*...*...* Confusion *...*...*
 朝、一緒に登校したときには、昼休みを一緒に過ごそうという話だったが、どうしても抜けられない用事ができたらしい。
 昼前の休み時間に、『ごめんなさい。1人で食事、お願いします』という香穂子からの連絡が入った。
 俺はカフェテリアで軽い食事を取ると、窓の外の風景を眺めた。

 ── 不思議なものだ。
 あいつと付き合い出す前の期間と、付き合いだしてからの期間。
 その長さを単純に比較すれば、前者の方が遙かに長いというのに。
 今の俺は、隣りに香穂子の存在を感じないで取る食事が、ひどく味気ないものに感じる。

 窓の外、凍りつきそうな空に向かって立つ枝には、枯葉が1枚もついていない。

『外で練習するの、好きなんです。今は、正門でよく練習するんですよ。
 音楽科の人と普通科の人、って、少しだけ、聴いてくれた時の反応が違うことがあるんです。それが面白くて!』

 香穂子はそう言って笑うけど、窓の外をよく見ると、細枝は北風に吹かれて微かに先端を揺らしている。
 演奏し始めると、暑いとか寒いとか関係なく、ヴァイオリンに集中するあいつのことだからな。
 今日も適当な時間に正門に行って、切り上げさせるか。

 今日は4時から、練習室の予約を取っている。
 ヴァイオリンの練習に忙しい香穂子だが、俺がいうピアノ課題は問題なくこなしてくる。
 ── 身体を求めるのはまだ先のこと、としても。
 こと、あいつの音楽の世界において、俺の足跡をあいつの中に残せたと思えるのは、俺にとっては幸せなことだった。

「あれ、柚木のお昼ってこれだけ?」

 ちょうど近くを通りかかった火原は、連れの友人に合図を交わすと、俺の近くにやってきた。
 そして空になった皿を見て、不思議そうに首を振っている。

「ああ。あまり食べ過ぎてもね。午後からの授業に差し支えるでしょう?」
「うー。おれも気をつけなきゃ、だよね。この頃、遅くまで勉強してるせいか、午後からの授業、眠くてほとんど覚えてないよ」
「ああ。演奏は腹八分目、っていうけど、頭を使う受験勉強に関しては、六分目ぐらいが適当かな?」
「え? そうなの? マズい……。おれ、腹一杯食べちゃったよ……」

 火原は目の端を指先でこすりながらあくびをする。
 と、突然、眠りが冷めたかのように、表情を一変させて笑いかけてきた。

「それにしても昨日の香穂ちゃんと柚木、すごかったね。あれ、即興でしょう??」

 火原は、昨日の理事長就任式のパーティでの俺と香穂子の演奏を思い出したのだろう。目を輝かせている。
 食べ物と、音楽と。俺は火原の眠気を吹き飛ばすのはこの2つ、っていう事実を内心微笑ましく感じていた。

 ま、……音楽科の人間なら、大抵のやつがそうだが。
 楽典などの学科と、演奏などの実技。どちらが好きかと問われれば、大抵の人間が実技を選ぶだろう。

 音楽を作るのが好き、聴くのが好き、というのが、音楽科への最初の入り口だからだ。

「ああ。……あいつがすごくビクビクしてたから心配だったけどね」
「ううん? 柚木のフォローが良かったからかな。おかしいとこ、どこもなかったよ!」
「そう? 耳が良い火原にそう言ってもらえると嬉しいよ」
「そうそう。そう言えば、柚木は香穂ちゃん経由でもう聞いてるのかな?」

 火原は、手にしていたペットボトルを口に含むと、勢いよく液体をノドの奥に流し込みながら言った。

「ふふ、どんな用件なのか聞かないとわからないよ」
「あ、そっか。って、おれもさっき天羽ちゃんに聞いたばかりなんだけどね。
 2月14日にね、香穂ちゃん、2回目のコンミスの試験があるんだって。
 えーとどうだったかな……。アンサンブルを3曲くらい仕上げるって話だったけど」
「へえ、そう。僕はまだ聞いていないな」
「天羽ちゃん、自分のこと、早耳の天羽、すっぽんの天羽ですから、って豪語してたからなー。
 もしかしてこの情報も今日の午前中の話だったのかもね」
「そう? でも教えてくれてありがとう。……やれやれ、大変だね。日野さんも」

 俺は少し冷めた紅茶を飲み干すと、火原と一緒に、使い終わったトレーを下げに行った。
 火原は、きょとんとした顔で俺を見ると、いたずらっぽく笑っている。

「『大変だね……』って、そんな。香穂ちゃんには柚木がついているんだから大丈夫でしょ?」
*...*...*
 どんよりと湿り気を増した雲が広がる放課後。
 俺は火原の言っていた、2月14日に行われるというコンミスの試験の話を、香穂子から直接聞きたくて、正門前に向かった。

 去年の春のコンサート。香穂子が俺を捜す姿を見るのが、俺は結構好きだった。
 もちろん誰にも言ったことはない。香穂子にさえも告げたことはないけれど。
 ── それが、今は、俺が香穂子を捜す、ということの方が増えている。

 屋上から始まって、正門。練習室。講堂。
 あいつの音色はどこにいたって、一番に飛び込んでくるから。
 素朴で優しすぎる音色。
 今年になってからは、香穂子を見つけるたびに、音楽科1年の生徒の姿まで必ず見かけるようにもなった。

 彼らにあって、俺にないもの。そして、唯一つ俺が羨ましく思うもの。
 それは、音楽科1年の彼らには、まだ香穂子と過ごす高校生活という時間があるということ。
 ── ま、それを今悔いたって仕方ないけどね。

「とぼけないで!!」

 突然、勇ましい声が飛び込んでくる。
 女のヒステリックな声っていうのは、どの楽器の音域にも存在しないのではないかと思うほど聞き苦しい。
 それが冬にも深い色を見せる正門の植え込みの影から飛び出してきた。

「柚木サマのおうちにご招待されるなんて、あなた、どんな汚い手を使ったの?」
「そうよそうよ。あんたなんてまさか、あの柚木サマと特別親しい間柄ってわけないでしょうし」
「あなた、自分で釣り合ってるとでも思ってる? 図々しいのよ!」

 キンキンと響く声の中、自分の名前が飛び出してきたことで、俺は我に返る。
 もしかして、これは……。言われている相手は、香穂子?

「ごめんなさい。……私、ただ……」
「ただ、なによ? 続き、言わないとわからないでしょ?」
「親切にしてもらってるだけ、だと思う。だから……」
「そうよねー。改めてあんたに聞くまでもないと思ったわ。
 ……柚木サマは誰にでも親切でいらっしゃるから、きっとあんたがつけ込んだんでしょ。しおらしいフリして。
 いい? これ以上あの方に近寄らないでよ! 約束しなさいよ」
「はい」

 木の陰、香穂子が手にしているであろうヴァイオリンケースの先が揺れている。
 頃合いだと思い、俺は、一歩足を踏み出した。

「ずいぶんにぎやかだね。どうしたの?」

 その途端、いつも俺の近くにまとわりついている新見と伊部は、弾けたように後ろを振り返った。

「君たちなにか、誤解しているようだけど……。僕はただ少しでも彼女の役に立てればって思っただけだよ?」

 その言葉に、目の前の女たち感激したようにお互いの顔を見て頷きあっている。
 香穂子の表情は分からない。さっきからずっと靴のつま先を見つめているかのように俯いたままだ。

「ともかく……。彼女が音楽の知識を身につけるまでもう少し見てあげないとね。
 良かったら君たちも手伝ってあげてくれる? さ、日野さん。僕たちも練習を始めよう?」

 彼女たちは簡単に俺の口車に乗ると、口々に俺への賛辞を舌に載せ始めた。
 ……香穂子への牽制も忘れずに、だ。

「まあ、なんて優しい、柚木サマ……っ」
「……柚木サマがそうおっしゃるなら仕方ありませんわね。
 いいこと、日野さん。柚木サマがお優しいからって馬鹿な勘違いはするんじゃないわよ。いいわね!!」

 香穂子は一言も発せず、下を向いている。未だに表情は見えない。
 2人の女の影が遠ざかった後、俺は苛ついた声で尋ねた。

「なに? お前。せっかく助けてやったのに礼はないわけ?」

 湧き上がる不快感が押さえきれなくて、やや低い声で尋ねる。

 一体俺は何に腹を立てているのだろう。
 こいつの不満そうな態度か? 煮え切らない様子か。
 それとも、俺の周りの人間への接し方が結果として、こいつを傷つける結果になったからか。

「俺はね、今まで積み上げてきた信用を、貶める気はないよ。それとも、俺の行動の仕方に不満でもあるのか?」

 香穂子の口元が固く結ばれている。
 そんなに噛みしめたら、さぞ痛いだろうに、と俺はこの状況とは全然関係ないことを思ったりする。
 やがて香穂子はおずおずと首を横に振った。
 それは俺の行動の仕方を否定するでも肯定するでもない、ぼんやりとした仕草だった。

「お前、だいぶん混乱しているようだな。お前にはっきり言っておくけど……。
 俺は自分のこれまでの高校生活を変えるつもりはないよ。だから、お前は、今の俺を受け入れるしか選択肢はない」
「はい……」
「……こうしていても時間が無駄になる。── ほら、教則本」

 俺は手にしていたピアノの教則本を香穂子へと手渡した。
 今日は、以前から約束をしている、ピアノ練習の日だった。

 香穂子は俺の声に条件反射のように手を伸ばす。
 しかし、俺が渡そうとした瞬間に、怯えたように手を引っ込めた。

「お前……っ」

 ばさり、とピアノの教則本が、音を立てて香穂子と俺の間に落ちた。

「あっ……、ご、ごめんなさい!」

 香穂子ははっと我に返ったように本を取り上げると、しばらくの間、手の中に納めている。
 しかし、やがてかしこまった表情を浮かべて、本を俺に返してきた。

「……柚木先輩、あの……。お返しします」
「これが、お前の答え? ……どうして……?」
「今は、ちょっと無理みたいです。先輩の言ってるとおり、混乱してる。もう、いや」
「香穂子」
「ピアノも。音楽も。ヴァイオリンも、アンサンブルも。コンマスも、全部、……全部!」
「おい……っ」
「私にだけリリが見えるから、ってどうしてみんなそんなに私に期待するの? 見える私が悪いの? どうして?」

 香穂子の声が高くなる。
 こんなにも感情を乱した香穂子を見たのは初めてだった。
 周囲の人間が興味深そうに振り返る。俺は香穂子を庇うように、木の茂みに体を押しやった。

「落ち着けよ、少し」
「私にできることなら、って頑張ってきたけど。柚木先輩の立場、っていうか、言ってることは良くわかるの。だけど……」
「香穂子」
「好きな人のこと、周囲の人にも認めてもらいたい。……私がそう思うことは間違ってるのかな……。
 柚木先輩の考えだと、間違ってるんですよね……」

 最後の言葉は涙声で掠れて聞こえない。
 香穂子は涙で濡れた頬を隠そうともしないで、俺を見つめた。
 笑おうとして笑い切れなかった口元は、震えながら固く結ばれている。


「今日はもう帰ります。ありがとうございました」

 香穂子はそう言って一礼すると、柳館へと走り出した。
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