*...*...* Confusion 2 *...*...*
 ── 練習、しなくちゃ。

 吉羅理事長の話を聞いてから、というもの、午後からの私は放心状態だった。

 練習時間は限られてる。午後3時から6時。
 どうしても1曲仕上げるのに1時間は必要で。
 1日、どんなに頑張っても3曲しか仕上がらない。
 その間で、1人練習もして。2人練習も。アンサンブル練習も、する。

 サックス演奏者さんも見つけなきゃいけないし、みんなの意見も取りまとめなきゃいけない。
 その間に、コンミスのことも勉強しなきゃ、いけない。

「できるかな……」

 不安が独り言になって口から飛び出してくる。
 ……ううん。
 不安が、なんて言ってる間に練習、しなきゃ。練習しか、私を助けてくれないもの。
 でも、そう考えている頭の片隅では、少しだけ、『自信』へとつながる糸が見え隠れしてる。

『うまくいくに決まってるさ。……俺がついているんだから』

 そうだ。私には、いつだって、何気なく気を配って励ましてくれる柚木先輩がいる。
 だから、大丈夫。
 音楽の知識だって。物事を的確に処理していく賢さだって。
 柚木先輩が近くにいてくれたら、きっと、私、大丈夫。

 今日の放課後はどうしても練習室の予約が取れなくて、私はずっと正門前で練習をしていた。
 日差しが暖かい。西の空の黒さは、明日の天気を教えてくれる。
 明日は、確か練習室を押さえてあったはず。
 私は予約が取れない天気が、自分の予定にしっくり合ってたことに満足すると、新しい曲の楽譜を開いた。

「ねえ、ちょっとあなた!」

 今は、自分の習熟度を高める時期だと思う。
 練習したらしたで、見えてくるモノがあるはず。

 えっと、この曲は、弦の四重奏。あれ、加地くん、弾けるかな? あとで、練習依頼を出しておこうかな……。
 なんだかんだ言っても、加地くん、最後には頑張ってくれるんだよね。だから、今度のコンサートもきっと大丈夫だよね。

「あなたよ、あなた! そこの、あ・な・た!」
「は、はい?」

 慌てて顔を上げる。目の前には白い制服の伊部さんと新見さんが腕を組んで近づいてくるところだった。
 視線が、私の額へとまっすぐ投げかけられている。あれ? ってことは、私を捜してるの……?

「私?」
「そうよ。あんたよ。他に誰がいるっていうの?」

 ふと周りを見渡す。
 そっか。演奏中って、肩にも腕にも力が入るから、ちょっとした運動をしてるような気分で、あまり寒さは感じないけど。
 演奏が終わってしばらく経つと、聴衆となってくれていたみんなは、寒々と肩をすぼめて校舎へと向っている。

 確かに新見さんの言うとおり、あたりには私1人しかいない。
 もし、新見さんが正門の木々たちとお話できる、っていう不思議な能力がない限り、これは、私に対して話しかけてる、のだろう。

「聞きたいことがあるんだけど、いいかしら? ……あんたに聞くって言ったら、柚木サマのことくらいしかないんだけど」
「はい? 柚木先輩のこと……?」

 ぴくっと身体の表面が強張ったのがわかる。
 えっと……。なんとなく、この親衛隊さんの2人が尋ねること、って見当がつく。

 今まで、柚木先輩との間で、私と柚木先輩の関係について、話し合ったことはなかった。
 この前のクリスマスから、なんとなく一緒にいる時間が増えて。── キスをして。

 けれど私は、須弥ちゃんや乃亜ちゃんのように、周囲の友達に柚木先輩のことを話そうとはしなかった。
 柚木先輩も、親友の火原先輩に伝えた、というわけではなそうなのを知って、
 なんとなく、今のままで、過ごせたらいいな、って思ってた。

 ── そう。今のままで。
 いつか、2人の気持ちが自然に同じ方向に流れていけばいいな、って。
 そして、いつか、柚木先輩が火原先輩にも私のことを話してくれて。
 私も、須弥ちゃんや乃亜ちゃんに、柚木先輩のことを、普通の恋愛話として話せればいいな、って思っていた。

 伊部さんは、今まで私が見たこともないような鋭い目付きをして私を睨んでいる。

「ファンクラブの会員から報告があったのよ。あなた、ゆ、柚木サマのご自宅に、お邪魔していたって話じゃない。
 あなた、一体どんな汚い手を使ったの!?」

 えっと……。
 私は、自分の中で何度も練り直した回答を告げる。
 えっと、付き合ってるとか、そんなんじゃなくて。今は、この2人が納得できる、回答。
 ── そして多分、柚木先輩も望んでいるだろう、回答を。

「ごめんなさい。……私、ただ、親切にしてもらってるだけだと思う」
「やっぱりね!」

 2人は満足げな表情を浮かべて頷くと、再び私を睨みつける。

「本当に図々しいんだから。いいこと? これ以上あの方に近寄らないでよ。
 なによ! しおらしいフリして、調子に乗って!」

 私は、聞いててあまり嬉しくない言葉を黙って聞き続けた。

 ── ね。私、あまり時間がないの。本当に、時間が欲しいの。
 今度のコンサートまで、あと1ヶ月ないの。……ここで時間を無駄にできないの。

 胸に抱きしめていたヴァイオリンが、みしりと鈍い音を立てた。
 私はなぜだか、ヴァイオリンが一緒に泣いてくれているような気がして、更に強く抱きしめた。
*...*...*
「ずいぶんにぎやかだね。どうしたの?」
「あ、ゆ、柚木サマ」
「柚木先輩!?」

 ふいに、緑の木陰から柚木先輩が顔を出した。
 途端、伊部さんと新見さんは、さっきの彼女たちとは別人のような、優しい、明るい顔になって柚木先輩を仰ぎ見ている。
 彼女たちからの説明を大体聞いた後、柚木先輩は優しい笑顔を浮かべて2人を取りなした。

「君たちの言いたいことはよくわかったよ。
 だけどね。今はともかく、僕は彼女が音楽の知識を身につけるまで、もう少し見てあげたいと思ってるんだ。
 よかったら君たちも手伝ってあげてくれるかな」

 黙りこくっている私の横、柚木先輩は2人を取りなすと、私の方にも笑顔を向けた。

「日野さんも、わからないことがあったら、彼女たちに聞いてみるといいよ」

 彼女たちは、私にだけにわかるように傲慢な笑みを浮かべると、これ以上なく柚木先輩に微笑みかけた。

「わかりましたわ。柚木サマがそうおっしゃるなら仕方がありませんわね」

 新見さんは、それでもまだ怒りが納まらないのか、凄みを増した低い声で言い捨てていく。

「柚木サマがお優しいからといって、勘違いするんじゃないわよ。いいわね!」

 2人は肩を怒らせて、校舎へと向かう。
 けれど、思いがけず柚木先輩と話せたことが嬉しかったのだろう。
 足取りはさっきよりも軽やかで、華やかさに満ちていた。

 元々人少なだった、正門。
 遠くからこのやりとりをみていた人たちも、普通科の私が分からないところを、音楽科の2人が指導した。
 それをさらに、上級生の柚木先輩が指導した。そんなありきたりの日常が過ぎていったんだ、と思うだろう。

 ……そう。柚木先輩って、人を取りなす、というか、そういう雰囲気のある人だから。
 だけど、今は。

 ── わからない。
 どうしてこんなに、胸が痛いのかな。

 余裕がなくて。自信がなくて。
 けれど、自信がない、って言っていられないことは分かっていて。
 理事長就任式のパーティのことを思い出す。

 あんなに必死に庇ってくれた、金澤先生。私以上に怒ってくれた、加地くん。
 冷静な大人の対応で取りなしてくれた、吉羅理事長や都築さん。

 みんなの気持ちを裏切りたくなくて。

 私の気持ちの拠り所は、1つ。

 ── 柚木先輩。この人がいてくれたら、私は、大丈夫。
 ただ、それだけだったのに。

「なに? お前。せっかく助けてやったのに礼はないわけ?」

 柚木先輩は黙りこくっている私に、イライラした口調で尋ねてくる。
 私は、顔を上げて、柚木先輩の顔を見つめた。

 今、私の心の中に浮かぶ気持ちはなんだろう。
 私自身が、柚木先輩と付き合ってることを否定したこと?
 ううん。そんなの、わかってたはずだよね。

 今、強く感じること。
 それは、柚木先輩と確かに繋がってる、と信じていた心の糸が、鈍い音を立てて切れちゃった、ってことだと思う。

「俺はね、今まで積み上げてきた信用を、貶める気はないよ。それとも、俺の行動の仕方に不満でもあるの?」

 私はぼんやりと首を振った。
 胸の奥からは、痛みしか感じない。身体の傷の方がどれだけ楽だろう。

 いつもだったら、笑ってやりとりできる会話。
 今度はどうやって親衛隊さんの目から逃げよう? なんて、冗談を交えながら話せること。
 なのに……。
 痛み、ってあんまり強いと、身体が麻痺しちゃうのかな。痛みさえも感じなくなってくる。

「今日はピアノの練習日だろ? こうしていても時間が無駄になる。── ほら、教則本」

 柚木先輩はやれやれといった風に遠くを見つめると、もう一度私に目を遣って、手にしていた本を手渡した。
 無意識のうちに伸ばした私の手は、一旦、教則本を受け取ったものの、寒さに負けたように縮んだ。

 背表紙を下にして教則本が落ちていく。
 一瞬だけ開かれた楽譜の中には、綺麗な字で細かい書き込みがしてあった。
 何箇所か付箋紙が貼ってある。
 きっと、それは、私のことを思って柚木先輩が書いてくれたもの……。

「あっ……、ご、ごめんなさい」

 私は我に返って、地面に落ちた本を取り上げると、抱きしめた。
 幸いなことに、地面のレンガは湿ってなかったから、特に汚れもない。
 どこか折れた、とかそういうわけでもないみたい。

 ── ね?
 音楽から、離れてしまえば、今の私はもっと楽になれる?
 そうしたら、もう、柚木先輩と付き合う前に私に戻れるの?
 この教則本も。

 柚木先輩に返してしまえば、ピアノから、音楽からも、そして、柚木先輩からも逃げられる?

「……柚木先輩、あの……。お返しします」

 私は教則本の向きを直すと、柚木先輩に差し出した。

「……これが、お前の答え?」
「今は、ちょっと無理みたいです。先輩の言ってるとおり、混乱してる。もう、いや。
 ピアノも。音楽も。ヴァイオリンも、アンサンブルも。コンマスも、全部、……全部!」
「おい……っ」
「私にだけリリが見えるから、ってどうしてみんなそんなに私に期待するの?
 見える私が悪いの? どうして?」

 どうしてこんなに悲しいんだろう。
 気持ちの拠り所にしていた人のことを、第三者からじゃなくて、本人から、はっきり否定されるのが、こんなに辛いとは思わなかった。

「好きな人のこと、周囲の人にも認めてもらいたい。……私がそう思うことは間違ってるのかな……。
 柚木先輩の考えだと、間違ってるんですよね……」

 心持ち青ざめた柚木先輩の顔を、私は遠い廃墟を見るような気持ちで眺めた。

 ── ダメ、だなあ。私。
 コンミスを引き受けたのは私自身、なのに。
 いつも甘やかしてくれるこの人に。頼りすぎてたのかな。甘えすぎてたのかもしれない。

「今日は私、帰ります。ありがとうございました」

 私は一礼すると、ヴァイオリンを手にしたまま、校舎へ向かって走り出した。
←Back