*...*...* Moment *...*...*
「ねえねえ、柚木、今ちょっと時間取れる? 楽典のここなんだけどさ」
「火原、どうしたの?」
「学科の試験でね、ここが出るって金やんがヒントくれたんだ。でも、全然わかんなくてさ」
「ああ。これは論理的に解釈した方がわかりやすいよ。
 #が3個つくと、A dur で、#が6個つくと、Fis dur。この前の期末にも出たよね」
「あああー、分かってる。分かってるんだけど、なんだろ、覚えるそばから全部忘れちゃってる気がしてっ。
 ありがと、柚木。おれ、もうちょっと頑張ってみる」
「ふふ。応援してるよ。頑張って」

 冬休みが明けてからの昼休みは、こうして火原を初めとしてクラスメイトにいろいろ質問されることが増えてきている。
 今更、受験勉強などをしても、そもそもそれは受験のためだけの小手先の技術を養うことしかできない。
 もっと根本的な、学問を愉しむ、ということまでにはとても手が回らないに違いない。

 火原は、この3年の間、俺が一度も見たこともないような集中力で楽典の教科書を覗き込んでいる。
 火原は、星奏の音楽学部が第一希望だった。
 星奏学院を出ていれば、入学に際し、多少の配慮はしてもらえると考えていたけれど……。
 火原の様子を見る限りでは、どうもそうではないみたいだ、な。

『私、これからも音楽を続けたいって思っています』

 昨日、はっきりと俺に告げた香穂子の目の強さを思い出す。
 多分、香穂子が進学先の第一候補に選ぶのは、この星奏の音楽学部だろう。
 金澤先生から紹介してもらった弦担当の教官も、香穂子に対しては良い印象を持っているようだし、それが無難か。

 だけど……。
 火原が蛍光マーカーで線を引いていた箇所を思い出す。
 学科の方は、3年に入ってからでも何とかなるだろうが、実技、特に、ピアノはあいつ、大丈夫だろうか?

「君たち。まあ、今日の授業は消化授業とも言える淡々としたものだ。
 だけど、別の勉強をするならするで、それなりにしおらしくやってください。お願いしますよ?」

 音楽史の先生はジョークを交えて挨拶すると、早速黒板に向かった。
 午後からは、最早、単位取得のための消化授業のような、内容のない時間が続く。

 俺は受験校の長文読解に目を通す。出題者はどんな意図を持ってこの問題を作ったのだろう、と考えることが妙に楽しい。
 こんな楽しさを味わっている受験生はそれほど数は多くないのかもしれない。

「……なにかな?」

 簡単な推敲を繰り返して作成した文章を解答と比較していると、ふいにクラスメイトに背中を突かれた。
 振り返るとその後ろにいる火原が俺に手を合わせて拝んでる。
 手には、メモ。── もしかして、また、質問、かな?

 俺は苦笑して頷くと、渡された火原のメモに目を通した。
*...*...*
 放課後、俺は昨日のうちに練習室の予約帳をチェックすると、少し遅めに教室を出た。
 練習室は音楽科棟にある。
 普通科から慌てて飛び出してきたとしても、音楽科の俺の方が早く到着するのは目に見えている。

 3年の受験組は、実技の練習に余念がないのだろう。
 もう部屋のあちこちで、いろんな楽器の音が聞こえ始める。
 背中に壁を感じながら、俺が練習室の前で待っていると、香穂子がぱたぱたと小走りで近づいてきた。

「やあ、日野さん、待っていたんだ」
「あれ? あ、柚木先輩、こんにちは。柚木先輩も、練習室、予約されていたんですか?」

 落ち着きがないな、と話しかけながらも、俺の姿を見つけて走ってくる様子が可愛くて、俺の口もつい緩みがちになる。

「ねえ、日野さん。君、今から練習室、予約してあるんだよね? 僕も入れてくれるよね?」
「はい? え? あ、アンサンブル、しますか?」
「じゃあ、失礼するよ」
「は、はい? 待ってください。あの……」

 廊下には、音楽科の制服が行き交っている。
 俺は、仮面を被ったまま香穂子の背を押すと、そのまま練習室のドアを開けた。

「さて、と。ふたりきりになったことだし、やっと気兼ねなく話せるな」
「お話……。んー、なんでしょう?」
「俺は、お前に教育の必要があることに気づいたの。ああ、お前はそこに座れよ」

 俺は、香穂子の肩を押すと、そのままピアノの椅子に座らせた。
 香穂子はワケがわからない、といった風情で、俺のされるがまま、とんと椅子に腰掛ける。

「ここは、静かだし、防音だし。人目にもつかない。……お前に、手取足取り教えてあげられると思ってね」

 俺の表情に何かを察したのだろう。
 香穂子は、ここになってようやく顔を引きつらせると、手にしていた楽譜ごと、パタパタと両手を胸の前で振った。

「あ、ありがとうございます。今は、あの……。その、理事長就任式のためのアンサンブルで手一杯で、その……。
 柚木先輩の教育、っていうのは、またの機会、っていうのはどうでしょう? はは……」
「なにを警戒しているの? そんなに俺が怖い?」

 俺は、じりじりと香穂子に近づいていく。
 椅子に座っている香穂子は、逃げようにも逃げ場がないことを悟ったのだろう。上半身を仰け反らして、目を見張っている。
 俺は香穂子の脇に手を回すと、顔のあちこちに口づけた。

「さて、手始めになにからいこうか?」
「え? なにから……って。……や……っ」
「お前の身体は耳まで甘いな」

 お互い、受験やコンサートで慌ただしい身だけど、これくらいの愛情表現は許されるような気がする。
 俺は最後に唇にそっと自分のそれを押し当てると、香穂子から離れた。

「ああ、いい子だ。今日はお前に最初から教えてあげるよ」
「……え? あ、あの……っ!」
「ふふ、何を誤解したか知らないけど、……ピアノを、ね。教えてあげる」

 胸の中、なおももがき続ける香穂子の耳へ俺は『ピアノ』という言葉を注ぎ込む。
 香穂子は、ようやく納得がいったのだろう、身体の力を抜くと、俺の顔を見上げた。

「ピアノ、ですか?」
「そう。ピアノ。それともなに? 今、お前が想像したことを、俺に教えて欲しかった?」
「── な、なにも想像してないです!」
「……どうだか、ねえ。まあいい」

 俺は、午後からの授業の間に考え続けていたことを話し始めた。

 音楽の道に進むのなら、ヴァイオリンだけを弾いていればいい、というわけではないこと。
 音大に入るならそれなりの知識が必要だということ。
 ある程度ピアノを弾きこなせなくてはいけないということ。
 2年生である今のうちから準備しておくことに越したことはない、ということ。

「段取り8割、っていうだろ? なにごともスタートは早ければ早いほどいいんだ」
「はい……。柚木先輩の言ってること、よくわかります。でも、なんだろ……。
 ずっとね、目の前に降ってくることを払いのけるのに精一杯で、受験、とか、は、まだ遠くにあるモヤモヤしたもの、って感じで。
 ……ごめんなさい。真剣に考えてなかったです。もう、進路のことを考えなくちゃいけない時期に来てるのかな」
「ま、格別に優秀な生徒ってわけじゃなさそうだが、お前の教育の方が、自分の受験勉強よりも面白そうだからな。
 ── というわけで、今度の土曜日空けておけよ」

 香穂子は大きく頷くと、ちょっと不安げにピアノを見つめた。
*...*...*
「ねえ、お前。もう少し、くつろいだら? 脚も崩していいよ?」
「いえ……っ。そういうわけにはいきません」
「やれやれ。甘いものを食べても、ダメ、か」
「あ、和菓子、ごちそうさまでした。初めていただきました。『椿の花衣』って、可愛い名前ですね」
「ああ。なかなか品のいいものだったね」

 口では軽快に話をしながらも、香穂子の膝はさっきから一度も崩れない。
 きょときょとと周囲を見回しては、ほぅっと深い息を吐いている。
 今日はピアノのレッスンだから、と言い置いておいたのが頭にあったのか、今日の香穂子はヴァイオリンを持ってきていない。
 コンクールの間中、香穂子が手にしていたヴァイオリン。
 500g にも満たないあの楽器が、香穂子の緊張を全部吸い取ってくれていたのではないかと思えるほどだ。

 高い天井を見て、息を呑んで。和室の広さに、不安そうに周囲を見回して。
 その様子は、まだ環境に慣れきってない、怯えた小動物を思い出させた。
 ちょっとは動いた方が、却って気も紛れるかもしれない、か。

「ああ、そういえばお前、ちょっとおいで」

 そう思った俺は香穂子を招くと、そのまま、アンティークの調度品を集めた部屋へと案内した。
 手を引いて、長い廊下を歩く。

 ── このまま抱き寄せて、唇を塞げば。
 香穂子の緊張は俺に移って、こいつの不安は少しでも解消するのだろうか。

 そう考えて、俺はかぶりを振る。
 今日の主たる目的。ピアノ、と。こいつの美意識、だった、か。
 それらの技量を持ち上げることが目的だ。
 そうなら、俺も少しは自制しないといけないのかもしれない。

「以前、お前に話したことがあっただろ? 良いものは心の滋養だ、って。
 なんでもいい、お前が綺麗だなと思うものを見る習慣をつけろ、って。どう、できている?」

 香穂子は俺の質問にくるりと黒目を動かすと、なにか思い当たるフシがあったのだろう。嬉しそうに頷いて俺を見上げてきた。

「えっと、そうですね……。アクセサリーが好きでよく見ます。なかなかお小遣いの範囲で買えないけど、見るだけでも楽しくて」
「……そう」
「高校を卒業したら、ピアスを付けてみたいな、とか。ほらよくコンサートで胸の開いたドレスを着てたでしょう?
 だから、ちょっと重みのあるネックレスも素敵だなあ、って思って」
「ま、悪くないけどね。……香穂子?」

 俺は一瞬言葉を止めて、香穂子を振り返った。

「はい?」
「俺はね、美しさに加えて、時間の洗礼、というのをいつも考慮に入れて物事を見るようにしている」
「時間の洗礼?」
「そう。良いものは時間を超えて、必ず次の時代に引き継がれるからだよ。
 今俺たちが夢中になっているクラッシック音楽なんて、18世紀半ばに、ヨーロッパで流行った曲想の一つに過ぎない。
 だけど、今、時代も、国も超えて、夢中になってる人間がたくさんいるだろう?
 俺はそういう存在に対してはそれなりに敬意を払うことにしてるんだ。── ああ、この部屋だよ。入って?」

 こいつを家に連れてきたのは、ピアノを教えるため。それが第一前提だったのに。
 これから何色にも染まりそうな香穂子の無垢な様子を見ていて、俺は気が変わっているのに気づいた。

 音楽だけじゃない。絵画も、美意識も。
 全ての芸術に関する目を、俺と同化させたがっている俺がいる。
 いわば、押しつけにも似たような行為。
 だけどこいつなら……、と、期待にも欲望にも似た気持ちが湧き上がる。

 ここまで豊かな音楽を生み出すこいつなら。
 さらに豊かな環境を与えたら、そのままその豊かさは香穂子の音色に反映されるんじゃないか、と期待したくなってくる。

「あ、はい。お邪魔します……。わ、……こんなに?」
「ちょっとした博物館みたいなものだね。代々柚木の家で引き継いできた品もあるし、俺が買い集めた骨董もある。
 ほら、以前、お前と買い付けに行った、紅葉の意匠の漆器もあるね」
「本当ですね。あれ? でも……」

 香穂子は段違いの棚に置いてある紅葉の漆器をまじまじと見つめた。

「なに?」
「お店にあったときとは何か違うような気がする……。色がこっくりとしてきたような。どうしてかな?」
「そう?」

 俺は漆器を手に取った。
 この秋、折に触れ飾り、手にしてきた漆器は、持ち上げると可愛がった分だけのぬくもりを返してきてくれる。

「まあ、骨董というのは、持ち主の思い入れや可愛がりようで、面輪が変わるものだから」

 なるほどね。こういう違いを、香穂子はもう見極めることができるようになった、ってことか。

 過分な期待は、時に緊張感を生む。
 ── 今の香穂子なら、俺にどんな音を聴かせてくれるだろう。
 日に日に手応えを感じる香穂子に対して、少しでも、どんな形であってもいい。
 ……こいつの中に、俺の足跡を残していけたら。

「……さ、そろそろ、ピアノの練習に向かおうか? ……ん?」
「はい?」

 ざわめいた空気に、首を傾げる。
 玄関の方から、人のざわめきが聞こえる。耳の聡い人間でなければ聞こえないような微かな音。
 車が走り去る。小幅な足音は、和服の女性。これはお祖母さまではない。多分、祖母の知り合い。
 ……来客か。
 そういえば、今朝、そんな話を聞いた気がする。

「── ああ、そうだ。今日は3時から来客があるんだった。残念だが今日はここまでだね。車で送っていくよ」

 女の子を家へ招き入れただけでも十分夕食時の話題と、小言になるのは分かり切っている。
 ましてや、ピアノを鳴らせば、香穂子の音色では一瞬のうちに俺が弾いているのではないことが分かってしまうに違いない。

 香穂子は一瞬不思議そうに首を傾けて、やがて、人の気配に気がついたのだろう。
 さっきまで見せていた、俺への親しさや、くだけた様子を一変させると、再び怯えたような強ばった表情を向けた。

「あ、あの。今日はいろいろ見せてくださってありがとうございました。嬉しかったです」

 その引き締まった空気に距離を感じて、俺は香穂子を抱き寄せた。

 ── 香穂子が帰る原因を作っているのは俺の方なのに。
 寂しそうな香穂子を見ることが寂しいと思う。
 そして、寂しいと思うその気持ちは俺の方が強いんじゃないかとさえ思えてくる。


「── お前さえいい子にしていたら怖いことなんてないよ?……大丈夫。さ、帰る準備をしておいで?」
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