*...*...* Beginning *...*...*
 冬休み明け、最初の登校日。
 俺は予定より5分早く車に乗り込むと、大きく息を吸い込んだ。
 ひんやりとした冬の空気が喉を刺激する。大学入試ももう、目前に来ている。
 受験だからといって勉強の仕方が特に変わるわけでもないが、まあ、体調管理だけは、より万全を期した方がいいだろう。

「おはようございます。梓馬さま。空調はいかがでしょうか?」
「ありがとう。特に問題ないよ」
「……もう少しでございますものね」
「ああ。そうだね」

 目的語を告げなくても、思い浮かべるモノは同じだからか、田中はバックミラー越しに引き締まった顔を見せている。
 無口すぎるほど無口な男が、最近変わったような気がする。
 そう気づいたのは香穂子を乗せるようになってからか。多分、あいつのおせっかいが田中にも伝染したのだろう。
 さりげない日常の会話を1つ、それに香穂子に関する会話を1つ。
 無骨な調子で話しかけてくる。それに加えて、今日は受験の話、か。
 その主家思いの心根はありがたいとは思うけど、受験するのはこの俺だしね。
 田中がそれほど心配はしなくても、多分、なんの問題もなく、俺は来年大学生になる。

 けれど、田中の思いを、案外、嬉しく聞いている俺もいたりする。
 ったくな。田中といい、火原といい、── 香穂子といい。
 俺みたいな人間に、どうしてこんないい人間らが集うのだろう。

「ああ。これからすまないけど、僕が卒業するまでの間は、香穂子の家まで迎えに行ってやってくれるかい?」
「は。日野さま、の」
「この季節は冷え込むこともあるからね。あいつに風邪でも引かせては目覚めが悪い」
「は。かしこまりました」

 田中は俺の言葉に頷くと、ウィンカーを出し、慎重に左レーンに車体を寄せていく。
 この角を曲がれば香穂子の自宅に着く。

(いた、か)

 香穂子は前日に伝えておいたとおり、自宅の門の前で準備をして立っていた。
 ベージュ色のコートに、ふわりとした素材の白いマフラー。手には手袋。
 そうだった。
 クリスマスコンサートが終わって、真っ先に俺が香穂子に贈ったものは、手の形にぴったり馴染むクリーム色の手袋だった。
 ほんの1年前にはまるで音楽に携わってなかった人間らしく、香穂子は指先には全く気を遣わない。
 放課後、クラスメイトと一緒に掃除をしたり。家に帰れば今まで通りに包丁を持って料理をする。

 せめてこれからは、ヴァイオリニストとしての自覚が生まれればいいのだが。
 俺の贈り物から、俺が何を望んでいるか……。
 なんてことを、悟る機微でもこいつにあれば、俺もこれほど苦労しないに違いない。

「おはよう、香穂子。待ったか?」
「ううん? おはようございます。柚木先輩。寒いですね、今日も……」

 口ではそう言いながらも、香穂子の頬はたった今まで、火の近くにいたんじゃないかと思えるほど、朱く輝いていて。
 俺は我もなく、じっとその様子を見つめていた。
 ── 数日会わなかっただけで、これほどこいつが可愛く映るなんて、俺もどうかしている。

 俺たちを乗せた車は、するすると学院の人波を追い越していく。
 車内から、外が簡単に見通せるということは、それだけ外から車内の様子も簡単に把握できるだろう。
 それに香穂子は、俺の隣りに座っている、ということもあって、簡単に抱きしめることもできない。
 ……まあ、楽しみは夜にお預け、といったところかもしれないな。

「ああ、そう言えばお前、天羽さんの記事を読んだ?」
「え? 天羽ちゃんの……?」
「クリスマスコンサートのことが書かれてたよ。彼女らしい派手な見出しでね」
「私、まだ見てないです。えへへ、なんて書かれてるんでしょうね」
「『吉羅理事長の学院分割案、撤回! メンバーの起こした奇跡』だったかな?」
「わ、なんだか、恥ずかしいですね……」

 香穂子は身体を小さくすると、口元に微笑みを浮かべたまま、そっと膝の上のヴァイオリンケースを撫でた。
 ── 本当に、な。
 確かに、奇跡と言ってもおかしくはないほどの、充実したクリスマスコンサートだった。
 月森や土浦。1年生の志水くんや冬海さん。それに、香穂子と火原を加えて。
 俺たちの演奏は、学院全体を動かした。そのコンクールメンバーの中心にいたのが、この香穂子だった。
 全く……。
 この華奢で、おとなしいばかりの女の子に、どうして、これほどまでの力が備わっているのか、今も不思議だ。
 こいつは、ほんの1年前まではヴァイオリンにも触れたことがなかったのに。

 春先のコンクールで初めて、ソロを体験して。
 そして秋からは、やったことのないアンサンブルを取りまとめ。
 その2つとも華麗なまでの成功を収めたのは、ひとえにこいつの人柄……。
 ── 手を差し伸べてやりたい、という気持ちにさせる、こいつの性格によるものだったと思う。

 それは俺だけにとどまらない。犬猿の仲だった、月森と土浦も。ぼんやりとしてばかりいる、志水も。

『わかんないんだよ。おれね、香穂ちゃんがいるだけで頑張れるような気がするんだ』

 と、笑う火原も。── そして俺も。
 香穂子には、俺のできる、できるだけのことをしてやりたいという気持ちになっていたのだから。
 俺は香穂子の唇を見つめ続けた。
 クリスマスの晩、1度だけ触れあったことのあるそこは、自分が何度も反芻した思いでの中よりも、さらに美しく、艶を増している。
 香穂子を車に乗せてからの時間は短い。
 俺は、スカートの下からすっきりと伸びた脚に触れることなく車から降り立つと、香穂子に向かって笑いかけた。

「さ、降りて。今日もお前にとっていい日になるといいな」
*...*...*
「火原先輩ー。柚木先輩も! ちょうど良かった! お二人とも、捜してたんですよーー。
 ほら、写真。思い出が色褪せる前に、色褪せない写真をプレゼント、なんて、キャッチコピーをひっさげてやってきました」
「あ、天羽ちゃんじゃない。どうしたの、音楽棟まで」

 授業の合間の少し長い休み時間。
 やけににぎやかな声が響く、と思ったら、天羽さんが大きな茶色の封筒を手に、3Bの教室まで走ってきた。
 肩にはいつものカメラがぶら下がって揺れている。

 ……ということは、なに? 普通科棟から音楽科棟へ行く間にも、なにかネタがあるとでも思っているのだろうか。
 俺は推察する。……これは天羽さんのただの習慣。クセなのかもしれない、か。

 俺の斜め後ろの席にいる火原は、勢いよく立ち上がると、俺に頷き返して、教室のドアへと向かった。
 俺は、火原とは反対のゆっくりしたペースで立ち上がると火原の一歩後をついて、教室を出る。
 緩と急。凹と凸。
 性格もペースも違う俺たちが3年間親友でいられたのも、よく考えれば不思議な縁かもしれない。

「どうしたの、天羽さん」
「はい。クリスマスコンサートのお写真です! これは火原先輩の分、これは柚木先輩の分、です。
 焼き回しも受け付けるので、欲しい写真があったらお申し付けくださいね」
「え? 天羽ちゃん、いいの?」
「ええ。なんて言ってもみなさんは、学院分割撤回のメンバーですよ〜。これくらいのサービスはさせてくださいよ」

 火原はさっそく封筒の中を確かめると、次々と写真をめくっていったが、思っていたよりも枚数が少なかったらしい。
 屈託なさそうに俺の手元を覗き込んだ。

「って、あれ、って、おれと柚木の写真、枚数が違う……?」
「あー、そうですね。基本的に本人さんが映っているのだけ、焼き回したんです。だから、人によって多少違うかも。
 加地くんなんて、自分の映ってない写真も全部欲しいから、とか言って、私、30枚近く焼き回したんです」
「ふふ、そうなの?」

 俺は封筒の中から、1枚ずつ、写真を確かめていく。
 ちょっと澄ましたように微笑んでいる俺は、自分じゃないような不思議な違和感があった。
 だけど、高校生活もあと数ヶ月だ。わざわざ張り付いて一体化しているような仮面を剥がす必要もないだろう。
 一際、背景が暗い写真がある。ああ、これは、舞台袖の写真、か。
 ── 香穂子と2人で映っている写真。
 2曲終わった幕間のときのこと。
 今まで淡々とヴァイオリンを奏でていた香穂子は、聴衆の拍手に怖じけづいたように、不安そうに俺を見上げてきた。

『大丈夫だ。── 俺がちゃんと合わせてやるから。お前はお前の音を作ればいい』

 なだめるようにそうつぶやいても、香穂子の震えは止まらなくて、俺は黒いカーテンの影で香穂子の手を握った。
 写真はそんな2人の上半身だけを映している。
 けれど、映っていない下半身はもっと密接しているんじゃないかと想像をかき立てられるような熱い空気を醸し出している。
 まさか、ね。こんなところを撮られていたとは考えてなかったけど……。── この写真も悪くない。

「あれ、どうしたの? 柚木」
「ちょっと、用事。遅くなったら火原、言い訳をよろしく」
「あ、柚木!」

 俺は、胸ポケットに封筒を滑り込ませると、そのまま普通科棟へ向かった。
 棟も違う。階も違う。
 もしかしたら、休み時間はそれほど残っていないのかも知れない。
 だけど、天羽さんがくれた写真について話をすることは、今、一番俺がやらなくてはいけない事象のように思えた。

 香穂子のクラスは、自習の前だか後だかで、もう大分前から休み時間が続いているような、ざわめいた雰囲気があった。
 深緑色の制服の並の中、イヤでも音楽科の白い上着は目立つ。
 生徒たちは、まず、白い制服に目を留める。そして、タイを見て、また驚く。
 さらに、俺の髪と顔を見て、甲高い声を上げる人間までいる。
 ── ま、こういう反応には慣れているけど。

 俺は何も気づいていないような澄ましたフリをして、香穂子のクラスの一番廊下側の席の子に話しかけた。

「ごめんね。呼んで欲しい人がいるんだけど。いいかな? ── 日野さん、今、教室にいる?」
「え? わ! 柚木先輩!?  ほ、ホンモノ……?? か、香穂子。香穂子ーー! ゆ、柚木先輩が来てるよ!」

 香穂子、と呼ぶからにはかなり香穂子と親しい子なんだろう。顔にもどこか見覚えがある。
 香穂子はきょろきょろと声の主を捜している。そして俺の姿を認めると、弾かれたように席から立ち上がった。

「柚木先輩? どうしたんですか? こんなところまで……」
「ふうん。用がないと来てはいけないの? それは寂しいな」
「あ、いえ。その……。そういうわけじゃなくて……」

 つい2人きりでいるときと同じ口調になりかけて、俺は適当に取り繕って微笑んだ。
 香穂子は俺の一瞬の表情を見逃さなかったのだろう、火照らせた頬をなだめるように指を頬に当てている。

 香穂子の後ろにいる、たくさんの普通科の学生たち。
 こいつらは、香穂子と一緒に授業を受けて。一緒の時間を過ごして。
 ── そして、これから1年先まで香穂子と同じ時間を共有することができる。

 日頃、とかく他人のことをそれほど羨ましいと感じることはなかったのに。
 時間という残酷な隔たりの中では、俺は純粋に彼らがねたましく感じる。

「ごめんなさい。何か用があったのかなあ、って思って」

 香穂子は俺の意地悪を柔らかく受け止めると、笑って俺を見上げた。

「ああ。天羽さんからコンサートの時の写真をもらったんだよ。よかったら、君のも見せてくれないかなと思って」
「あ、私もさっきもらいました。まだ全部は見てないんですけど……。はい。よかったら、一緒に見てください」
「そう? じゃあ、今日のお昼は一緒に取ろうか。屋上にいるから、急いでおいで」

 俺の口調に何かを感じたのだろう。香穂子は心から嬉しそうな顔をして頷く。

 ── ここが、ざわめいた、普通科棟の廊下で良かった。
 もし、密室で。または、誰もいない屋上で。もっと、時間にゆとりのある車内で。香穂子の部屋や、俺の家だったら。

 ── 俺は香穂子のたゆたいにも構うことなく、腕の中に抱え込んで、離さなかっただろう。
 そして、俺の髪の香りが香穂子に移るまで、ずっと手元に置いて触れ続けていたに違いない。

「あ、失礼……。って、柚木さんじゃないですか」

 俺たちの横を、すっと華やかな影が差す、と思ったら、聞き覚えのある声がした。

「ああ。加地くん? 久しぶりだね」

 振り返ると、加地が大きな紙袋を抱えて、教室に戻ってきたところだった。

「わ、加地くん、どうしたの? すごい荷物だね」

 香穂子は、不思議そうに加地と紙袋を交互に見つめている。

「ふふっ。天羽さんに直談判。コンサートの写真、全部買い占めちゃったんだ」
「え? 全部?」

 香穂子は首をかしげている。
 俺は自分がもらった写真を思い返した。
 確か、俺の写真の中には、香穂子と俺の2人きりの写真を初めとして、火原と俺、というパターンや、加地と俺、というパターンも存在している。
 コンサート全部の写真、ということは、さっき俺が見ていた、舞台袖の写真、香穂子2人きりのそれを加地は見る、ってことになるのか。
 鋭いこいつのことだから、俺と香穂子との関係にはすぐ気づくだろう。

 ……まあ、それも『牽制』という意味で解釈すれば、悪くない、か。

 加地は、香穂子に微笑みかけると、大きく頷いている。


「だってさ。全部買い占めれば、香穂さんの写真を全部僕が見ることもできるでしょう?
 なんて言っても僕、香穂さんのファン第一号だ、って自称してるんだから」
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