私たちの様子に気づくことなく、担任は私と香穂子を交互に見つめた。
「日野さん、よかったわね。でも、わたくしの付き添いがなくても、理事長にご挨拶くらいできそうですけどね」
「あはは……。ありがとうございます。先生」
より多く愛した方が負けるということを、私は香穂子を通じて身を持って知った、と言えるのかもしれない。
*...*...*
私は来賓席で香穂子と月森くん、そして浜井さんの演奏を聴き終えると、まっすぐに楽屋に向かった。舞台スタッフは一様に驚いた顔をしていたが、こういうとき、主催者側の立場というのは便利だ。
「日野君の楽屋はどこかね」
「はい。こちらになります。ちょっと複雑な場所にありますので、僕が案内します」
今回の出演者は3人。
とはいえ、後ろに小さなオケも入っていたから、それなりに楽屋は騒々しいだろう。
だが、香穂子と、月森くん、それに浜井さんはそれぞれに個室をもらっているはずだ。
名前を冠したリサイタルというのは、個人の責任範囲も大きくなるのと同時に、待遇も厚くなる。
なのにどういうわけか、私が案内された楽屋へと続く廊下は、水を打ったように静まり返っている。
「静かだな」
「はい。こちらにいるのは日野さんですので」
「日野君だけ?」
「はい。この会場の楽屋は、北側と南側、と大きく2つの楽屋群に分かれています。
今回の楽屋は、日野さんと日野さん以外、という風に分けてくれ、と月森さんから連絡をいただきまして」
「ほう」
「なんでも、彼女の気を少しでも乱すものは、極力排除して欲しいと……。はい」
スタッフは話し過ぎたと思ったのか、言葉尻をすぼめて小声で説明を終えた。
浜井さんの配慮もあったのだろう。
私を案内する舞台スタッフはドレスコードが決められているのか、糊の利いた白いシャツと光沢のある黒いスラックスを身につけている。
このまま舞台に出てもおかしくないくらいの正装だ。
「日野さんの楽屋は1番奥のドアになります。もう少しで戻られるかと」
舞台スタッフの男は、シャツのポケットに入れておいた携帯が鳴り出したのを気にしてか、
私に対して一礼すると、元来た通路を小走りに走っていった。
廊下には、香穂子へのプレゼントなのだろう。溢れんばかりの数の生花がヴァイオリニストの帰りを待っている。
私はちょうど廊下の曲がり角になっているところに背を預けて彼女の帰りを待った。
2年もの間、1度も日本に帰ることのなかった彼女を思う。
2年前、彼女は私を選ぶことはなかった。そしてあの若者を選ぶこともなかった。
まっすぐにヴァイオリンだけを見つめ。いやむしろ、ヴァイオリンだけを頼りに、日本を飛び出して行った。
彼女にとって私はもう過去の話なのだろう。
だが、知りたい。
私の痕跡がまだ彼女の中に、ほんの少しでも残っていることを。
そして、まだ、彼女に私への気持ちがあるのなら。
──── 私は彼女を諦めることはしない。したくない。
かつんと固い廊下を歩く音、それにキーがぶつかり合う小さな音がする。
ほっそりとした身体を包む漆黒のドレスは、香穂子の身体の線を際だたせている。
白い手の甲は蝶のように艶めかしく、私はしばらくそれに見入った。
「……香穂子、久しぶりだ」
「吉羅さん……?」
ぴん、と緊張した表情を浮かべる香穂子に、私はかぶりを振る。
2年前の私から私は学んだことがある。
彼女を、香穂子を、2度と不安にさせることはしない、と。
「君と、ただ、話がしたい。君が怖いというなら今、この廊下でも構わない」
香穂子は鍵穴に差し込んでいたキーを抜き取ると、私の方に身体を向けた。
1メートル近くはあるであろう、香穂子との距離は遠い。
抜き取ったキーは彼女の手の上、カチカチと震えるような音を出した。
「吉羅さんは、星奏学院の理事を辞めたと聞きました」
「その情報は正しいね。私は今、文科省のつまらない役人になっているよ」
「文科省、ですか」
「経営危機の私立高校を数年で建て直したという実力が評価されてね。
物事を効率よく進めようとしただけだが……。
とかく、役人というのは頭が固い。初めて理事になったときのようにいろいろ手を焼いている」
2年という時の流れは、私と香穂子の間にぎこちない空気を生み出すのではないかと思っていたが、
どうやらその考えは杞憂だったらしい。
香穂子は真剣な目をして私の話に耳を傾けている。
少し細くなった頬のラインは、目の前の女の子が確実に少女から大人への階段を登っていることを伝えてくる。
彼女から醸し出される空気は、少しずつ、私を2年前の私に戻していく。
2年の間に作った、他者との距離。
──── もう、この子とは、あんな壁を作りたくない。
私はふと思い立って、あることを話し始めた。
「そういえば、君には話したことがあっただろうか? 私の姉の話を」
「はい……。少しだけ、金澤先生から聞いたことがあります」
「金澤さんが? あの人は良くも悪くも他人にはお節介だ。もっと自分に気を遣ってもいいものを」
私は香穂子と離れてからの2年間を埋めるような勢いで話し始めた。
1度もケンカしたことのない姉弟だったこと。とてもヴァイオリンを愛していたこと。
そして、若くして亡くなり、私から離れていったこと。
姉の症状に気づいてあげられなかったこと。
(……そうだったのか)
突然、見えざる手に後頭部を殴られたかのような痛みとともに、私は悟る。
今、私が告げている内容は、『姉』と『香穂子』を入れ替えたとしても、そっくり同じことが言える状態であることに。
人間とはなんと愚かな生き物なのだろう。
何度同じ過ちを繰り返せば、私は最善の道を選べるのか。
「あのとき……。君のヴァイオリンコンクールの祝賀会、だったか。
あのとき、一瞬でも君から目を離した自分を悔やんでいる。あれは私の罪だったのだ。
私に抱かれながら泣いていた君を、どうしてもっと捕まえておかなかったのかと」
「吉羅さん、止めて! 悪いのは私なのに……」
「香穂子」
「私が悪かったのに……! どうして、吉羅さんは自分を責めるの?」
1メートル近くあった2人の距離。
それを彼女は一気に縮めると、思い切り背伸びをして私を胸に抱きかかえた。
2年前は抱くばかりでほとんど気づかなかった。
私はこの年若い彼女を守ることが自分の役割だと思っていた。
自分がこうして守られているなんて思いもしなかった。
「再び愛しい人を失うことに、私は耐えられそうにない。……どうか、戻ってくれ」
腕の中の存在が私の妄想でないことの代わりに、彼女にはぬくもりがある。鼓動を、感じる。
彼女の存在が無くなってしまわないようにと、私は知らないうちに腕に力を入れていたのだろう。
香穂子の背骨が軋んだ音を立てた。
だが彼女は優しい指使いで、私の髪を撫で続けている。
「2年間、ごめんなさい。……ううん。突然離れて、ごめんなさい」
「香穂子」
「1人にしてごめんなさい」
「香穂子、もういいから」
私は上体を起こすと、改めて香穂子を胸に抱きかかえた。
しっくりと馴染む上半身は、2年間近くにいなかったのが嘘のように私の腕に収まる。
香穂子は2年前と変わらぬ仕草で私の胸に頭を押し当てた。
「もし、……もし、吉羅さんが、今も私を必要だ、って言ってくれるなら……。私を許してくれるなら」
「香穂子」
「──── 私、もう1度、吉羅さんのそばにいても、いいですか?」