*...*...* Lunch *...*...*
私はぼんやりと放心したまま、白い背中が小さくなって、突き当たりの廊下で曲がっていくのを見ていた。初めて、かな? ううん。柚木先輩が私の教室に脚を運んでくれたことは何度でもあるはず。
なのに。どうしてこんなに慌ててるんだろう、私。
── あ。そうか。私の頬がこんなに熱いのは……。
つきあい始めてから、初めて、柚木先輩が教室に来てくれた、から?
「あら、日野さん? チャイムが鳴ったのは聞こえましたか? 早く席につきなさい」
「あ、は、はい! ごめんなさい」
放心、っていうのは本当に言葉通りの行動だったみたい。
私は次の授業の先生が教壇に上がったのにも気付かずに、柚木先輩がいなくなったあとの廊下に立ちつくしていた。
クラスメイトの関ちゃんと木村ちゃんが小声で話しているのも聞こえてくる。
「ひゃー。それにしても綺麗なお顔だったねえ。柚木先輩って……。私、女でいてごめんなさい、って感じ?」
「あまり近くで見ること、できないもんね。それにしても、美形過ぎる」
「あの容姿で、成績も普通科押さえてトップなんでしょ? 星奏自慢の貴公子だね」
「天は二物を与えずなんてウソだね。ファンクラブもできるってワケだ。私も入会しよっかなー」
「よし。関ちゃん。一緒に入ろう? ね、ね?」
私は聞こえないフリをしながら、慌てて自分の席についた。
教科書やノートの類を何も出していない机は、どうしたの? とても言いたげに私を見つめている。
う……。元々音楽科メンバーさんの中での柚木先輩の評判は知ってた。
昼休み、柚木先輩に飲んでいただくためのお茶を淹れる、『柚木当番』っていう分担がある、ってことも。
でも、それは、主に音楽科の中に閉じていたお話、だったのに。
こうして普通科の中にも、柚木先輩のファンが増えてくるっていうのは、正直複雑、かもしれない……。
急いで机の中の教科書を出す。この授業は古典。加地くんの大好きな教科かな。
隣りの席にいる加地くんに、このページ? と目で聞くと、加地くんは大きく頷いてくれた。
よし、……関ちゃんたちの声をシャットアウトすべく、授業に集中しよう。
「この章は次の、平家の滅亡と共に、安徳天皇も海の藻屑に消えた、というお話に繋がりますね。……さて、次に……」
先生の声が遠く近く聞こえる。
まだお昼前。そんなにお腹が膨らんでいるわけでもないのに、しっくりと私の頭に入ってこない。
柚木先輩……。
去年のコンクール。そしてコンサートを経て。
コンサートホールのクリスマスツリーのそばで、アンティークのブローチをもらった。
迎えの車を返した柚木先輩と、一緒にたくさんの話をして。
ヤドリギの下で抱きしめられたことは覚えてる。その後の、柔らかい唇の感触も……。
な、なに、勝手にドキドキしてるんだろう。
朝見た柚木先輩も、さっき教室まできてくれた柚木先輩も、去年と全然変わらないのに。
一度重なり合った口元が直視できない、なんて……。
いくらなんでも子どもっぽすぎる!
実際の年齢より、大人びて見える柚木先輩と。実際の年齢より、かなり子ども度が高い私とじゃ、最初から、勝負は目に見えてるのかもしれない。
(って、バカバカ。なんの勝負なの……)
自分の考えに自分でツッコミを入れながら、教科書を見つめる。
目に映る文字はまるで頭に入らない。
ああ、どうして国語の教科書は、音譜みたいに横書きじゃないんだろう。
「香穂さん? ……これなんていい写真、だね?」
「は、はい!?」
「ふふっ。香穂さん、もう少し静かに」
横の席から小さな声がする。
はっとして振り返ると、加地くんの教科書の上には、さっき天羽ちゃんが持ってきてくれたコンサートの写真が置かれていた。
「あ、これ……。あれ? 私1人の写真?」
私がメインに映っている写真は、誰がメンバーかわからない。
端っこに見切れてる衣装の色から、加地くんがメンバーに入ってるのはわかる。
「ああ。これ? これは、最後の曲だよ。『ルスランとリュドミラ』序曲。良かったよね」
「ん……。加地くんも素敵だったよ? 弦が3人揃うと迫力あるよね?」
「そうだね。僕、香穂さんのヴァイオリンの音を拾う才能には自信があるんだ」
「あ、ありがとう……」
本当に。年末を隔ててなければ、ほんの数週間前のことなのに。
あまりにたくさんのことがありすぎたせいかな。想いが重なって、厚い層になっている今は、
クリスマスコンサートの出来事が磨りガラスの向こうの出来事のように曖昧に見えてくる。
でも、天羽ちゃんが言ってたように、一緒にコンクールに出たみんなの力で、学院の分割が阻止できたのなら、
こんなに嬉しいことはないよね。
写真の中の私は、必死にヴァイオリンに語りかけるように弓を動かしている。
視線の先に楽譜はない。
少し横を向いて。微笑みながら引いている。頬が朱いのは最終曲に入って、身体が熱くなってきたからかな?
「あれ? この写真の私、どこを見て演奏してるんだろ……?」
天羽ちゃんったら、どうしてこんな写真を撮ったのかな?
── 私だけ、切り取ったような、不思議なズームの仕方だった。
「ヒント。── この曲だけ、フルートが入ってないんだよね」
加地くんは、教壇の先生が黒板に向いたところで、私の方に身体を向けるとそっと耳打ちした。
「ん……。入ってない、よね? 確かに……」
『ルスランとリュドミラ』序曲は弦3本と管とピアノ。管は冬海ちゃんだ。
「フルートさんは、袖に隠れて、君を見てる、と。……どう? これで分かった?」
「えっと……」
ん……。確かにこの選曲は、柚木先輩は演奏者に入っていない。
えっと……。どういうこと??
ワケがわからない、といった私の表情を見て取って、加地くんは、ため息混じりに笑った。
「── 願わくば、君の視線の先には、僕という存在があって欲しかったけど、ね?」
*...*...*
「あれ? えーっと、ここで良かったっけ……?」私はお弁当が入ったトートバッグを手に屋上に向かった。
あれ、確か約束はこの場所だったよね。
背後では、鉄製のドアが自身の重さに引っ張られて、鈍い音を立てた。
どこだろう……。柚木先輩。
カラカラと風見鶏が、海の中を泳いでいるみたいに揺れている。
どうか、お昼の間の1時間は、あまり冷たい風が吹かないといいな。
いつみても余裕たっぷりで、柚木先輩だけを見ていると、柚木先輩が受験生であることを忘れてしまいそうだけど。
先輩が受験の間は、どうか風邪を引いて欲しくないな、と思ってしまう。
合格祈願のお守りは、それこそ神様同士がケンカしちゃうくらいもらってる、って聞いたことがあるから。
私は、先輩の体が温まるような、紅茶を用意しようかな。
今の季節、どんな茶葉があるか、今度お店に行って調べてみよう。
「柚木先輩……。いない……?」
見晴らしのいい屋上。
どこにも柚木先輩の気配がないってことは、私、勘違いしちゃったのかも。
「── 香穂子」
「わ!!」
踵を返してドアに向かおうとしたとき、突然、背後から抱き寄せられる。
と思ったら、耳元で甘い声がする。
でも私の身体は、音よりも敏感に、柚木先輩の香りに気がついた。
クリスマスのヤドリギの下で、抱きかかえられたときの香り。
この人が好きだ、という事実を再認識させられた、あの日……。
「あ、あの……っ。柚木先輩……?」
「ふふ、どうしたの? そんなに驚いて」
「だ、だって。驚きました。柚木先輩のこと、ずっと探してたんだけど、見つけられなかったから……」
「風が強かったからね。当たらないところで本を読んでいたんだよ。ちょうどお前からは死角だったかもな」
「ん……」
「俺を捜してる様子があまりに可愛かったからね。つい懐に入れたくなったんだよ」
身体に回された腕が、だんだん輪を小さくしていく。
── 後ろから、で良かった。背中から、で。
こんなに赤らんだ顔を見られなくて、良かった……。
私は小さく息をつくと、回された手に触れる。
── 初めて触れたのは、去年のクリスマスコンサートの夜だった。
……不思議。キスをすることで、人と人とはこんなに、近しい存在になれるの?
柚木先輩は私の身体を正面に向けると、つむじに軽く口付けて言った。
「そうだ。お前に聞こうと思ってたんだけど、お前、この春、音楽祭に行く気はある?」
「音楽祭、ですか?」
「3月から4月にかけて行われる市の音楽祭。興味があるなら連れて行ってやりたいと思ってね」
「え? いいんですか?」
今は、1月。
これから柚木先輩は受験があって、卒業があって、入学がある。
私にとっては遠い先だと思っていた頃の約束ができる、なんて。
── これからも先も、柚木先輩と一緒にいられる、って約束ができた、って。
私は緩みきった頬を隠すように片手を当てた。
── どうしよう。すごく嬉しいかも……。
「香穂子?」
「あ、はい! あの、……行きます。行きたいです!」
「……本当にわかりやすいヤツだな、お前は」
「あ、はは……。わかっちゃいましたか? あ、でも、あの……っ」
「なに?」
「その音楽祭、もし3月開催、だとしたら、先輩、受験で行けないかもしれませんね……」
少しがっかりして尋ねる。
そうだよね。受験生なんだもの。音楽が大切、と言っても、この時期、受験生は、受験が一番だもの。
仕方ないことだけど……。
「言っておくけど、余計な心配は無用だよ?」
目の前の人は、私のお弁当を手に取ると、ベンチへといざなう。
私は引っ張られるままに一番日当たりのいい場所に腰を下ろした。
風のない冬の日差しは、一瞬でも小春日和のような暖かい空間を提供してくれる。
「ん……。でも、受験、って18歳の中で一番のイベントって思います」
私の言葉に、柚木先輩はおやおやと言いたげに目を丸くした。
「日頃の行いのいい俺は、今更焦って勉強すること、ないの。
逆に今、焦ってるヤツは大抵が受からないんじゃないかな?」
あまりの自信たっぷりな様子に、私は思わず吹き出した。
そうだよね。柚木先輩なら……。元々賢い人だから、受かるに決まってるよね。
私が、心配、しなくても。でも、でもね。
── どうか合格しますように、って心の中で祈るのは、許してくれるよね。
「それより今は食事の時間なんだ。ほら、お前も食べろよ」
「あ、はい。いただきます!」
美味しそうなモノを見ると、自然に顔が緩むのは私のクセ。
今日は、新学期初日、ということもあって、気合いを入れて作ってきたお弁当。
ふたを開けるとそれは、柚木先輩と私の間で、嬉しそうに出番を待っているみたいに、鮮やかな色を見せてくれる。
「美味しい。お姉ちゃんの作る だし巻き卵って絶品なんです」
ぱくり、と、だし巻き卵を口に入れる。柚木先輩にも食べて欲しくて、私は我に返った。
まさかこうして柚木先輩とお昼を一緒にするとは考えていなくて、フォークは1本。
先には私の食べかけのだし巻き卵がある。
「あ、あの、ちょっと待ってくださいね」
とりあえず、食べかけのだし巻き卵は私の口の中に放りこんで。
えっと、クロスの端で、フォークの先を拭いて渡して、食べてもらえば、いいかな?
「……わ! な、なにするんですか??」
口に含もうとした瞬間、手首を捕まれ、だし巻き卵は柚木先輩の口に収まる。
「ま、待ってください、って言ったのに……っ。私の食べかけ、ですよ〜〜!!」
男の人としては、華奢で優美な人、って印象しかなかったのに。
私の手首を握る力は、思っていた以上に強く、まるで自分の思い通りにならない。
目の前の人はこれ以上なく甘い顔をして微笑んだ。
「……だから、もらったんだけど。何か文句でもあるの?」