昨日まで凪いでいた風も納まって、今日はあちこちに春本番の日溜まりができている。
 やっぱ、あれか?
 まだファータたちの姿が見える、っていう香穂に恩を感じて。
 卒業式の今日、リリはこれ以上ない快晴を用意してくれたって感じだよな。

 卒業式と言えば、1年前、火原先輩が『タイがない!』と大騒ぎしていたことを思い出す。
 タイは学年別で色が違うから、年下の志水に借りることもできず。
 だからといって、クラスメイトに借りることもできず。
 結局、火原先輩は、柚木先輩が持っていた予備のタイを使っていた。

『まあ、なんとなくこうなることは予想してたからね。ほら、火原』
『あー、もう、柚木ってば、どうしてそんなにおれのこと分かってるの?』

 日頃から仲の良い先輩たちが、卒業式の日はヤケに眩しく見えたもんだが。
 ……あれからもう、1年。
 俺と香穂は、今日、星奏学院を卒業する。
 多分、俺の一生のウチ、1番充実していた時期を挙げろと言われたら、俺は迷うことなくこの日々を選ぶ。  
*...*...* Dandelion 4 *...*...*
 クリスマス間近の街中で、不審者に襲われたときにできたキズ。
 それは出血こそ酷かったモノの、後遺症などは何も残らなかった。
 まあ、年末までピアノの練習は控えるように、と医師に言われたこともあって、
 俺は鍵盤を叩くことはせず、そこにピアノがあることをイメージして指を動かし続けた。

 ──── 今までできていたことができなくなる。
 そんなのは俺の性分に合わないからな。

『梁太郎! アンタ、それ、エアピアノ? お笑い芸人にでもなる気?』

 なんて姉貴はフザけたことを言っていたが。
 まあ、エアギターってのもあるんだ。エアピアノだって、もうしばらくしたらこの世に出てくるかもしれない。

 あの日。
 ……俺がワケのわからない暴漢に遭った日。

 香穂と一緒に行った救急病院では、担当医は俺のキズを見て、無造作に消毒をし、その上に奇妙な白い薬を塗った。
 ゲル状のそれは、血と反応し、一気に固まっていく。
 ったく、最近の医学ってスゴイよな。
 何でもこの接着剤のような薬のおかげで、最近のキズは縫うことも少なくなったという話だった。

『ごめんね。土浦くん……。本当にごめんなさい』
『気にするなって。どうしてお前が謝る必要があるんだ?』

 ケガをして以来、俺は何度も香穂に同じことを告げた。
 俺のケガに責任を感じることはないこと。
 だから、ケガを理由に、お前が俺の気持ちを受け入れる必要はないこと。
 だけど、そのたびに香穂は黙って首を振る。
 そしてその日以降、俺と香穂は今まで以上に2人一緒に行動した。

 冬が来て、春が目の前にきているこの季節、香穂の頬は時折青ざめて見えるほど、白く透明になっていった。
 その肌の色は、止血しようと思ったのだろう。
 コートが汚れることも考えず、俺の手を握りしめていた香穂を思い出させる。
 って、どうして俺ももう少し、あのバカな男と上手くやり合わなかったのか。

「土浦くん、卒業おめでとう」
「ああ、香穂。お前もな」

 柔らかな陽射しの中、俺と香穂は肩を並べて、ゆっくりと正門前のファータ像の脇を歩いていく。
 クラスメイトは、いくつかの固まりになっている。
 抱き合っているヤツ。ふざけてるヤツ。さまざまだ。

「えっと、あのね、私、金澤先生に挨拶に行きたいな、って思ってるの」
「ああ、そうだな。って、金やん、どこにいるんだ?」
「うーん……。さっきね、西川さんも金澤先生に用事があったみたいで、森の広場に行ったけど、いなかったって。
 どこだろうね」

 香穂は考え込むように首をかしげている。
 卒業生の印である、胸に飾ってある小さな薔薇が、普段よりこいつの頬を明るく見せていた。
*...*...*
「どうせ俺たちは、この星奏学院のすぐ近くにある附属大へ行くんだ。
 なにも、今日慌てて金やんを探し回ることもないだろ?」
「ん……。だけど、今日は一応区切りの日だし、私、金澤先生にはお世話になったから。できたら、会いたいの」

 香穂はすまなそうに謝ると、周囲に誰もいないことを察したのか、そっと俺のケガした方の手を握ると、屋上へ続く階段へと向かった。

 卒業ってことで、俺も多少気が高ぶってるのか?
 ──── こいつの、ふとしたときに見せる仕草が、今は、心底愛おしいって思う。

 3年間……、とはいえ、音楽科で世話になったのは1年か。
 でも、香穂と2人で金やんを探し回る時間は、俺にいろんなことを思い出させた。
 練習室。音楽室。講堂。
 いたるところに、今より幼い香穂が見える。
 その横を、加地や天羽が取り囲んでいる。
 相変わらず、追憶の中の柚木先輩の音は、小憎たらしいほど鮮やかだ。
 志水の音に混じって、月森の音も聞こえてくる。

 ──── 月森の、音、か。

「あ。金澤先生! やっと見つけた」

 香穂は、階段の影になっている場所で膝を折り曲げている金やんを探し出すと、小走りで近づいていく。
 ったく。短いスカート履いてるなら、もう少し気を遣えばいいのに。
 見ているこっちの方が、勝手に焦っちまう。

「げ。俺が勝ち取ったフリーの時間を、お前さんはまったく」

 金やんは口では冷たくあしらいながらも、香穂が来たことが嬉しくてたまらないのだろう。
 目尻を下げて笑っている。
 香穂は、香穂自身が作り出す音と同じ。素直でまっすぐなヤツだから。
 金やんも特別の思い入れがあるのかもしれない。

 金やんは香穂の後ろにいる俺をちらりと流し見た。

「まあ、お前さんたちもこんな風に落ち着いた、ってワケだ。おめでとさん」
「えっと、その……、それはっ」
「なんだ、お前さん、まだ返事してないのか? こりゃ土浦も苦労するなあ」

 元々、俺のあからさまな態度の理由に気づいてないのは香穂くらいのものだったし。
 その手の機微に詳しい金やんからしてみれば、あとは香穂の気持ち次第だ、ってことも知っているのだろう。
 なんか、その余裕たっぷりな態度が面白くなくて、俺はそっぽを向いた。
 3月だというのに風の中、早咲きのタンポポが同じ方向に首を振っている。

 金やんは、タバコの煙を吸い込んだような時のような細い目をして、俺と香穂を交互に見つめた。

「まー、なんだ? お前たちがこうなった、ということはあるにしても、だ。その……」
「なんだ? 金やん。煮え切らないな、なんだよ?」
「あー。そうさな。……まあ、コンクールメンバーってのは一生の友なんだよ。
 だから、その、月森が戻ってきたときにはさ、土浦、お前も寛大な気持ちで、仲良くしてやってくれよ?
 って、お前さんたち、2人きりでしっぽり話したいことでもあるだろ? とりあえずジャマ者は退散するからさ」
「え? そ、その、待ってください。……私、金澤先生にお礼が言いたくて!」
「ああ。お礼っていうなら、大学入って少し落ち着いたら、ヴァイオリンでも聞かせてくれや」

 金やんは言いたいことだけ言うと、腰を上げてドアの奥へと消えていく。
 香穂はといえば、暑い季節でもないのに金やんに言われたことが恥ずかしいのか、パタパタと手で顔に風を送っている。

「も、もう……。金澤先生、気を遣いすぎるんだから」
「……なあ、香穂」
「は、はい!」

 俺は、金やんの言葉に釣られて顔を赤らめてる香穂の両肩をつかむ。
 ぐっと力を入れれば、簡単に折れてしまいそうな薄い骨が手の中に納まる。

「土浦くん……?」
「……俺は、別にお前があいつを想い続けていたって、それはそれでかまわないと思ってる」

 香穂は俺の考えが理解しがたいのだろう。
 考え込むような不安そうな目をして俺を見上げた。

「俺たちは同じ音楽の世界で繋がっている。
 あいつの音は力がある。だから……。お前があいつの音に惹かれるのはもっともだと思う」
「だ、だけど! そんなのダメだよ。土浦くんに対して、失礼だよ」

 香穂の唇が、小刻みに震えている。
 それをどうにか落ち着かせたくて、気が付けば俺はそこに自分の唇を押し当てていた。
 柔らかな感覚とともに、優しい香りがする。
 ついばむようなキスを何度も繰り返すウチに、ようやく香穂も落ち着いてきたらしい。
 すっぽりと俺の胸の中で小さくなっている。

 ……だけど、意外だな。
 キスがこんなに気持ちいいなんてこと、佐々木は一言も言ってなかったが。

 俺は香穂の髪の中に鼻先を押し込んで言った。

「……お前のことは、丸ごと俺が引き受ける」
「……土浦くん。私ね、ずっと子どもだったと思う」
「香穂?」

 香穂は唇が熱いのか、ややたどたどしい声で話し始めた。

「全然、その土浦くんの気持ちに気づいてなくて。
 あのね、その、今も私、月森くんのことが好きだよ? だけど、土浦くんへの想いとは違うの。
 その、月森くんは私にとって……、仲間、っていうのかな。目標、っていうのかな……」
「……同士、か?」
「そう、そんな感じなの」

 香穂はそっと俺の手を取ると、そのまま頬に押し当てる。
 その仕草は、キス以上に、俺の中を熱くする。
 自分以上に、自分の身体を気にかけてくれるヤツがいるっていうのは、こんなにも嬉しいものなんだな。

「大きなケガじゃなくて、本当に良かった。このまま、土浦くんが音楽ができなくなったら、って思ったら、私……」
「馬鹿。泣くなよ」



 俺は頬を覆っていた手で香穂の顔を持ち上げると、もう1度、想いを込めてキスをした。
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