*...*...* Distant *...*...*
 もう、何日あいつに触れてないんだろう。
 身体だけじゃない。── ちょっとした笑顔にも。のびやかに奏でる音色にも。

「おはようございます。梓馬さま。……今朝もいつもと同じ進路でよろしいですね」

 毎朝、運転手の田中は律儀に尋ねてくる。
 田中は柚木の人間の指示に従うのが仕事だ。
 俺が、香穂子の家を通らない、と言えば、それだけの話。
 田中には肯定の返事しか返せないのだから、多分俺がそう言えば黙ってハンドルを切るだけだろう。

 だけど。──俺は想いを馳せる。
 あの、律儀で真面目な香穂子のことだからな。

 俺は黙って香穂子の家を通り過ぎたときのことを想像する。
 それは不思議なことに、たった今、目の前で見せられている映画の情景のように思い浮かぶ。

 香穂子は、泣きそうな顔をして、ぎりぎりの時間まで、自宅の門の前に立っている。
 白い頬と、口から生まれては消えていく吐息と。

 来るか来ないか。俺が迎えに来ると信じる気持ちと、迎えに来ないのかも知れないという不安と。
 2つの気持ちのせめぎ合いの中で、きゅっとヴァイオリンケースを握りしめているに違いない。

 そこで俺はため息をつく。

 香穂子が突き返してきた教則本は、俺の自室の机の上に置いたままだった。
 あれが、香穂子の俺に対する答え。ピアノも、そして俺自身も否定する、という答え。

 なのに、俺はどうして香穂子に固執し続けて。こうして自宅まで迎えに行き。
 そして、香穂子はどうして、俺の車を待ち続けているのだろう。

 俺が否定も肯定もせずに窓の外を見ていると、田中は何かを感じ取っているのか、黙ってハンドルを切った。
 香穂子の自宅に向かうための細い道。
 車窓から流し見ると、香穂子の小さい影が見えた。
*...*...*
 昼休み。
 わざわざカフェテリアまで食べに行くのも億劫で、俺は適当に飲み物だけの昼食を済ませると、自席に座って入試問題集を捲っていた。

 如何にして、優秀な生徒を取るか。

 どこの大学もそれなりに考えて問題を作っているのだろうが、毎年バラエティに富んだ問題を作るのにはムリがあるのだろう。
 それとも、この手の問題に固執する教授が、象牙の塔には居座り続けているのかも知れない。

 大学の二次試験の出題傾向というのは、それぞれの大学のカラーが出ていて、かなり興味を惹かれる。
 とはいえ、出題を解かないで、出題者の意図を考えているような受験生は、この時期それほど多くはないだろう。

「ゆっのきー。わっ! 机、蹴っちゃった。質問質問! あのさ、ここの現代文なんだけど……」

 ぼんやりと思考を巡らせていると、火原が問題集を持って、勢いよく俺の席へと走ってきた。
 最近の火原の集中力は本当に目を見張るものがある。

「どうしたの?」
「入試にさ、現国があるってこと、知ってはいたんだけど、すっかり後回しになってたんだ。この問題、教えて!」
「どれ? ……ああ、これは問題を良く読まないとわからないね。少しだけ問題集を貸してくれるかい?」

 俺は笑顔を作って火原の問題集を受け取ると、例文に目を通す。

「わー。助かる! ここなんだ!」

 火原はほっと安心したように、俺の前の席に座ると、何かに気付いたように俺の顔を見つめた。

「……あれ? なんか、柚木、元気がないことない?」
「いや。そんなことはないよ。ほら、ここの例文がヒントになる」
「あ。そっか。ここね……。って、あれ? あそこにいるの、香穂ちゃんじゃない? おーい、香穂ちゃーん!」

 香穂、という名前の響きに、やり切れない思いが浮かんでくる。
 香穂、って。……まさかあいつがこの教室に来たのか?

 あの日以来。
 俺は1度も香穂子の教室に行ったことは無かったし、それは香穂子も同じだった。
 放課後の練習に付き合うこともなかった。
 帰り際に、たまたま正門で会えば話をし、会わなければ、そのまま。
 そんなことを1週間も繰り返していた。

 今となっては朝の登校だけが、香穂子と一緒にいられる唯一の時間でもあった。

 そのあいつが、今更、どうして?

 ゆっくりと2拍数えてから顔を上げると、廊下のドアのところで、香穂子は火原に向かってぺこりと頭を下げていた。
 火原は香穂子に二言三言なにか話しかけたあと、ちょいちょいと俺に向かって手招きをする。
 ── 俺、に?

「……やあ、どうしたの。僕たちになにか用かい?」

 上ずった声を出さないように、と口元を引き締める。
 飛び出した言葉は、俺の予想以上に白々しかったのかもしれない。
 火原が、おや? とでも言いたげに眉を上げた。

 香穂子は硬い表情のまま、手にしていた茶巾寿司を目の前に差し出した。

「あの、今日、調理実習があって、茶巾寿司を作ったんです。あの、これ、良かったら……」
「あ、そうなの? 柚木に差し入れでしょう? いいなー。柚木ってば。
 ああ。だから、今日柚木は、お昼、飲み物しか摂ってなかったんだね」

 火原の声に、香穂子は心配そうに顔を上げた。
 1週間ぶりに見る、香穂子の正面からの顔。
 俺は、さりげなく視線を外すと、香穂子の後ろにある窓の景色を見続けた。

 俺と、香穂子と、火原、と。
 その3人は今、確かに教室の片隅で談笑している、というのに。
 響いてくるのは火原の声ばかり。

 茶巾寿司はまだ香穂子の手に納まっている。
 持ってくるのに精一杯で、香穂子は次にどういう行動を取るとか、どんな言葉を投げるのか、なにも考えていなかったのだろう。
 ぼんやりと俺と火原を見つめている。

 さすがに火原もおかしいと感じたのか、俺に向き直ると口を尖らせた。

「あ、れ……? 柚木、どうして黙ってるの? 香穂ちゃんに、お礼、言わないの?」
「いえ、私、勝手に持ってきただけなので……」

 火原の剣幕を取りなすように、香穂子は胸元に持っていた茶巾寿司を握りしめた。

「いや。少し驚いて。けっこうな品だったから。でもせっかくだから受け取らないとね」

 俺は、茶巾寿司をつまみ上げた。
 香穂子の指と俺の指が微かに触れあう。
 ひんやりとした香穂子の指からは、これだけのことをするのに、どれだけ緊張していたかを伝えてくる。

「あ……」

 口元では微笑みながらも、俺の目は笑っていなかったのだろう。
 香穂子は、何かを確かめるかのように、俺の目の中を覗き込んだ。

「日野さん、どうもありがとう。それじゃそうだね。あとで火原と一緒にいただくことにするよ」
「……はい」

 自分の内で、言いたくても口に出せない言葉が沸き上がってくる。

 ── 最初に、俺を拒絶したのはお前だろう?
 俺を拒絶して。ピアノのレッスンも拒絶して。
 俺の周りの人間への接し方自体に不満があると言って、拒絶したのは、お前なのに。

 ……女ならどれも大抵同じ。
 俺という偽りの入れ物に近づいてくる女には事欠かない。

 正直、香穂子は、俺の周りにはいない、ちょっと珍しいタイプだった。
 だから、興味本位で近づいた。
 大体、俺に興味のない女を、引き留めるなんて、俺の趣味じゃない。

 ── なのに、どうしてお前はまたそうやって俺に近づいてくる?
 俺に、そっけなくされて。……どうして、しょんぼりと心細そうな顔をするんだ。

「柚木、なに言ってるんだよ」

 俺と香穂子のただならない雰囲気を察したのだろう。
 火原は、香穂子を守るように俺に対して向き直ると、怒った声を上げた。

「どうしてそんなそっけないの? なんか柚木らしくないよ!」
「……そう?」
「このお寿司、柚木のために、柚木に食べてもらおうって、香穂ちゃん、わざわざ持ってきてくれたんじゃん。
 一生懸命な気持ち、おれにだって伝わってきたよ。賢い柚木のことだから、そんなこと、わかってるでしょ?
 わかってて、そんな言い方、ひどいよ」
「火原先輩! あ、あの。いいんです。ごめんなさい。私、頼まれもしないのに勝手に持ってきたから……」
「香穂ちゃん。柚木を庇うこと、ないよ」

 俺と香穂子と、火原と。
 いつも3人でいるときの空気は、穏やかで、満ち足りたものだった。
 だから、俺たちが組むアンサンブルはいつも聴衆の関心を集めたし、俺たち自身も奏でていて幸せを感じた。

 だけど、今のこの雰囲気は、ぎこちない不協和音だけを奏でて続けている。

 俺は香穂子を見つめ、火原は俺を睨み付けている。
 そんな俺たちを取りなすかのように、香穂子は火原と俺を等分に見つめている。
 クラスメイトたちも不思議そうに、俺たちの様子を振り返る。

 俺の手は茶巾寿司に向かって、ゆっくりと進んだ。

 ── もう、ケリをつけないとな。
 今日の午後の授業は、確か自習だったか。
 今から少しだけ香穂子を連れ出して、はっきりと告げよう。
 こういう膠着状態は、精神衛生上好ましくない。

 朝の迎えはもうやめる、ということ。
 そして。お前も、もう、必要以上に、俺の近くに来ないように、と告げること。
 そう切り出せばすむ話。

 お互い、もう顔を合わせるのはあと数ヶ月に過ぎない。
 だから、それだけの話。
 ── いつかただの笑い話になる。

「日野さん?」

 と言いかけたそのとき、廊下の向こうから走り出した人影が、俺たちの間に飛び込んできた。
 影は真っ先に俺の姿を認めると、黄色い声をあげる。

「柚木サマ。今、お時間はよろしいかしら?」
「柚木サマに和菓子の差し入れですの。私、家で頑張って作りましたわ」

 俺はすまなそうな笑顔を作ると、火原と香穂子に告げた。

「ああ。人が呼んでるみたいだ。僕はちょっと失礼するよ」

 ── そう。俺に近づいてくる女には事欠かない。
 香穂子なんて、数ある女のうちの一人なんだ。

「ヘンなの……。柚木、いったいどうしちゃったんだろ」
「いえ。突然お邪魔したから、迷惑だったかも。火原先輩、ごめんなさい」
「あ、香穂ちゃん?」
「わ、午後の授業始まっちゃいますね。じゃあ、私、お邪魔しました」

 影たちの嬌声に紛れながら、小さい声でつぶやく火原の声と、走り去っていく香穂子の足音が聞こえる。

 これで、── いいんだ。俺は俺の生き方が間違っているとは思わない。
 和菓子と、茶巾寿司と。2つの包みを持って俺は席に着いた。

 少し遅れて入った教室では、クラスメイトはみんな間近の目標へと向かって、それぞれに真剣に参考書に向かっている。
 ちらりと斜め後ろの席に目を遣ると、火原はさっき俺が教えた問題に熱心に取り組んでいる。

『まあ、茶巾寿司? なんだか不格好ですわね』

 影が悪しざまにののしった香穂子の茶巾寿司は、よく見ると、卵焼きの上に、指で握りしめた跡が付いている。

 さっきの香穂子の泣きそうな顔を思い出す。
 すぐ受け取ってやればよかった。そう、もう少し、余裕を持って。
 ── 大人げない、よな。俺も、こんなに了見の狭い人間だったとはね。

 絞りの梅の花をイメージさせる、見た目は申し分ない出来映えの和菓子と。
 香穂子の不安で握りしめられた、ちょっと傾いだ茶巾寿司。
 2つが机の上、じっと俺の顔を見つめている。1つは自信たっぷりに。1つは泣きそうになりながら。


 ── あいつは俺に、どうされたいんだろう。
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