俺はベッドから飛び起きると、そのまままっすぐバスルームに向かって勢いよくシャワーを出す。
7月の太陽はもう、空のてっぺんまで上り詰め、俺を無言で照らし続ける。
高校を出て、初めての夏。
俺は、大学の近くに学生用のアパートを借りて独り暮らしをしている。
元々、自宅から星奏学院の附属大まで通えない距離ではなかった。
だが、大学生になってからというもの、俺はますます音楽にのめり込むようになって、
『限られた時間』での練習、というのにいささか窮屈な思いをすることが増えてきた。
大学の練習室も、高校の時よりは融通が利くが、一日中というわけにもいかない。
駅前のスタジオを借りるのも、夜は23時までという縛りもあって、しっくりこない。
自宅も、母親がやっているピアノ教室の一室を借りればいいかと思ったが、
やはり、夜中も弾きたい、となると、今年受験の弟にも差し障りがある。
自由度を考えれば、独り暮らしが最善だろ。
そう考えて、今月からこのアパートを借りた。
音楽学部の人間を優先して貸し出している、というだけあって、このアパートは防音設備もカンペキだ。
──── 今日は、初めて香穂がここに来る。
って、あいつとの付き合いは1年以上にもなるってのに、どうして俺はこんなに緊張してるんだか。
「よし。2時限、これなら間に合うな」
俺はクローゼットの中から濃い緑のTシャツを選ぶと、無造作に首を突っ込んだ。
顔を上げた窓の向こうには、抜けるような空がある。
*...*...* Key *...*...*
「土浦くん、おジャマ、します!」「おう。まだあちこち散らかってるけどな」
「ううん? そんなことない。思ってたより、ずっと片付いてるよ」
「ははっ。ってお前、どんなの想像してきたんだよ」
2時限、3時限、それにゼミ。
来月から夏休み突入だ、っていうからか、俺の担当教官はこれでもかってほどレポートを出してきた。
俺には目標がある。
出された宿題だけを淡々とやる気はないが、こういうのはさっさと終わらせて、自分のことに時間を割くべきだ。
時間的にもちょうどいい、と俺は香穂と夕飯を取ったあと、俺のマンションへと誘った。
俺のあとをおそるおそるついてきた香穂は、マンションのドアを開けるなりぱっと目を輝かせている。
白っぽいレースのカットソー、というのか?
以前Tシャツだろ、って言ったらしっかり否定されたから、やっぱりカットソーというのがふさわしいのだろう。
それに、これも透きとおるような……、確か教えてもらったが、なんだったか。
……あ、そうだ。シフォンとか言ってたな。薄いブルーを重ねたようなスカートを身につけている。
すらりと伸びた脚。つま先に透明なマニキュアが光っているのに、頬が熱くなる。
夏が始まろうとしてるこの時期に、香穂の肌の白さは、日頃見慣れてる俺にとっても はっとするなまめかしさがあった。
香穂はそれに気づくことなく、きょろきょろと辺りを見渡している。
「わ、すごくいいところだね。大学からも近いし。……防音が付いてる、って本当?」
「ああ。まず上がれよ」
俺は、廊下の電気のスイッチを手探りで探しながら香穂の手を引っ張る。
香穂はヴァイオリンケースと、それに以外に、レポートで使う本が入ってるのか?
普段よりも大きな紙袋を手にしている。
「まず、入ってすぐはピアノ部屋。……この部屋は防音壁で処理してあるっていうからさ」
「うんうん」
「それで、こっちがキッチンと」
「ふふ、土浦くん、料理上手だからなあ。ほら、高校のとき食べさせてくれたチャーハン、また食べたい」
「ははっ。了解」
香穂は俺の後をついて、そろそろと見て回っていたが、やっぱり一番羨ましいと思っているのが、防音の部屋なのだろう。
何度も壁に触れたり、窓を見たりして頷いている。
そしてようやくリビングにやってくると、俺が指さしたソファに座った。
付き合い出して2回目の夏。
俺は香穂が好きなアイスティをテーブルに出すと、香穂の隣りに座る。
香穂は嬉しそうにグラスを持ち上げると、さっきの練習室の話を始めた。
「いいなあ、土浦くん。大学生になってからの方が、練習場所の確保って大変だよね。
高校の頃も大変だ、って思ってたけど、それでも高3の後期からは、吉羅理事長が頑張ってくれていたからかな。
練習室はほとんど毎日確保できるようになってたから、余計にギャップがあるっていうか……」
「ああ。まあな」
「それが大学生は、自主努力、というのかな。自分で確保してください。スタジオ、借りてください、って感じだから……。
音楽科に進む人は全員自宅に練習室があるでしょ? って考えてるみたいだね」
「ああ。それに加えて、大学生って言えばある程度バイトしろ、ってことなのかもしれないな」
「うん……」
大学に入ってからというもの、香穂は俺同様、ますます音楽にのめり込むようになった。
そしてのめり込めばのめり込むほど、自分の足りないところに目が向くのだろう。
授業と、それに、自分の小遣いのための必要最低限のバイト。
それ以外の時間は、音楽のことに割きたいと思っているのか、
このマンションを借りる前の俺と同じような悩みを抱えているようだった。
俺は朝からずっとポケットに入れたままになっていたモノを取り出す。
それは俺の体温が移って、ヘンに意志を持った生き物のようにも思えてくる。
「香穂。ほら、これやるよ」
「ん……。なあに?」
「この部屋のカギ。お前も、練習したくなったらこの部屋に来ればいい」
「え?」
──── 多分。
俺は想像していたんだと思う。いや、確信していた、とも思う。
俺が香穂にカギを見せる。手渡す。
香穂はいつもみたいに屈託のない顔で笑うだろう。そして、これもいつもみたいに、俺に身体をすり寄せてくるだろう。
その温かい身体を抱き寄せて、自分の思うがままにするのだろう、って。
だが、目の前にいる香穂は、どうにも微妙な表情を浮かべている。
「なんだ、どうかしたか?」
「えっと……。土浦くん、私、今日はもらえないよ」
「は? 今日? 何言ってるんだ、お前」
香穂はばつの悪そうな顔をして、もぞもぞと手にしていた紙袋を引き寄せて大事そうに膝に置いた。
「だ、だってね、カギって、なんだか、私が土浦くんからプレゼントをもらうみたいじゃない?」
「俺からプレゼント? ああ、まあ、そういう考え方もあるのか。別にいいじゃねえか。俺がお前にプレゼントしたって」
「えっとね、だから……。今日、私がもらうのって申し訳ない、っていうか」
「は?」
俺は最近うっとうしくなった前髪をかき上げた。
ったく、もっと喜んでくれてもいいと思うんだが……。
期待が大きかった分だけ、俺は不機嫌になる。
香穂が、俺のマンションのカギを受け取らない。
それはつまり。
俺とはこれ以上深入りしたくないって合図なのか?
「香穂。お前、俺に分かるように説明しろって」
「う、ん……」
「って、お前がこのカギを受け取る気がないって言うなら、別にいいぜ、俺は。無理強いするものでもないしな」
どうにも煮え切らない様子に、怒りにも似た感情が沸いてくる。
この部屋を借りた理由。
1番は音楽のこと。それは事実だ。
自分のやりたいことをやりたい時間にできるというのは、今の俺に必要な環境だ。そう思った。
だけど、それ以外にも。
こうしてカギを香穂に渡すことで、香穂の音楽の環境がより良いものになるだろう。
そう思っていたのも大きい。
もっと言えば。
俺が、もっと香穂との時間を必要としている。
同じように、香穂も俺を必要としている。そう信じていた部分もあったんだ。
一度香穂の手のひらに落としかけたカギを、再び握る。
なんだ。俺の計画は完全な独りよがりだった、ってことか。
「あの! ごめんね、土浦くん。あの、カギをもらいたくない、とかそういうんじゃないの!」
香穂は必死に首を横に振りながら、俺の手を握った。
「あのね。今日、土浦くんの誕生日でしょ? だから!」
「は? ……あ」
俺は壁に斜めに掛けられているカレンダーに目をやる。
ってここ2、3日、引っ越しの準備だ、片付けだ。ピアノの調律だ。
それに加えて夏休み前のレポートの準備やらで、すっかり自分のことなんて念頭になかった、か……。
黙っている俺が不安だったのだろう。
香穂は、慌てて言い訳をしている。
「そ、その、土浦くんの誕生日にね、私がプレゼントもらうのって、なんだか悪いな、って思ったの。それと……」
香穂はそう言うと、持ってきた紙袋の中から小さな箱を取りだした。
「一緒にケーキを食べながら、おめでとう、って言いたいって思ってたの。
そ、それに、ちょっとだけどプレゼントも持ってきたの。その、先に渡せたらいいな、って」
ごめんね。カギのこと、突然だったから、なんだかその、びっくりしちゃって。
もらいたくない、とかそんなんじゃなくて……っ!
半分涙目になって話し続ける香穂が。
──── なんていうか、今までで1番愛しく思えたんだ。
俺は、香穂の上半身に手を回して引き寄せる。
なんか、いろんな意味で、反則だろ。それ。
「……お前、可愛すぎ」
なのにこんなときまで香穂は、膝の上に乗っているケーキが崩れちゃうだの、
私からのプレゼントはそんなに期待しないで、だのおかしなことを言い続けていた。
*...*...*
まっさらなベッド。身体が大きいことが分かっていたし、ときどき、……そうだな。
香穂がこのマンションに来てくれるなら、あいつにも寝るところが必要だろうし。
と思って買ったベッドは、セミダブルのもの。
「香穂。……こっち、来いよ」
俺は、香穂の持ってきてくれたケーキを食べ終えると、早々にあいつをベッドの中に誘った。
こいつを抱くと、どこかほっとする自分がいる。
別に自分が最後まで行き着かなくても。
こうして俺の腕の中にこいつがいる。それだけで安心できるんだ。
って、こいつに告げたことはない。そしてこれから先も告げる気はないけどな。
「……土浦くん、19歳、おめでとう」
「……ああ」
何度も香穂の嬌声を聞いたあと、俺は香穂の上に乗って、ゆっくりと中へと熱を押し込む。
空調の冷気に晒されて、肌は次々と汗の膜を作っていく。
「香穂……。好きだぜ、お前が」
俺は今夜、何度同じ言葉を言うのだろう。
いい加減、もっと気の利いたことが言えたらとは思うが、溢れ出てくる言葉は表現は違えど、最後には、この言葉に行き着く。
こういうとき、香穂は俺の言葉を耳では聞かず、身体で聞く。
耳に注ぎ込むたび、ぴくりと身体を揺らせるところが、ひどく俺の劣情を煽っていく。
「香穂……。気持ちいいんだろ? 声、出せって」
「や……っ。恥ずかしい、よ」
「大丈夫だ。隣りには聞こえない。防音、完備してあるって言ったろ?」
「違う、の」
「ん?」
「……土浦くんに、聞かれるのが、恥ずかしい」
じわじわと香穂の弱いところを刺激する。
何かにすがるように、香穂の中は俺を締めつけては、戸惑うようにけいれんを繰り返す。
もう、何度、この身体を抱いただろう。
初めの何度かは訴えていた痛みは、もう、ないらしい。
最近では、より深い反応を返してくれるようにもなったように思う。
男は、いつも勢いを増して、女の中を蹂躙する。
それで一瞬勝ったような気にもなる。
だが、男の性には必ず終わりがあって。
そのたびに思うんだ。
男って最終的には女にかなうハズがないって。
俺は香穂の膝裏に腕を回すと、さらに結合を深くした。
香穂の弱いところを突いたのか、香穂は小さな悲鳴のような声を上げた。
本人が気づかないウチに持ち上がった香穂の腰は、俺の突く位置を追いかけて。
だけど追いかけられなくて、一人途方に暮れている。
俺は香穂の胸をすくい上げていた手を離すと、香穂の手を握りしめた。
華奢な細い指先は、ずっとシーツを握りしめていたからだろう。色を失っている。
「もっとお前の声を聞かせてくれ」
「ん……っ」
「俺が欲しいって言えよ。そうしたらお前の言うとおりやってやるから」
「ん……。そこ……」
「可愛いぜ? 恥ずかしくなんかないだろ?」
「土浦くん……。ダメ、私、もう……、もう!!」
ぎゅっと香穂の中が伸縮する。
押し出されそうな強い刺激に俺は、香穂の身体を抱きかかえて嵐が去るまで待った。
体重がかかったのか、香穂が苦しそうに身じろぎする。
って、女であるこいつが、俺よりずっと小さい身体だってこと分かってたハズなのにな。
どうしても俺が上になると、重いってのは分かってるんだが。
どうにもこういうときは、俺の身体の持っていき場がない。
俺は香穂の手を労るように握りしめる。
イクとき、思い切り俺の手を掴んでいたが、キズなんかついてないだろうな。
「ここから、か」
「はい?」
「いや……。ここからお前の音楽が生まれるんだと思ってな」
「ん……」
「悪い。ちょっと離すぜ?」
身体を支えるためにと香穂と繋がっている手を離そうとしたら、意外にも今度は香穂の手が俺の手を握りしめている。
「香穂、お前……?」
「……ここからだって土浦くんの音が聞こえる」