*...*...* Future *...*...*
「あの……。ごめんなさい」
「なに?」
「あのね、……突然なんですけど、私、オーケストラのコンミスを引き受けることになっちゃったんです」

 香穂子と過ごす初めての冬。
 去年の暮れとは違う。アンサンブル練習や、仲間との取りまとめもなにもない放課後。
 ま、多少の気がかりとして、3年生なら受験、という大きな行事があるが、今の俺にとってみればさほど重要な問題ではない。
 そもそも今更あくせくしなくても、合格圏内は確実に手中に収めていることもわかっていたし。

 それよりも、俺は香穂子の進路の方が気になっていた、とも言える。
 近い将来、本気で音楽の道を進む、というのなら、それなりの対応をしなくてはいけない、か。
 とすれば、受験勉強以外の時間は、香穂子と音楽に費やすのも悪くない。

 そう思っていた矢先、香穂子が血相を変えて俺の後を追いかけてきた。

「は? あのね、具体的に聞いて欲しいなら、ちゃんと筋道を立てて説明しろよ」
「そうなんですけど……。なにがなんだか。吉羅理事長に呼ばれたら、都築さんに会って。
 それで、コンマスを君に、って言われて……」
「……春のコンクール然り、秋のコンサート然りだな。
 お前って勧められたら、とりあえずなんでも受け入れるのか?
 ああ、もういい。最後に俺がまとめてやるから、話せるだけ話してみろよ」
「はい。あの、さっきね……」
「少し落ち着いて。ああ、そうだ。このままカフェテリアにおいで。
 とりあえず話さないとわからない。人なんて、話したって分かり合えないことも多いのだから」
「はい……」

 香穂子は、直前に起きた事柄に気を取られているのだろう、俺の言うがままにぼんやりと脚を進めた。
 俺は香穂子の好みの飲み物を手にすると、香穂子の背を押した。

「ほら、これでも飲んで。……ああ、俺の? いいよ、お前のを分けてもらうから。
 ……で? 時系列に沿って言ってごらん?」
「はい。さっきね、吉羅理事長に呼び出されたんです……」

 香穂子の話は続く。
 香穂子にはまだリリの存在が見えること。
 そんな香穂子になら音楽の才能があると吉羅理事長は判断したということ。
 市の音楽祭にコンミスとして参加すること。
 そのために、指揮者、これが都築さん、というのか、彼女が香穂子に課題を出した、と。……そういうわけね。

「つまり、当面の目標は、吉羅理事長の就任式までにアンサンブルを1曲完成させる、ということか」
「はい……。あ、でも、コンミス、は……?」
「当面の目標、って言っただろう? そこをクリアしないことには、コンミスっていうのはあり得ないんだから、今は気にしないの」
「はい……。って、できるんでしょうか? 私に……」

 今となっては、すっかり姿を消したように思っていたリリが、香穂子と吉羅理事長にははっきりと見えるという。
 科学的にはまるで信用できないファータという存在を、俺も、そして吉羅理事長も、音楽の力という1点においては、高く評価しているのだろう。
 つまりは、香穂子を、今後の星奏のプロパガンダとして、利用したい、と思っている、ってこと、……か。

「まあ、お前も次から次へといろいろ巻き込まれるものだな」
「うう、そうですね……」

 ため息をついて香穂子の顔を見下ろすと、香穂子はすまなそうな顔をしておずおずと見上げてくる。

「5年後のお前なら、コンミスも相応しい時期かもしれないけど。
 ……ま、今そのことをお前に言っても仕方ないしね」
「やっぱり、断ってこようかな……。あ、でも、吉羅さん、『拒否権はないぞ』って脅してたような……?」
「脅す?」
「だって、あの人、威圧感があるんだもの」
「ま、お前と付き合ってると飽きない、っていうのは事実だな」
「ごめんなさい。でも、柚木先輩にしか相談することできなくて」
「まあいい。それよりもアンサンブルメンバーは決まっているの?」
「あ、そっか。……それも、まだ、です」

 ため息とともに香穂子がつぶやく。
 すっかり困惑している香穂子は愛らしく、お前のどんな顔も見飽きない、と告げたら。
 ── 余裕のない今は、口を尖らせて睨んでくるかもしれない。
 しばらくぼんやりとした沈黙が流れていると、そこへ天羽さんが息を切らして走ってきた。

「香穂ーー。それに柚木先輩。おふたり揃ってて、ラッキー。
 理事長就任式のアンサンブルの件、グッドニュースだよ!」
「やあ。天羽さん、どうしたのかな?」
「あんたのアンサンブルに、これ以上ないっていう相手が立候補してくれたよ。
 森さんと、千田くん。それに、あんたと柚木先輩で、課題曲はクリアできそうじゃない」
「天羽ちゃん……」

 渡りに船、と言わんばかりの表情で香穂子は天羽さんの腕を握っている。

「どう? 天羽菜美のこの人脈を見たか!」
「見た! 見たよ〜! ありがとう。天羽ちゃん……。わ、泣きそうだよ、私……」
「お安いご用ってところだよ。私は、香穂のヴァイオリンのファンだから。
 私がやれることはやる。応援したい人を応援する。それが私のモットーだよ。
 ということで、あとは、柚木先輩、ちょちょいと、よろしくお願いしますね」
「あ、あの、千田くん? 私、日野です。どうぞよろしくお願いします」

 すっかり気が楽になったのだろう。
 香穂子は、さっきとは全く違う明るい表情を浮かべて、顔見知り程度しか知らなかったらしい千田くんに頭を下げている。
 千田という人間は、トランペット繋がりで火原の後輩に当たる。
 音楽科というのは人数が少ないことから、良くも悪くも人間関係は密だ。
 こいつは、確か……。まだ、何色にも染まってない素直な音を出す。
 ……よく言えばクセがない。悪く言えば、個性がない音を出すヤツだったな。
 ま、アンサンブルの人間としては適当な人材かもしれない。……適当、であって、適切、ではないけどね。

「3Bの柚木です。千田くん、だね? どうぞよろしく頼むよ」
「は、はい! 柚木先輩とアンサンブルが組めるなんて、すごく光栄です。ありがとうございます!」

 俺が手を差し伸べると、目の前の男は頬を昂揚させて俺の手を握った。
*...*...*
 放課後の音楽室は、音楽科の生徒が魚のように行き交う場所だ。
 防音のための、少し冷え込んだ空気。薄暗い照明。そんな中、白い制服は、自ら発光している深海魚にも見えてくる。

「よっし。金やん。おれ、先生になるために頑張るよ!
 なんだろ、未来のビジョンが立つと、苦手な楽典もやる気が出てくる!」
「おう。お前さんのいいところは、勢いがあるところだ。まあ、頑張れよ」

 俺は火原と金澤先生の話を聞き止めながら、昨日の家でのやりとりを思い出していた。

『では、お祖母さま、その方向でお許しいただけますでしょうか?』
『いいでしょう。梓馬さんが決めたことなら、今のわたくしは何も申し上げることはございません』
『お祖母さま……』
『大筋の概要は変わってないわけですし。
 柚木の人間であるなら、何事も芸事に秀でていることは、悪いお話ではございませんからね』

 祖母は自室の布団の上に行儀良く正座すると、俺に軽く頭を下げた。
 数ヶ月前の、まだ体調を崩す前の祖母だったらどうだろうと考える。
 けっして、こんな風に、俺が大学に行ってもフルートを続けるなどという話は簡単に聞き届けられなかったに違いない。

 ── 祖母も年を取ったのだ。

 威圧を感じるほどの存在感。自己への、厳しいほどの立ち居振る舞い。
 それが今は、自分の体調と相談しながらの毎日だ。
 自らが守られてきたものを、今度は守っていくのだ、という立場に変わったことは、すなわち、俺の少年時代の終わりを告げていたのだろう。
 この冬からの祖母の様子は、俺に寂しさよりもむしろ、自分の中の湧き上がる力を信じさせてくれたような気がする。

 ── ん? あそこにいるのは……。

 なだらかな螺旋階段を勢いよく走ってくる、普通科の制服。朱い髪に愛しさを覚える。
 何かを捜すようにきょろきょろを視線を揺らして。やがて俺を見つけたのだろう、手にしていたヴァイオリンケースとともに、ぺこりと大きく頭を下げた。
 俺は、聞き役に徹していた火原と金澤先生のやりとりを止めた。

「すみません。急用ができたので、僕はこれで失礼します」
「あ、そうなの? 了解、っと。またね、柚木」
「ああ。火原も受験勉強頑張ってね」

 俺は、適当に話を切り上げると、つかつかと香穂子の近くに脚を進めた。

「なに? お互い見知った間柄なんだ。遠くから見てないで、話に加わればいいだろ?」
「ん……。でも、なんだか、受験生たちのお話、って感じで、入ったら悪いかなあ、って……。
 金澤先生がね、弦の先生を紹介してくださるっていうお話だったから、ちょっと待っていたんです」
「そう? ── で?」
「え? で、って、あの……?」
「お前は、俺の進路の話、聞きたくないの?」

 ずっと、教えない、の一点張りだった俺だったけど。
 ……そうだね。今の俺の気分なら。そして、香穂子になら、話してもいいのかもしれない。

「あ、あの。質問したら、教えてくれるんですか?」

 香穂子は、真剣な眼差しで聞いてくる。
 それも、まあ、正しい反応かもな。
 クリスマスの頃は、何度も尋ねてきたが、そのたびに俺は、さあね、と曖昧な言葉で結論を遠回しにしてきたから。
 けれど。
 口には出したことはないが、俺が音楽と共に生きようと、思えるようになったのは、香穂子の存在が大きかった。香穂子の音色を身近に聞くにつれ、自分の中のフルートへの愛着を感じずにはいられなかったのだから。

「俺は大学は経済学部に進学することに決めたよ」

 香穂子は、一瞬たじろいだ様子を見せて、頷いている。

「……やっぱり、そう、ですか……」
「だがね、それで、音楽を諦めるわけじゃないんだよ。意味、わかる?」
「え?」
「両方手に入れるんだ。家の事業もね、そして音楽も」
「先輩……」
「お前、前に言ってくれたことがあっただろ? 迷うくらいならどっちも手に入れられるように努力する、ってこと。
 案外、お前の言ってたことは正しかったな」

 目の前のこいつと、こんな風になるとはまるで考えていなかった、春の頃。
 俺は香穂子を誘って、行きつけの骨董屋に行き、薄の意匠と紅葉の意匠、相対的な絵柄をあしらった2つの皿の好みを聞いた。
 どっちも決めかねている香穂子に、俺が言った言葉。

『迷うくらいならどっちも、って考え、俺はすごく好きだね。迷うことに時間を費やすほど、人生は長くない』

 香穂子は、あどけない目をして聞いてきた。

『先輩は迷わないの? 音楽と、家の事業と、どっちを選ぶ、って迷わないの?』

 知性も、音楽の才能も。
 俺よりもずっと下にいる、ただ危なっかしいだけの女の子。
 手を差し述べて上げているに過ぎない女の子としか見ていなかった香穂子を、初めて、ひとりの人間として意識し始めたのはあれが初めてだった。
 そして。
 そのときの感情は、ずっと俺の中に息づいている。
 ── こうして、俺の進路を変えるまでに。

 形のない檻としか思えなかった、厳めしい旧家。
 すっかり弱った祖母を見ている間に、少しずつ気持ちが変わっていくのを感じていた。
 檻であったとしても、いつかは弱る。腐っていく。
 それを守り、補強し、新たな風を吹き込むのが、俺の柚木の人間としての役割なのではないか、と。

 俺は香穂子の艶やかな頬を見つめながら話し始めた。

「昔、俺はまだ子どもの頃、好きだったピアノを無理に止めさせられたことがあってね」
「はい……」
「だから、フルートではそんな思いをするつもりもないんだよ。
 ── 両立させてみせるさ。この俺ならできるだろう」

 香穂子は一言も発しないまま、じっと床の一点を見つめている。
 ……この反応は想定外だね。

 俺は香穂子の顔を覗き込むようにして尋ねた。

「どうしたの?」
「── 良かった……」
「香穂子?」
「これからもずっと、柚木先輩のフルートが聴けるんですね。……嬉しいです」

 ふいに、香穂子の俯いていた瞳からは、大きな雫がこぼれ落ちる。

「私、これからも音楽を続けたいって思っています。だから……。
 私が音楽を頑張った分だけ、柚木先輩も近くにいてくれる、って感じることができたら。
 ── すごく嬉しい。あの、……ありがとうございます」

 香穂子はそういうと、まるで初めて会ったときのように、深く頭を下げた。
 先輩後輩、だけじゃない。恋人同士、でもない。
 それは、共に音楽を目指す人間同士、の、清々しいまでの一礼だった。

 素直さ、いうのは美徳に通じるものがある。
 ── 正直、こんなに純真に、こんなに喜んでくれるとは、ね。

 これほどまでに真っ直ぐに自分の気持ちを表す香穂子に対して、俺はまだまだだ、と思うとき。
 それは、やや皮肉さが勝って、こいつに意地悪を言うときだろう。

「……お前ってやつは、まあ……。律儀っていうか、そこが可愛いっていうのか」
「え? なんですか?」


「いや。なんでも。『音楽を続けたい』……そう言い切るからには、後悔しないだけの努力はするんだよ?」
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