『吉羅暁彦! いいか? わかったのか?
 日野香穂子は、なに1つやましいことはしていない。だから絶対責めてはいけないのだーー!』
 
 香穂子と会う直前、血相を変えてそれだけ言ってアルジェントは姿を消した。
 普段なら、私がいくら帰るように伝えてもなかなか帰らない輩だというのに。
 私に言及されたら困ることがあるのだろうか?
 『やましいこと』……、か。なるほど。
 彼女にとって抗いがたいことでもあったのだろうか。
 
 あの子の性格、身体。なにもかもを好ましく思う日々の中で。
 なんでもいい。欠点を言え、と言われたら、私は一にも二にも、素直すぎる性格を挙げるだろう。
 彼女の話を聞くに、彼女は一度でも『音楽の仲間』という位置づけでラベリングした人間は、未来永劫『仲間』だと考えているらしい。
 同性間ではそれもありだが、異性間は違う。
 殊に、ここ数ヶ月の間に匂うように美しくなった花に、虫が群がるのは当然の理で。
 そんなことに思いを馳せるのには、まだ彼女は若すぎるのだろうか。
 
 まったく。
 アルジェントの中途半端な助言を聞いたせいで、よくないことばかりを思いつく。
 一体あの子になにがあったのだろう。  
*...*...* Mix 4 *...*...*
「どうした? 今日はやけに落ち着かない顔をしているね」
「いえ、私は、なにも……」
 
 単刀直入に問い正そうと思ったものの、話の次第によっては、自分を抑えきれなくなるかもしれない。
 そんな気持ちが少し、と。
 普段は春の陽のように明るいこの子が うち沈んでいるさまは、数年後の大人びた彼女を見るような目新しさもあって。
 私は、馴染みの店を出たあと、車の中で要件を切り出した。
 
 密室になったからだろう。
 助手席からは、柔らかな香水の香りがする。
 私自身、最近はほぼ、香穂子と揃いのパートナーフレグランスをつけているからだろう。
 ふと、彼女が自分の身体の一部分であるような愛おしさを感じる。
 
 やましい、か。
 抗いがたい、こと。……異性との関係。
 もしかしたら、この子の身体が汚されるようなことがあったのだろうか?
 
「今日の夕方、アルジェントに会ったよ」
「え……? え? リリに?」
「大体のことは聞かせてもらった」
 
 私は人気のない海岸に車を停めると、多少のフェイクを交えながら話し続けた。
 『大体のこと』など聞いてはいないが。まあ先に手を打っておけば、話は優位に展開できる。
 
 いつものように香穂子の肩に触れる。
 その瞬間、香穂子は弾かれたように身体を揺らすと、私の目を凝視した。
 
「まあ、君自身が話したくない、と言うなら、それもいい。だったら君の身体に聞くとしようか?
 最近の君は、その口よりも身体の方が正直だ。抱き甲斐がある」
「待ってください! 私、なにも……。なにも やましいことなんてないです。
 ただ、ごめんなさい。今日、加地くんに……」
「なに? 告白されたとか?」
「え? あの……。どうして知ってるんですか?」
「まあ、先日のコンサートの様子を見ていれば大体想像はつくがね。ただ、相手が判らなかっただけで」
 
 『相手』という言葉に、香穂子は初見の楽譜を見るような真剣な表情で考えている。
 やれやれ。
 もし、これがありのままの姿なら、この子は男女の機微に疎すぎる。
 
「君が告白されるとしたら、土浦君か加地君。それか桐也か。その辺りだろうと察しはついていたよ」
「そ、そうなんですか……。私、全然知らなかったです。
 その……。音楽を通して知り合うことができた仲間、とは思っていたけど」
「で? 告白されてどう思ったのかね」
「はい?」
 
 あの加地葵、という生徒は、香穂子になにをしたのだろう。どこに触れた?
 『やましいことはなにもない』
 これだけは信じてほしいのだ、とアルジェントは顔を歪ませて拝むように私を見ていた。
 日頃いい加減な輩だとは思っているが、こと香穂子に関することだけはあの妖精を信用している自分がいる。
 
 ぽっかりと宙に浮かんだような町の街灯が、香穂子の面輪が白く浮かび上がる。
 この子は悪くない。不可抗力だったとはわかっていても、気持ちが収まらない。
 
「加地君にしろ、土浦君にしろ、桐也にしろ。決めるのは君自身だ。
 私は、君を引き留めるほどの情熱は持ち合わせてはいない」
「そんな! ……ひどい……」
 
 憎まれ口を叩く私に、香穂子は目を潤ませて私を見上げた。
 
「ひどい? ひどいのは私と君、どちらかね?」
「加地くんは、その……。抱きかかえられただけです。そうしたらその、……理事長と同じ香りがするって」
「ほう」
「私と吉羅さんの雰囲気が似てきた、って」
「なるほど。彼もなかなか鋭く、かつ、賢い男だな。『危うきに近寄らず』……か」
 
 香穂子の体躯。香り。……男を引きつける魅力。
 数ヶ月間近くにいただけの私が。彼女よりもずいぶん人生を重ねている私が、こんなにも夢中になる魅力、というのは一種の魔力だ。
 私みたいに近づいたら最後。
 甘え、頼り。縋り。やがては彼女なしではいられなくなる。
 
「残念だよ。私を怒らせたらどうなるか、一番近くにいる君が知らないとはね」
「吉羅さん。……いや、怖い」
「香穂子」
「いや……っ」
 
 彼女の両手を頭の上でひとまとめにし、脚の間に割り込む。
 
 これで本気で抵抗しているつもりなのか。
 大人の男からすれば簡単に組み敷くことができる華奢な身体。
 ということは、もういっぱしの大人の身体を持った彼らも、本気になればこんなことができてしまうわけで。
 
 作り物のような白いレースの下着が眩しい。私に最後の抵抗をしているように見えてくる。
 これも私が彼女に与えたものだと気づいたとき、私は獰猛な仕草でその布を下げた。
 
「君は私のものだ。誰にも渡さない。加地君や土浦君……。
 君をとても大事に思っているであろう金澤さんや桐也にもね」
「あ、あ……っ」
 
 狭い車内。
 ろくな愛撫も与えぬままに押し込んだ自身は、跳ね返されるような弾力の中、彼女を貫いていく。
 ドクドクと血が通う感覚は、彼女の怒りか。悲しみか。
 自分自身へのやりきれなさも手伝って、私の行為にはある種の残虐さが加わる。
 
「渡さない、誰にも」
 
 付き合い始めてからの時間が、そうさせるのだろうか?
 何度も腰を押しつけることで、やがて彼女からは熱い蜜が流れ出す。
 頑なに結ばれている唇は、少しずつ開き、柔らかさを増している。
 
「どうしたら、どの男も君を諦めてくれるのだろうか?
 いっそ、私に抱かれて乱れている君を見せたらいいのかな?」
「ダメ、です……。そんな恥ずかしいこと」
 
 受け入れて。受け入れられている部分が、突然狭くキツくなる。
 
「ここは、私だけの場所だ」
 
 彼女のつま先が微かに震えている。
 私は彼女に最後の刺激を与えると、そのまま熱が収まるのを待った。
*...*...*
 目立つ星座のない秋の空に、正方形に似た4つの星が張り付いている。
 エアコンが曇ったガラスを溶かしていく。
 爆発しそうな頭が少しずつ落ち着いてきたころ、香穂子はようやく身体を起こした。
 
 当たり前のことだが、いつもなら甘えたようにすり寄ってくる香穂子が、今日は私の顔を見ようともしない。
 まったく。
 大人げないという言葉は、今の私のためにあるようなものだろう。情けない。
 
「香穂子。こちらを向きなさい」
「……違う香りがする」
「は?」
「……私のじゃないの。吉羅さんのとも違うの」
「それは……。この香水は2つで1つ。調和して混ざり合うと、別の香りが生まれるからだろう」
「ふふ、音の調和、っていうのはよく聞くけど……」
 
 私の口調が面白かったのか、香穂子は小さく笑った。
 泣くまいと唇を噛みしめているものの、止め切れなかった涙がぽたりとスカートの上に丸い染みを作る。
 
「無理矢理抱いてすまなかった。……抑えきれなかった」
 
 少し乱れた髪が制服の肩を覆っている。
 華奢な線は愛らしく、私は思わず背中越しに抱きかかえた。
 
「ううん。……違うの」
 
 香穂子は私の話を否定するかのように、かぶりを振る。
 とすると、なんだ。香穂子を泣かせる理由は、ほかにあるということだろうか?
 思いを巡らしてみても、わからない。
 だが、香穂子を傷つけるのは必ず、といっていいほど、私の不用意な発言が原因であることがほとんどで。
 
 少しでも話しやすくなれば、と私は彼女のうなじや耳の後ろに口づける。
 考えてみれば、今まで通り過ぎてきた女とは、このような状況に陥ったことは一度もない、か。
 女の泣く理由に屈託したことはなかったし、そのようなことになる前に付き合いを絶つのが常だったからだ。
 
 息を詰めたのだろう。こくりと白い首が揺れる。
 
「今は、その……。吉羅さんは学院の人で、私は生徒、で。
 その、周りの人にあまり大きな声で付き合ってる、って言えないけど」
「……それで?」
「だけど……。私、もし吉羅さんが誰かに告白されたのを知ったら、そのときは……」
 
 身じろぎするたび、花の香りが生まれる。
 ここを思い切り吸い上げて、自分の印を付けられたならいいのだが。
 
「その人とお付き合いするのか、私とこのままお付き合いするのか……。
 最後は吉羅さんが決めること、ってわかってても」
 
 ちり、と後悔に胸を突かれるような気がして、私は香穂子を抱く腕に力を込める。
 あのときは……。確か。
 若者に抱きかかえられているこの子を妄想して、ついカッとなった。
 そして強引に行為に及んで。
 
 香穂子はこれだけは伝えなければと思ったのだろう。
 振り返ると、朱く腫れ上がった目で私の顔を覗き込んだ。
 
「それでも私は吉羅さんを引き留めます。……行かないで、って。そばにいてほしい、って」
「香穂子」
「……私のこと、引き留めてくれないんですか?」
「悪かった」
 
 2人の香りが交わった、香りつきの甘い足枷を、密かに喜んでいる自分がいることは、まだ彼女には伝えない。
 その代わりにと、祈るようなキスをする。
 
 
 
 彼女と、私が、これからもともにあるように。
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