*...*...* Anxiety *...*...*
朝方まで降り続いていた雪は、明るさに負けたように、登校する頃には雨になった。今日は吉羅理事長の就任式の日。
トランペットの千田くんと。
去年からずっと私の演奏を手伝ってくれた森さんと。そして柚木先輩と私。
4人のアンサンブルは、今日はどんな音色を響かせてくれるだろう。
「じゃ、お母さん。私、そろそろ行くね?」
他のどんなヴァイオリンとも代わりが利かない私のヴァイオリン。
それと、ドレス。髪飾り。ドレスに見合った靴と、小さなメイクポーチ。
学生とはいえ、今日のような特別な日には、金澤先生も女の子がメイクをすることも許してくれているのかな。
そういえば、今まで叱られたことはなかったっけ。
「えっと……。準備、これでオッケイかな?」
玄関に積み上げた荷物のヤマを見て、詰め込んだ中身を想像する。
ん……。多分、問題はない、はず。
『忘れ物はない? ……って聞いて思い出せたら、忘れ物なんてなくなるよな』
朝一緒に登校するときに、いつもそう気を遣ってくれる柚木先輩は、今日はいつも以上に からかうのかな。
「あら? 香穂子、ちょっと顔色が悪いかしら?」
「う、ううん? お母さん。ありがと。大丈夫」
「そう? 今日は冷え込むようだから、なるべく早く帰ってくるのよ?」
「うん」
私はお母さんに顔を見られないように、ローファーを履くことだけに集中してるふりをした。
普段、おおらかで、細かいことにあまり気が付かないお母さんも、心配そうに私の背中を見ているのがわかる。
どうしよう。だとしたら、やっぱり柚木先輩、気付いちゃうかな。
── 本当に私、どうしちゃったんだろう。
もう、何度もコンクールは経験してきた。
アンサンブルだって、去年の秋から4回もやった。
そりゃ、千田くんは、初めて一緒にアンサンブルを組んだメンバーだけど。
あんなに練習したんだもの。きっと上手く行くはず。
なにより、今日のアンサンブルは、柚木先輩も出てくれるんだもの。
昨日も、学院でめいっぱい練習をした。聴衆さんの拍手もいっぱいもらえた。
夜、柚木先輩からもメールがあった。
なのに、どうしちゃったんだろ。
昨日の夜、私は一睡もできずに、毛布と毛布の間で、寝返りばかり打ってたんだ。
玄関に備え付けの鏡を見つめる。
白目がちょっと赤い。
今日の演奏は全て暗譜してる、けど。
こんな調子で、今日、ちゃんと音譜を追いかけていけるかな……。
今日の会場は、星奏の講堂。
去年のアンサンブルコンサートでは、もっともっと大きな舞台でも演奏した。春にはソロで演奏もした。
なのに……。
どうして、今日は、飲み込まれそうなほどの不安に負けそうになってるんだろう。
車の止まる音がする。
普段通り過ぎる車とはちょっと違う。重みのある音。
走る革靴。この音は運転手さん。ドアが開かれる。
……これは、多分、柚木先輩の車だ。
私は、鼻の頭までくるくるとマフラーを巻くと、玄関を飛び出した。
「おはようございます。柚木先輩」
「ああ、おはよう。……おや?」
「わっ。あ、あの。ごめんなさい! 自己申告します。昨日は眠れなくてっ」
私は会釈をしながらモゴモゴと言い訳をする。
うう、やっぱり。
……目を合わさなくても、バレちゃったのかなあ。
「やれやれ。お前ってウソがつけないタイプ?」
心地よい暖房が入った車に乗ると、柚木先輩はようやく納得がいった、という顔をして首をすくめている。
「は、はい?」
「俺は、『おや?』って言っただけだよ。なにしろ、俺の香穂子は顔を上げてくれないからねえ。
目の色を覗き込むことまで、できなかったよ」
「ん……。なんかよく分からないんです」
私は目の端に指を当てながら言った。
「今までこんなことなかったんですよ?
なるようになる、というか、結構ノーテンキに本番を迎えてたのに。今日はなんだか、緊張しちゃって。
……吉羅理事長がなんておっしゃるかな、とか」
「へえ」
「乃亜ちゃんや須弥ちゃんがすっごく応援してくれて……。その、2人も喜んでくれるといいな、とも思ったかな」
「去年のコンサートと何が違うっていうの?」
柚木先輩は不思議そうに尋ねてくる。
「ん……。自分でも説明がつかないんです。だから、困ってるんです」
窓の外を見る。
夜中に降った粉雪は、雨に打たれて、今は、ほんの少し、木の枝に残っているだけだった。
時折、重さに耐えられなくなったのか、雪は存在を主張するかのように、鈍い音を立てて落ちていく。
私はゆっくりと隣りに座っている人に目を移した。
その人はくつろいだ様子で、アームレストに腕を預けて、興味深そうに私のことを見ている。
鳶色の瞳は、心底私を心配している、っていう感じではなく、ただただ面白そうな表情を浮かべてる。
きっと、こんな私のしょげた顔付きが珍しいんだろう。
生き生きと『観察してる』、っていう言い方が正しいような気がする。
いつもだったら、そんな様子の柚木先輩に私が吹き出して、話は終わるんだろうけど。
どうしてだろう……。わからない。
── まとわりついたまま、離れない緊張感が、素直になるののジャマをしてる。
「ん……。こんな気持ちでコンサートに出るの、初めてです」
柚木先輩は私の脚に手を置くと、丸く出っ張っている膝の感触を楽しんでいる。
つるりとした膝小僧は、自分が見てても可愛いと思う。
……この季節は寒さの中、ちょっと泣きそうになって抗議してくるときもあるけど。
「今日は俺も全力を尽くすつもりだから。── いい子だから、俺を納得させるだけの演奏をしろよ?」
*...*...*
私の心配は杞憂だったのかな?終わってみれば、4人のアンサンブルは、大成功のウチに終了した。
観客さんの暖かな拍手は、私たち4人の宝物だと思う。
一緒にアンサンブルに参加したメンバーの森真奈美ちゃんと、それに、千田くん、柚木先輩の4人で私たちは、
吉羅理事長が準備してくれたリムジンに乗り込んで、理事長就任式のパーティ会場へ向かった。
「香穂〜、すごかったね、あのリムジン! 明日、私、天羽さんに自慢しちゃおっと」
「本当だよ。私、一生のうちで、最初で最後かも!」
私は真奈美ちゃんの問いかけに大きく頷いた。
本当に驚いた。
リムジン、って、車の中に小さな花や絵が飾ってあるんだ。
ひょっとしたら、私の家のリビングの方が閑散としてるかもしれない。
「あ、そうだ。柚木先輩の家にもリムジン、ってあるんですか?」
真奈美ちゃんは、興味津々、っていう顔で聞いている。
ふふ、なんだか、こういうところ、って天羽ちゃんに良く似てるよね。
『報道部、音楽科支部ができたって感じよ〜。
いろいろ聞けるってワケ。月森くんのその後、とか、天使の志水くんはずっと天使のままなのか、とか!』
なんて天羽ちゃんはそりゃ嬉しそうに言ってたのを思い出す。
「そうだね。長兄のところにはあるって話だけど」
柚木先輩は笑みを絶やさず、真奈美ちゃんの質問に答えている。
千田くんは1年生だし、よほど疲れたのかな。
リムジンに乗り込むとすぐ、壁に頭を預けて、目を閉じてしまった。
私は笑いながら頷くと、2人の話に聞き入った。
今日演奏したのは、たった1曲。
拘束時間もそれほど長くないのに。
── なんだか、すごく疲れた気がする。
『顔色が悪いわよ?』
朝、起きたとき、そう言って母さんがいってたのも気になる。どうしたんだろ……。
「日野さん? なんだか顔色が優れないように思うけど……。 大丈夫?」
柚木先輩は、心配そうに眉を顰めると私の顔を窺った。
思えば、真奈美ちゃんが、調子よくこの場を和ませてくれてたから、すっかり聞き役に回ってたっけ。
私は大きく頷くと隣りの真奈美ちゃんに話しかけた。
「あ、あの……。ありがとうございます。大丈夫です。
……ね? 真奈美ちゃん。パーティ、どんな料理が出るかなあ?」
「そうねー。テリーヌ、とか? 生ハムメロン、とか? 楽しみだね! 香穂子」
「うん!」
時計を見つめる。
パーティ開始は、17時。2時間かかったとしても、いつもより早く帰ることができるもん。
私はみぞおちに力を入れると、柚木先輩に笑ってみせた。
*...*...*
パーティは、今まで私が経験したこともないような華やかな会場で行われた。一体どうやってお掃除するんだろう、と思えるような高い高い天井。
何畳、なんて単位では言い表せないほどの広いお部屋。えっと、これって、講堂くらい?
床には、外から履いてきた靴で上がってもいいの? と聞きたくなるような分厚い深紅の絨毯が敷き詰められている。
今まで気安く話しかけてもらってたから、私も普通の先生と同じようにお話してたけど。
吉羅理事長って。……理事長就任、ってすごいステイタスなんだ。
「香穂さん、大丈夫? なんだか頬が赤いよ。そんな君も可愛いと思うけどね」
加地くんがジュースの入ったグラスを手渡してくれる。
「なんか、圧倒されちゃって……。すごいね、人がいっぱい……」
「来賓の顔ぶれはなかなか豪華だよね。僕も何人か見知った人がいるけど。
よくこんなに集まったものだと思うよ」
「そうなんだー」
乃亜ちゃんが話してたのを思い出す。
加地くんは実はすごいイイトコの坊ちゃんなんだよ。
本人からあまり言うことがないからなんだけど、実は柚木先輩と同じくらい、リッチなんだって。って。
周囲は、高そうなスーツを着た人ばかりが、あちこちに固まって談笑している。
生地の艶からして、私のお父さんとはすごく開きがあるような気がする。
すごい。加地くんって、こんなキラキラした人たちの中に、知り合いさんがいるんだ……。
「それでは。新理事長の就任を祝し、今後の大いなるご活躍を祈念して乾杯!」
「かんぱーい!」
年長の方の挨拶とともに、大きな拍手が生まれた。
大人の人たちも小さな子どもになったみたい。
頬を高揚させて、近くの人と肩を組んだり、握手をしたりしてる。
中には、あちこちと走り回ってはぺこぺこ頭を下げてる人もいる。
ん……。よくわからないけど、こういうものなのかな?
「ね、土浦、あれ、すっごく美味しそうじゃない?」
「お、いいですね。俺、実は結構 腹、減ってるんです」
土浦くんや火原先輩はまっすぐにテーブルに向かっていく。
「ふぅん。立食形式もいいものだね」
柚木先輩は、人少なになった私の横に立つと、大人たちの様子を楽しげに見ていた。
「どうしてですか? 私、立って食べるの、どうも苦手で……。
グラスとお皿、どうやって持ったらいいのかなあ、って。それでなかなかお料理に手が出せないんです」
テーブルを見ると、真奈美ちゃんは、グラスを置いて、真剣な目でデザートを選んでる。
あ、そうか。グラスとお皿を重ねてカッコ良く持つ、ということは諦めて、グラスだけ、どこかに置いておけばいいのかな。
「いや。幾人か顔見知りの人間を見かけたから。立食形式のメリットは、派閥が把握しやすい、ってことさ」
「え? みんな、仲がいいから集まってる、ってわけじゃないんですか?」
柚木先輩は私の質問には答えないで、大きなワゴンを押して歩いていたホテルマンを目で呼び止めると、イチゴのデザートを取り上げた。
「ほら。こういう会場では瑞々しい果物が適当だよ。どうぞ」
「わ、ありがとうございます」
銀の器に載せられたイチゴは、どれも粒ぞろいの綺麗な三角形をしていた。
ところどころに顔を出している生クリームがとても可愛い。
そっか。こんな風にてっぺんにミントの葉っぱを載っけると、お互いの色がすっきりして、垢抜けるんだ……。
なんだか、食べるのがもったいないくらい。
「いただきます!」
どのイチゴが一番美味しそうかな、と真剣にイチゴとにらみ合いを続けていると、隣りから笑い声が降ってきた。
「まあ、お前は、そうやって食べ物に目を輝かせていればいいよ」