*...*...* Classmate *...*...*
息が苦しい。みぞおちを、ごつごつとした男の人の指で握りつぶされているような気がする。
深く、ぎりぎりまで息を吐けば、次に吸い込む空気は、今よりほんの少し多くなるのかもしれない。
そう思って息を吐く。途端に、口からは白い雲が生まれては消える。
── どうして。
あんな風に気持ちをぶつけ合った今になっても、柚木先輩は、毎朝私を迎えに来てくれて。
そして。……私は、寒空の下、来てくれるかどうか分からない人を待ち続けているんだろう。
音もなく、滑るように黒塗りの車は私の家の門前に横付けになった。
田中さんが運転席から飛びだしてくる。
そして私に頭を下げると、後部座席のドアを開けた。
「あ……!」
……今日は笑って。そう、笑って、今までのように……。
そう念じて、おそるおそるドアの隙間を見つめる。
確かに重なり合ったはずの視線は、微笑み返されることなく、互いに交差した。
「おはよう。……さ、乗って」
斜め上にある口角が、微かにあがってるのは、わかる。
「はい……。ありがとうございます」
「ああ、僕はちょっと体調がすっきりしないから。今日はこのまま眠らせてもらうよ」
車に乗ってすぐ、開口一番 柚木先輩はそう言うと、私の方を見ようともしないで、窓の外に目をやった。
自然とも不自然とも取れる沈黙が流れる。
今日の天気のような、どんよりとした空気の中、田中さんの真っ白な手袋がハンドルを丁寧に扱っている。
「そういえば……」
柚木先輩は窓の外を見たまま、だるそうにつぶやいた。
「はい。なんでしょう?」
「今度のアンサンブルは、3曲演奏するんだったな。選曲は決まったの?」
「はい。大体は……」
今度のアンサンブルは難易度19以上の曲を2つ。そうなると、楽譜選びも自然と限られてくる。
ただ……。
自分でも気づかないうちに柚木先輩から影響を受けていたのだろう。
フルートの旋律が綺麗だな、と思う曲が、私の選曲の基準になっていた、から。
私が選んだ3曲全てに、フルートパートが入っていた。
柚木先輩に、2人練習をお願いすれば、拒否されることはなかった。
理事長就任式以前の明るい、楽しい、という感じがまるでなくて。
半ば、泣き出しそうになりながら練習してる。……そんな感じだった。
── 認めてもらえない。好きな人から。
言葉にしてしまえば、とてもシンプル。
頭では分かり切ってること。
なのに、その事実を受け取る心の方は、何度も同じことを反芻してはそのたびに泣き出す。
こんなに冷たくされても。
どうして私は、この人から目が離せなくて。
── どうして私は、この人に向けて『好き』という気持ちが止まらないんだろう……。
そっと隣りの座席に目を遣ると、外を見ているとばかり思っていた柚木先輩と目が合った。
鋭く、射るような瞳の強さは、やっぱり、教則本を返したことを怒っている、という事実を伝えてくるのに十分で。
……私はまた泣きたくなった。
「梓馬さま、日野さま。では今日もお気を付けていってらっしゃいませ」
田中さんの挨拶に押されるようにして、今日も正門前に降り立つ。
ファータの影と一緒に、2人の影が長く西に伸びた。
*...*...*
今日の午前中は調理実習だった。朝から、エプロンだの三角巾だの、材料はどうするだの、教室のあちこちで明るい声が飛び交う。
湯気で家庭科室中のガラスが曇っていく。
ところどころ、自分の重さに耐えきれなくなった水滴が、窓にどんどんストライプの線を作った。
出来上がった茶巾寿司を、嬉しそうにクロスで包む友だち。違う班の子に見せる友だち。
三角巾のせいで髪型が乱れちゃった、と大急ぎで鏡を覗き込む友だち。みんなそれぞれで、見てて楽しい。
「香穂子! 今日の調理実習、大成功だったね!」
「あ、乃亜ちゃん」
「これも香穂子のおかげかな。あんた、手際がいいから」
「えへへ、チームワーク、バッチリだったよね?」
「いや、なんて言っても香穂子の卵焼きのおかげでしょう!」
乃亜ちゃんはスリスリとラップの上から茶巾寿司を撫でている。
優しい黄色の卵焼きで包まれているお寿司は、乃亜ちゃんの白い手にちんまりと抱かれていた。
『お寿司、って主婦にとっては、とてもラクなお料理よ?
見栄えがするし。あとは汁物くらい用意すれば、それでいいんだもの』
ってお母さんが豪語することもあって、私の家ではよくお寿司が並ぶ。
作り慣れているから、かな。
確かに、私と須弥ちゃん、乃亜ちゃんの班の卵焼きは、どの班よりも薄く、綺麗にできていた。
……けど、ぼんやりと考えごとをしていたせいか、私はただ機械的にたまごをせっせと焼いていた、って感じで、
出来映え、なんてほとんど見てなかったんだよね……。
今、改めてよく見ると、ふわりと薄焼きタマゴが被せられたお寿司は手鞠のように愛らしくて、今まで一度も傷ついたことない女の子のようにも見えてくる。
乃亜ちゃんは嬉しそうな顔をして、私の耳に口をあてた。
「ようし。ここは一つ谷くんに差し入れしてあげよう!
香穂子。あんたもさ誰かに食べてもらったら? できれば和食の良さが分かる人にさ」
「うん……」
「あんた、2月のアンサンブル、頑張ってる最中でしょ? そうだなー。コンクールメンバーなら……。
土浦くんは、手厳しそうだからパスしたいとこだよね。
火原先輩っていう人だったら、喜んで食べてくれそうだけど、和食って感じじゃないか。
『香穂ちゃん! すっごく美味しかったよ。ねえねえ、もっとないの?』って言いそうじゃない?」
「あはは! 似てる似てる!」
声だけじゃなく、表情も真似る須弥ちゃんに笑ってしまう。本当にそっくりで驚いた。
今度、この物まね、火原先輩本人の前でやってもらおうかな。
私はそう告げると、乃亜ちゃんは『火原先輩の物まねを見たときの火原先輩』なんてバージョンも即興で真似て笑い転げている。
この1年。ずっと、ヴァイオリンヴァイオリン一辺倒だった私を通して。
須弥ちゃんと乃亜ちゃんは、アンサンブルメンバーのことをかなり詳しく知ってると思う。
2人は、音楽をやりたいという私を、ゆったりと受け止めてくれて。
以前より遊びに行く機会が減っちゃった今も、応援してくれて。
本番には私の大好きな食べ物を差し入れしてくれて。そして最前列で応援してくれる。
須弥ちゃんは、内田くんから聞いた知識をわかりやすく教えてくれたりもする。
── なんだか、忘れていたな……。
柚木先輩が、好き。自分のその気持ちだけで十分だったのに。
彼は彼ができる範囲の中で、精一杯、私のこと、大事にしてくれてたのに。
笑い声を立てるたび、重かった気持ちが軽くなっていく。
ひとしきり笑ったあと、乃亜ちゃんは真面目そうな表情を浮かべた。
「……なんてね。香穂子が本当に渡したい、って思う人に渡すのが1番だよ。柚木先輩に渡しておいでよ」
乃亜ちゃんは、私の渡したい人なんてお見通しだよ、と言いたげに笑っている。
「ん……。乃亜ちゃんはいいなあ」
思わず飛び出した本音に、私は慌てて口を塞いだ。
わ、なに言ってるんだろ、私……。こんなこと、言うつもり、なかったのに。
乃亜ちゃんと谷くんは、本当に仲がいい。
本当に、普通の高校生の普通の恋、って感じがする。
クラスのみんなに認められて。どこへ行くのも一緒で。
ちょっぴりミーハーな乃亜ちゃんのこと、谷くんは、どこまでも乃亜ちゃんが好き、って感じで優しく見守ってる。
私は乃亜ちゃんにはなれないし、柚木先輩は谷くんにはなれない。
全然違う人間なんだから、違うお付き合いの形態もあるの、わかってる。
だから、比べてもしょうがないけど……。
「香穂子? あんたの沈んでる原因ってもしかして? なに? ケンカ?」
乃亜ちゃんは周囲に目を遣ると、声を潜めた。
「ん……。なんかね、いろんな気持ちがもつれてて、よく分からないんだけど。ケンカ、なのかなあ……」
「って、なに? もう、長いの?」
「ん。1週間くらい、かな……? あ、あのね、でもね、挨拶はするのよ? 練習も。
だけどなんとなくそっけない、っていうか……。無駄な話はしない、っていうか」
当たり障りのないことを言いながら、自分でも核心を突いた話はしていないなあ、って考える。
そっけないこと。無駄話をしないこと。それら全部には理由があるって、1週間過ぎてみて思う。
柚木先輩の学院での立場、よく分かっていたハズなのに。
余裕がなかった私は、認めることができなかったんだ。
納得することを諦めて、音楽と、柚木先輩が関わる全てのモノから逃げたい、って思っちゃったんだ。
諦めようとするそばから、湧き上がってくる、あの人へ続く気持ちを、押さえきれないの、分かってるのに。
「香穂子……」
「あ、ごめんね。暗い話しちゃって。乃亜ちゃんは、ほら、谷くんに渡してくるんだよね。いってらっしゃい」
乃亜ちゃんは一旦立ち上がったものの、もう一度椅子に座り直すと、じっと私の目を見つめた。
「至上命令」
「はい?」
「香穂子、あんた、例の人に、その茶巾寿司、渡しておいで」
「乃亜ちゃん……」
「ちゃんと話し合ってきなよ? 話し合ったって分かり合えないことも多いんだから。
だって相手は、自分とは違う人間なんだもん」
いつも明るいばかりの乃亜ちゃんが、こんなこと言うなんて……。
私の表情を見て何か感じたのだろう、乃亜ちゃんは苦笑を浮かべると、淡々と言葉を繋げていく。
「私だってさ、谷くんといろいろあったよ?」
「はい??」
「あいつってさ、ノリが軽いと思う。あと、可愛い子が好きなんだと思う。あと、気が弱いんだと思う。
あと、これは、決定的、かな。この年の男の子ってまだまだ女より幼いんだと思う」
これって、えっと……。谷くんの、こと、だよね?
「乃亜ちゃん、そんなスラスラと……」
「まあねー。私も許容範囲が狭いとは思うわよ。
だけど、デートしてるとしょっちゅう、『あ、あの子、可愛い』とかね、『あのお姉さんもいい』とか。
そういうことばっかり言うんだもん。さすがに滅入ったこと、あったよ」
「それで? どうしたの?」
「言ったよー。ちゃんと。谷くんのそういう態度、私、あまり好きじゃない、って。私のこと、見てて、って」
「す、すごい。乃亜ちゃん……。情熱的だ」
「って、香穂子。そこで茶化さない」
乃亜ちゃんは私の頭を撫でると、掌に茶巾寿司を握らせた。
「気持ち、伝えておいで」