*...*...* Anxiety 2 *...*...*
「おや……? すまないね。挨拶だけはしておかなきゃならない大人に会った。ちょっと行ってくるよ」「はい」
「帰りはなるべく早めに送ってやるから。あまりムリするなよ?」
柚木先輩は小声で囁くと、軽い足取りで、群衆の中に入り込んでいく。
全然物怖じしてない後ろ姿に、やっぱり生まれ育った環境ってあるのかなあ、なんてぼんやり感じる。
「そうだ。何か飲み物、もらおうかなあ……」
不思議。
さっきまで緊張が解けなかった、就任式の会場。
少しずつ、飲み物と食べ物を口に入れている間に、気持ちが落ち着いてきた。
周囲は、いかめしい大人の人ばっかりだったけど。
私を含めた小さな輪は、去年の春から、ずっと気心しれた人ばかりだもの。
大丈夫、よね?
「香穂ちゃん! イチゴ美味しかった?」
火原先輩が、胸の下あたりをさすりながら、私に話しかけてくる。
その様子は、まだパーティが始まって間がないというのに、もう、お腹いっぱいごちそうを食べ尽くした、って感じが漂ってくる。
火原先輩って、本当に大きな子どものような人。音色と一緒の、気持ちのいい人だな、って思う。
だって先輩を見ると、私の頬は自然に緩み出すんだもの。
「はい。すごく甘くて。食べるのがもったいないくらいでした」
「へえ。なんだか、いいよね。女の子とイチゴって」
「はい?」
「可愛い、って感じがしない? 女の子に1番似合いそうな果物って気がするよ」
「あはは。そういえば、そうですね」
このごろ、毎日勉強ばっかりだ、って、グチってた火原先輩だけど、
今日こうして話す限りでは、去年までと全然変わらない気がする。
そうだ。今度、火原先輩の受験勉強に役立つモノ、贈れたらいいな。
蛍光ペンとか、付箋紙とか。購買でなにかいいのを見つけたら、チェックしておこう。
「君たち、ちょっといいかね? あ、私は星奏理事の1人なんだが」
ざわついた雰囲気の中、いかめしい声がかかった。
どうやらその声は、不特定多数に向けられていたらしい。ちょっと大きめの、威圧感のある声だった。
「あれ? なんだろ、香穂ちゃん」
「ん……。なんでしょうね?」
私と火原先輩は目配せして頷き合う。
こういう合図、ってなんだか嬉しくてこそばゆい。
この合図、乃亜ちゃんや須弥ちゃんからしてみると、『なんか、メチャクチャ卑猥』っていう見解をもらうけど。
1度でもアンサンブルメンバーになった仲間同士では全然、そんな感じはしない。
むしろ、演奏中は、いつも当たり前のように使っている言葉、が、全く意味をなさないから。
こうして、目や、態度、気持ちで、想いを伝えなきゃいけないもん。
バスケの話で盛り上がっていた土浦くんと加地くんが、おや、と言いたげに顔を上げた。
中年の恰幅のいい男性は、自分と視線が合ったことに頷くと、威圧的な態度で私たちを回し見ている。
「君たちの中に、市の音楽祭のオーケストラでコンミスを務めるお嬢さんがいるそうだね。
しかも、なんと普通科だそうじゃないか。……一体 誰かな?」
人混みとお酒で、少し酔ってるのかな? 舌足らずな言い方が却って凄みを増している。
普通科……。コンミス?
……これって、もしかして、私のこと……!?
火原先輩が私の顔を見て、うんうんと頷いた。
(大丈夫だよ。香穂ちゃん。『私だ』って言っても)
優しい気持ちで、そう、言ってくれてるのはわかる。
だけど……。
私は、目の前の理事さんの態度に不安を覚えて、フルフルと首を振った。
── なんだか、怖い。
『普通科の』っていう、言い方が……。
ふと、学院内で練習してたときのことを思い出す。
『普通科のクセにでしゃばらないでよ』
『目立ちたがり屋なのよね』
── あのときと同じ空気なんだもの。
私の気持ちを察したのか、加地くんも土浦くんも、足元を見つめたまま何も言わない。
月森くんは、全てを私に委ねてくれているような穏やかな瞳で私の方に顔を向けてくれている。
1人、冬海ちゃんだけが、両手を握り締めて、おろおろと理事さんと私を交互に眺めている。
沈黙が続く中、理事さんの光った靴先が、神経質に慌てたリズムを取っている。
いたたまれなくなって、私は一歩前へと脚を出した。
「あ、あの! 私です」
「……君は?」
「あ、あの。コンミスを務める予定の日野、といいます……」
初めまして、って言えばいいの? よろしくお願いします、なの?
どういっていいのか、分からない。私はとりあえず頭を下げた。
だけど……。
理事さんは一言も発さず、冷ややかな目で、下から上へと舐めるように私を見つめている。
「あの……?」
「きみか。……普通科のきみが、ねえ? 一体全体、なんの酔狂だか。あの新理事長サマも」
「はい……」
「はっきり言って、迷惑だよ。私は、きみの存在がね」
「騒がしいですわね。え? この生徒が、例の普通科のコンミスなの? まあ、なんてこと!」
背後に立っていた女の理事長さんも加わって、2人の大人は私を睨み付けてくる。
まるで私は『普通科』のラッピング用紙でくるまれているお菓子みたいだ。
見ただけで、嫌い。受け付けない。中身を見ることなく、指先で弾かれてる。
テーブルの向こう、柚木先輩が急ぎ足で近づいてくるのが見えた。
どうしよう……。視界が滲んできてる。
「どうかしましたか? 生徒たちが何か問題でも?」
甲高い女性理事の声は、よほど目立ったのだろう。
近くのテーブルで談笑していた吉羅理事長が、私たちと理事さんたちの間に立った。
理事さんは格好の獲物を見つけた、って感じで、吉羅理事長に矢継ぎ早に厳しい言葉を投げかけている。
慌てたように金澤先生も飛んできた。それに都築さんも加わって、冷静な口調で対抗している。
待って。……私が3月にやるコンミスって、こんなに、たくさんの大人が絡んでるの……?
── 怖い。
ちゃんとできるのかな? 失敗したら? もし、オケのメンバーが集まらなかったら?
もしも。もしも、考えたくないけど、失敗しちゃったりしたら?
私だけじゃなくて、今、必死に私に加勢してくれてる、吉羅理事長や、金澤先生、都築さんまで。
さっき私が感じたような厳しい目で見られることになるの?
どうしよう……っ。
「普通科ですが、ヴァイオリニストとしては優秀だ、ということです。
私が今、一番彼女に聞きたいのは、コンミスをやる意志があるか、という一点に絞られています。
どう? 日野さん。コンミスをやる意志はあって?」
理事さんたちを取りなしていた都築さんは、話を簡潔にまとめると、私の方に向き直った。
都築さんには、今、改めて私の意志をもう一度確認しておきたい、という気持ちもあっただろうけど。
何よりも、理事さんたちの意見を押しとどめるのは、あなた自身なのよ、という強い目の力を感じる。
そっか……。
自信がない、とか、怖い、とか、言ってる場合じゃないんだ。
今、この場を取りまとめるのって、私しかいない。
みんなの視線が私に集中する。
月森くんの強く頷く仕草や、加地くんの怒ったような顔も見える。
志水くんが柔らかに微笑んでいるのもわかる。
金澤先生が固唾を呑んで見守っているような顔は、初めて見たような気がする。
── 頑張れ、自分。
「あの……。私、コンミス、やります!」
私は顔を上げると、2人の理事さんに向かって告げた。
普通科だけど、私はヴァイオリンが好き。ここにいてくれるみんなが好きだもん。
普通科、っていう入れ物だけで、私を判断して欲しくない。
*...*...*
「なに、疲れた顔してるの?」「えっと……。今日は、疲れてない、って言ったら、ウソになります」
笑いながら応酬する、パーティからの帰り道。
私はたくさんの荷物を運転手の田中さんに積んでもらって、柚木先輩の車の中にいた。
「……確かにな。アンサンブルを奏でてから、パーティの余興で、もう1曲、だからな。
その前に不愉快な茶番もあったし」
「はい……。あの時はありがとうございました。音を合わせてくださって、助かりました!」
柚木先輩と一緒に奏でた、『優しき愛』
1人で必死にヴァイオリンを奏でても、柚木先輩と演じたデュオほど高い評価は得られなかったと思う。
即興とはいえ、柚木先輩のおかげで、なんとか拍手がもらえるレベルの演奏になったんだもの。
「ま、お前を引き立てるくらい、俺ならわけないことだからな」
「でもね、せっかく柚木先輩が素敵な演奏をしてくれたのに……」
最後の最後まであの2人の理事さんは、吉羅理事長にイヤミを言い続けていた。
『コンミスに求められるモノは、一演奏者とはまた違いますからな」
『失敗したときのリスクはお高いですわね』
『この子の代わりの、コンミスなりコンマスなりを用意しておくことを推奨するよ』
今度のオーケストラって、今までと何が違うんだろう、と考える。
それは私1人にかかる責任の大きさ。影響の大きさだろうと思いつく。
春のコンクール。
上手く行くのも行かないのも、全部自分に跳ね返ってきた。自分対自分。とてもシンプルな世界だった。
秋のコンサート。
ちょっと世界が広がった。けれど、アンサンブルメンバーと私とは、同じ大きさ分の責任を背負えば良かった。
困ったら、打ち明けて。悩んだら相談すればよかった。世界は学院の中に閉じていた。
そして、今度の春のオーケストラ。
もっと世界が広がった。しかも、コンマスって、オケのメンバーの1人とは、全然違う。
広く、大きな責任。しかも秋のアンサンブルメンバーはオケには入ってくれない。
失敗したら、あんなに庇ってくれてた、吉羅理事長や、金澤先生、都築さんにも迷惑をかけちゃう。
「迷惑、かけたくないんですよね……」
自分だけに閉じちゃう世界なら、それでいい。これからに生かせばいい。
だけど……。
自分が原因で、味方になってくれた人たちがガッカリするの、って見たくない……。
柚木先輩は小さく笑うと、私の手を取った。
「── 意味もなく前向きで。だからこそ運を引き寄せるのがお前だろう?」
「い、意味もなく、なんですか?」
思わず吹き出してしまう。
これじゃあ、一体、褒められてるのか、貶されてるのかわからない。
「馬鹿。注目すべき点は、後半のフレーズだろう?」
とん、とん、と一定のリズムで撫でられる手の甲が気持ちいい。
笑う私に釣られるようにして、柚木先輩は、自信たっぷりな笑みを零した。
「うまくいくに決まってるさ。……俺がついているんだから」
「はい……」
「ま、気休めでもそう信じていれば? 少しは気が楽だろうから」
その日の明け方に夢を見た。長い長い夢。去年の春からの夢。
おかしいな……。コンサートが終わった夜は、眠りにつく瞬間も覚えてないほど寝付きがいいのに。
音楽に触れたことのない私が、突然リリからヴァイオリンをもらって。
その日から、私の毎日は音楽でいっぱいになった。
ときには、手厳しいことを言ってくる人もいたけど。
私の近くにはいつも、私のことを分かってくれる仲間がいた。
だから、それでよかった。
私の世界は、ごく一部の大人とたくさんの高校生に囲まれている、とてもささやかで大切な空間だった。
以前、私に、どうしてコンミスを勧めるのか、吉羅理事長に聞いたことがあったっけ。
『簡単なことだよ。日野君。君はファータが見える。それが必要十分条件だ』
『はい?』
『いささかやっかいな連中であることは事実だがね。私はそれでも彼らの見る目をそれなりに評価しているんだ』
口ではぶっきらぼうなことを言いながらも、どこか懐かしそうな目をして、励ましてくれたことを覚えてる。
それが……。
昨日、理事さんたちに言われた言葉を思い出した途端、夢の中のはずなのに、背中に冷たい汗が流れていくのを感じた。
『きみか! きみが、ねえ……』
蔑むような、低い声。
上から下まで這うような、視線。
その視線は、むき出しになっている肌のところで止まった、って思うのは、考え過ぎかな。
『普通科の生徒にコンミスを? 冗談も休み休みおっしゃっては?』
深紅の唇の動きだけが、記憶にある。そんな夢。
そんな唇と、今、目の前にいる、都築さんのスカーフの色が重なる。
「日野さん? ぼぅっとしてないで。話は聞いてる?」
「は、はい!」
私は意識を集中させて、都築さんと吉羅理事長の顔を見つめた。
あ、そうだった。今は昼休み。私、理事長室に呼び出されてたんだ。
「次回のアンサンブルコンサートの要項だ。目を通しておいてくれたまえ」
「はい」
ぼんやりしていた頭を振ると、慌てて吉羅理事長から渡された要項を覗き込む。
えっと……。
2月14日。市民ホール、3曲。
聴衆を320人以上集めること、難度19以上の曲を2曲。評価はSS以上。
頭の中でカレンダーをくくる。今日は1月22日。だとすると、もう1ヶ月もないの……?
秋のアンサンブルのときを思い出す。今まで、3曲選曲のときは、少なくても仕上げるのに1ヶ月以上の時間があったのに。
私の表情を見て取ったのか、都築さんは冷静な口調で話し続けた。
「忙しくなるわね。あなた。
コンサートの準備はもちろんのこと、オーケストラの準備も平行してやってもらわなきゃならないから」
「はい」
そっか。コンサートの準備だけじゃないんだ。オーケストラの準備もあるんだ。
どうしよう。絶対的に時間が足りない。私に足りないところが多すぎるから。
── 間に合わないかもしれない。
顔色が、自分でもすっと蒼くなったのがわかる。
できない、なんて言っていられないのはわかってる。でも、できないかもしれない。
どうしよう……。
『期待に背いたときの人の視線に、お前は耐えられるのかな?』
以前、自嘲気味につぶやいていた、柚木先輩の口元を思い出す。
昨日の、みんなの顔。金澤先生の取りなし。吉羅理事長のフォロー。
── 優しかったみんなが、背中を向けて遠ざかっていく気がする。
私の考えを見透かしたように、都築さんは強い口調で言った。
「時間がないのは事実。でもね、時間なんて要は使い方よ。
弱音を吐いてる暇でもあったら、せいぜい練習に励んでちょうだい」