*...*...* Limitation *...*...*
「ああ、お前か。そうだ、お前にこの楽譜を渡しておくよ『牧神の午後への前奏曲』」
「わ、ありがとうございます……。せっかくだから、今から2人で練習、しませんか?」
「今から?」
「はい!」

 どうしよう。どうしてこんなに嬉しいのかわからない。
 確実にわかっているのは、さっきまで氷のように冷たかった指の中にどんどん血が通って、暖かさを取り戻してる、ってこと。

 ── 柚木先輩が、これからも音楽を続けてくれる。

 『両立させてみせるさ。この俺ならできるだろう』
 瞳は強い意志を秘めながらも、口調はいつもの皮肉さをたたえて、柚木先輩は自分の進路を教えてくれた。
 も、もう……っ。どうしよう。自分のこと以上に嬉しい。

「場所は決めてあるの?」
「あ、……そうだ、私、ちょうど4時から練習室、予約してあったんです。そこにしましょうか」

 私は右手につけた腕時計の文字盤に目をやる。わ、4時まであと5分しかない。

「まあいい。……お前のヴァイオリンに浸るのも悪くない気分だ」
「はい。ありがとうございます」

 私は小走りで音楽室の螺旋階段を駆け上がると、柚木先輩を振り返った。
 どうして、こんなに暖かい気持ちが浮かんでくるのか。
 そうだ……。私、ずっと知ってたからだ。

 今、私の後ろをゆっくりとついてきてくれるこの人が、本当は誰よりも音楽を大切にしてきたこと。
 無邪気にトランペットを奏でる火原先輩を応援しながらも、ふと寂しげな表情を見せること。

 楽器に真剣に向かってる音楽科の人たちの中で、時折、自分の立ち位置を確認しているような素振り……。
 たとえば、音楽で生活していくのは難しい、だとか。留学をしてまで音楽で生きていこうとする月森くんを見る冷めた目だとか。

 それらは、全部、100パーセント音楽に浸ることのできない彼の家の重みが、柚木先輩をそうさせていたんじゃないか、って。

 それが。
 高校を卒業する春、自分が進みたいと心から願った道へ、今、この人は向かおうとしている。
 しかもその道は、私が求めている道でもあったから……。

 どうしよう。── 嬉しさが止まらないよ。

「……って、どうしてお前がそんなに嬉しそうな顔してるの?」

 練習室のドアを開ける私を、柚木先輩は呆れ顔で見ている。

「だって、嬉しいんだもの」
「は?」
「先輩が嬉しそうな顔、してるから」
「── 物好きだな、お前は」

 先輩の呟きも聞こえないふりをして、私は早速 楽譜台を組み立てる。
 あ、そっか。今日はピアノ練習じゃないから、2台要る。
 さっき、柚木先輩からもらった楽譜を開く。
 去年のクリスマスコンサートの時にも練習したこの曲には、細かいメモと、吹き出し。
 ヴァイオリンパートと、フルートパートの楽譜もばっちり整っている。

 ワクワクが止まらない。  今の私なら、この曲をどんな風に奏でるだろう。
 私は柚木先輩を見上げて言った。

「今日はこの曲にしましょうか? 今の私のレベルでも十分弾けますし」
「悪くないね」

 柚木先輩は手慣れた様子でフルートを組み立てている。
 この人がこうやって楽器を愛おしんでいる様子を見るのは、もうあと数ヶ月しかないんだ、なんて思ってた自分を遠いモノに感じる。

 これからも……。
 そう。私に伝えてくれたように、柚木先輩はこれからもフルートを続けてくれるんだ。
 ってことは、彼のこんな様子を、ずっと見ていられるってことだよね。

 嬉しさを隠すようにして、私はヴァイオリンを取り出して弦の強さを確認する。

 G弦が少し緩んでいる。湿度が高い夕方。今日の夜には雪になるかもしれない。
 土浦くんも、天気予報の前に、まず自分のピアノの鍵の重さをチェックするって言ってたっけ。
 だとしたら、弦組の月森くん、志水くん、加地くんも、楽器に触れることで、自分なりの天気を予想しているのかもしれない。

 火原先輩や、冬海ちゃんたちはどうなのかな? 今度会ったときに、聞いてみよう。

 柚木先輩は、譜面台に置かれた楽譜の全ページに目を通すと、愛おしそうに最初のページを広げた。

「香穂子。……俺たちの時間は有限だ、ってこと、わかってる?」
「はい? ゆう、げん……?」
「そう。……いつかは、終わる。俺たちがここにいたことさえも、なくなってしまう」

 そういうと目の前の人は、伏し目がちにフルートのジョイントを見つめている。

「先輩……」

 自分の存在がもどかしい、って感じるのはこういうときだと思う。
 きっと今この瞬間にも柚木先輩は何かを識別し、認識し、自分の中で結論づけていく。

 ── また、私は1人で取り残される気がするのは、どうしてなんだろう……?

「ま、ともかく、時間ばかりかけたって、いい練習にはならない。時間と技術は比例しないってことさ」

 教えるように、諭すように。
 柔らかな目の光の中には、私への優しさに溢れていた。

「だから、お前、今は練習に集中しろよ。── あとでかまってやるから」
*...*...*
 帰り道の車の中。
 結局、この日の練習は、久しぶりの選曲だったということもあって、週末にもう一度一緒に練習をしようという話になった。

「あ、ありがとうございます…。だけど、あの、大丈夫ですか? 受験……。来月ですよね?」
「なに? お前が俺の代わりに受験してくれるの?」
「はい? な、なに、言ってるんですか……。そんなことしたら受かるモノも落っこちちゃう!」

 慌ててそう告げると、柚木先輩は声を上げて笑った。

「だろ? ── せいぜいお前は、今度のアンサンブルのことだけ考えてろよ」
「はい……」

 そうだよね。
 なにも私が心配なんてしなくても、この人なら、初めての大学受験も、人生の中で何度も経験している朝ご飯の後のハミガキみたいに、淡々と こなしていっちゃうんだ。

「そういうお前は? 休みの日とか、何をしてる? やっぱり練習か?」
「あ、はい。そうですね……。今は、ううん、2年生になってからはヴァイオリンばっかり触ってます」
「……そう」

 柚木先輩は、ふっと小さく笑うと、窓の外に顔を向けた。
 暗がりの中、うす白い面輪が、どんどん対向車の灯りを追い越していく。
 ……うう。もっと、その、色っぽい、というか、女の子らしい答え方をした方が良かったのかな?

「香穂子?」
「えーっと、そうだ。あの、柚木先輩は、お休みの日は何をしてるんですか?」
「そうだな。俺は花を生けたり、気分転換に散策したり、かな?」
「え? 受験勉強、はしてないんですか? あと1ヶ月もないですよね?」

 えーっと……。
 私はお兄ちゃんやお姉ちゃんが受験生だったときのことを思い出す。
 お姉ちゃんは高校に入ったときから姉妹校の短大に行く、って決めていたから、家の中は穏やかだった。
 お正月もいつも通り、過ごした。

 けど、お兄ちゃんは……。
 本当の実力よりもかなり上の大学に行きたいと決めてから、お母さんは食べることから空調にまであれこれと気を遣ってて、家中、ピンと見えない糸が張られたみたいな冬だった。
 ── 晴れて合格してからは、格好の笑い話にはなったけど。

 私の様子を見て、柚木先輩は、やれやれといった風に首をすくめた。

「俺は受験のために特別なことはしていないよ」
「えっと、でも……。志望校の傾向、とか対策、とか」

 さっき教えてもらった柚木先輩の志望校は、全国でもかなりのレベルの大学だと思う。
 それを……?
 以前、火原先輩が、音楽科は3年になると数学と理科がなくなるって言ってたことがあったっけ。あ、社会も。
 ってことは柚木先輩は、授業でやっていない範囲も独学で修めて。
 それでいて、こんなに余裕があるの……?

「ま、模試は定期的に受けるようにしているかな。
 どんな切り口で自分の実力を試されるのだろう、って知っておくのは悪くないから」
「そう……、ですか」

 なんだか、わかったようなわからないような答えで、私は返答に困って、窓の外を見た。
 冬の空気の中、車のテールランプが連なってる。あれ? なんだかすごく渋滞しているような……?

 私の沈黙を察したのか、運転手の田中さんが軽く咳をすると口を開いた。

「申し訳ありません。梓馬さま。工事の関係か、ちょっと渋滞が続いております。
 この分では、歩いてお帰りになられた方が日野さまもお早かったかと思います」
「いえ、あの……。私こそ送っていただいてすみません」

 車のスピードがゆっくりになったからか、日頃目に入らないモノが飛び込んでくる。
 柚木先輩は、窓の外に目を遣ると、何かを思いついたかのように私に笑いかけてきた。

「ほら、香穂子。見てごらん? ほら、そこのショーウィンドウに並んでるタイなんて洒落てるね」
「え? あ……。はい」

 柚木先輩の視線の向こうに目を遣ると、そこには、ヴァレンタイン用のラッピングと、チョコ。
 それに、小さくスポットライトを浴びたネクタイが3本見えてきた。そっかー。お正月がすんだら、もうヴァレンタインなんだ。

「お前、俺に似合うのはどれだと思う?」

 三択みたいで楽しくて、私は、真ん中の1本を指差した。

「えっと、じゃあ、あの花柄なんてどうですか?」

 光沢のある黒地の中に、小さな桜の花びらが、目立たないように描いてある。
 よく見かける柚木先輩の私服も、シックな黒。
 それにこのネクタイを付けたら、白いシャツがより清潔感のある白に見えるだろう。

 こんなに風が冷たく、寒さが厳しい時期だけど。
 柚木先輩が大学に合格して、学院を卒業していく季節は春。
 ネクタイと一緒に、そんな春を待っているのも幸せな気がした。

 ところが柚木先輩は、ガラスを指で弾くと、眉を顰めた。

「花柄、ね。別に嫌いじゃないが、似合うと想われてるのは複雑だね」
「え? そうですか? 可愛いのに……」

 見上げた先にある顔は意地悪く微笑んでいる。

「ま、お前の意見はありがたく聞き流すとして……。その奥にある、和柄のタイ、色合いに品があっていいね」
「って、聞き流さないでください!」
「あれにする。お前、今度俺の買い物に付き合えよ?」

 ちょ、ちょっと、待って……。えっと、一生懸命自分の意見を言った私って一体……。
 私は、ムキになって言い返す。

「なんか、ズルいです。最初から答え、決まってたんでしょう??」

 柚木先輩は、私が怒るのも想定内、といった様子で笑っている。


「……ったく。── からかいがいのあるお前が好きだよ、って言ったら、またお前は怒るのかな?」
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